世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?~経営における「アート」と「サイエンス」~ (光文社新書) [Kindle]
- 光文社 (2017年7月20日発売)
- Amazon.co.jp ・電子書籍 (228ページ)
感想・レビュー・書評
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正解の導き方や正解がコモディティ化する。その通りだと思う。でも、美意識を起点に事業化する難しさもある、半分以上がその人の美的感覚に頼るから、一部の人から共感、共生を広める手法が大事たね。自分にとっての美意識がらわからん。
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論理性や生産性にもとづいて発展してきた現代社会に不足しているのは美意識であり、これに注目したものが次の高みに到達できるという内容だ。おおむね述べられていることには賛同できる。
そもそも現代の日本は何かに追われるかのように社会をつくりあげ、目的もないままに経済的成功を幸福だと信じ込んできた。すべてが定量化できると信じ、その基準の一つが経済的な価値であった。それは現代人の多くの人の判断基準である。
しかし、かつては一部の才人にしかできなかったことが、情報共有の恐ろしいスピードによって瞬く間に陳腐と化してしまう。その中で生き残れるのは他とは違う価値観が内包されているもの(こと)だけだというのだ。その価値観を身に着けるためには真善美のレベルを上げていかなくてはならない。ここに文学や美術などの芸術鑑賞の素養が求められてことになる。
行き過ぎた効率主義への反省や、これからの人生のあり方、産業界が目指すべきものなどを考えるきっかけになる。 -
マッキンゼーに代表される「サイエンス」型、つまり計測可能な指標を示し、合理的に解を出す経営判断は、たたき上げの職人の長年の経験しか頼れない「クラフト」型が主流だった前時代には有効であったが、皆同じ手法を使えば、当然解はコモディティ化する。その段階での差別化はスピードかコストの消耗戦であり、それが無茶な達成要求の「空気」で粉飾を生み出すような現在の日本企業が伸び悩む所以である。そこから抜け出すには、内部、個人が持つ評価基準、つまり「アート=美意識」が重視される。デザインやクリエイティブに重要な「思い切って捨てる」ということは、経営でも同様に本質的で、コンセンサス重視では不可能な、「真・善・美」の選択により、既存のルールや評価基準を変容させることができる。特にエリートは社会最適合者であり、社会システムの恩恵を受けているため、ルールを変えることで便益を失うかもしれないが、ヒッピーや学生運動、カルト教団等が外部から改変できない以上、理想的な社会の実現に向けて試みる必要がある。具体的には、絵画や音楽の観察力、哲学のコンテンツではなくプロセスやモードで批判的に社会を見る姿勢、詩の比喩等のレトリックな表現で説得力や理解力を促す、など多岐にわたって必要とされる能力が美意識である。
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目から鱗の連続であった。
美意識に基づく道徳観や倫理観、目標を掲げ経営を行うことにより成長した企業やその逆が書いてあり、美意識の大切さを痛切に感じた。 -
自分はあまりビジネス書の類を読んでおらず、本書を読み始めた時もカタカナ語の多さに困惑した。
ジャンルに慣れていないからか「なるほど」となる内容が多かった。
本書は乱暴に要約すると「アート、サイエンスのバランスが大事」という内容だったが、仕方ないところではあるが一人の人間に頼ることになる不均衡さと、机上の空論を脱していないように思えた。 -
音楽や美術を好む自分にとっては耳ざわりのよい、心地よい主張。トップマネジメントが美意識を持つべきというのも同意。人間性、ヒューマニティーが問われる現代。
留学して、他国出身のクラスメイトと初等教育の話になると、日本の義務教育では音楽や図工など、美意識を身につけさせるベースとなる授業が全員に行われる一方で、他国では意外と芸術系科目が全員のものではない、という印象。先日みかづきを読んだせいもあり、日本の教育の理念として、エリートだけではなく皆に美意識のベースを習得する機会を与えようとしているのでは、と思う。
哲学については、西洋教育での位置付けと比べると、日本の哲学教育は限定的。高校までの教育での出番は少ない。アスペン研究所でも、鈴木大拙など、日本の哲学者が多く取り上げられているだけに、もったいない。
同時に哲学重視の西洋側からの、オリエンタリズム的視点も感じる。
つづく -
章ごとに前章のおさらいがかかれていて、わかりやすかった。
VUCAと呼ばれる世界において、論理的なスキルだけでは限界があり、意思決定において美意識が求められることが理解できた。
また、美意識を高めるためにアートや哲学、文学や詩が有効であることがわかった。