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- / ISBN・EAN: 4988111253538
感想・レビュー・書評
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NHKの追悼特集で視聴。
教授の音楽と思考の歩み(映画音楽に重きを置いているけど)をざっくり追うこともできる作品。
世界の坂本だったんだなあということもよく分かった。
ご本人は政治的な発言は最初は封印していたとおっしゃっていたけれど、
音楽も確かに人間活動の一部だから環境や政治経済とは切り離せないとは思うのだが、あまりそちらの道に走らず音楽で追究できることに絞ったほうがよいように思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
Metrographが催してくれた追悼上映シリーズを通して鑑賞できたのは計四本、その中で本作は一旦売り切れ状態だったものが平日夜に上映を追加する形で売り出してくれているようだったので喜んで飛びついた次第。で、結果として四番目に鑑賞することとなった本作はこの上ないエンディング作品となってくれた。
「コーダ」という記号は音楽の授業で習ってはいたものの、改めて今その定義を問われると回答できなくなってしまっている自分に気づく。以下ネット検索の引用:
「フーガやソナタ、交響曲などで、楽曲や楽章の最後に付される部分。終止を完全にし、曲のまとまりをもたせる効果を持つ。終結部。結尾部。」
そうか、それが5年前に作品として撮られていたということか。まことにありがたい。
映像に収められた数々の教授のご機嫌な笑顔が美しい。お気に入りの音に出会えたとき、意図する音が再現できたとき、彼はわかりやすいほどの表情をもってその喜びを表してくれるのだが、それは本ドキュメンタリーの監督だからこそ引き出されたものなのかもしれない。
The Last Emperor (1987) には当初俳優としてのみお声がかかっていたという話は読み知っていたのだが、その撮影中に監督に懇願されて一曲書き上げその場で楽団にも指示を出して撮影に挑むようなことになってしまったという話がまぶしく、更にそれに追い打ちをかけるように撮影終了後別の仕事でニューヨークに滞在していた際に「映画音楽全般を」とのオファーが来たもんだからその週末で75曲ほどを書いて翌週ロンドンに飛んでそのままレコーディングまで進むことになってしまったというエピソードに至ると完全に常軌を逸してしまっている。教授御本人も「若かなきゃできっこない話だけどね(笑)」とおっしゃってはいましたが…。
音が素晴らしい作品。BGMとしてずっとループ再生しておきたいような気持ちにさせられた。まじめに実現を考えてみよう。
エンドクレジットにこの街で交差した顔なじみの方のお名前を見つけられたのもまた至福の瞬間であった。 -
玉の海 俺これまた玉の海
へーそれで
コシヒカリ 俺これまたコシヒカリ
へー
坂本教授も 小室哲哉も
小室等でも持ってなーい
で、おなじみの、教授のドキュメンタリー映画『CODA』。codaはイタリア語で「尾」、楽譜にも記す音楽の終結部のこと。たぶん教授が癌になったから。
(音楽好きな人はご存知だろうけど、ツェッペリンのボンゾが死んだ後の最終アルバムも『CODA』。あんまり関係ないけど、教授は『未来派野郎』の時にPILの影響で、ツェッペリンの全アルバムを聴きなおしたんだとか。それと、83年のアルバムで、教授はすでに一度『Coda』というタイトルを使っている。そっちは「戦メリの楽曲はもうこれで終わり」という意味。)
大林監督など色んな人がそうだと思うけど、死を意識する前と後では、考え方に決定的な差が出てくると思う。自分の残り時間をカウントするようになる。
Eテレで『CODA』が放映されるのは、私が知る限り3度目。初回は見逃して、再放送で最初の30分見逃して途中から、今回ちゃんとフルで観た。
観てたら、私の父親が心臓の痛みを訴えたので病院へ、即入院&冠動脈ステント。図らずも私も死を考えざるを得なかった。
この映画を観て、いや観るたびに、坂本龍一とは何者か?を考えさせられる。そして教授は昔からブレてない、そんなに変わらんよなあと感じた。
「最近の坂本龍一は政治的発言が…」って言う人がけっこう多いけど、高校生の頃から学生運動をしてたような人だから、昔からだよねって。むしろ今の方が丸くなってると思う。昔はめちゃくちゃ苛烈な人だったらしい。1952年生まれだから、学生運動はほんと早い。新宿高校だから頭いい。
教授、好きだけど良い意味で胡散臭い。まあ細野さんも見た目からして胡散臭いんだけど笑。
政治的言動のルーツである学生運動も、当時の多くの学生がそうだったようにカッコつけ、ナルシシズムなのでは。それから連想するのはやはり三島由紀夫で、左翼活動をしつつ三島にも惹かれる、特別な想いがあったそう。お父さんが編集者だったし。
教授は常に「モテ」っていうのがある。この人のスター性はハンパない。そして、別にミュージシャン、音楽家になりたかったわけではなかったそう。このことも教授を考える上では大事な点だと思う。
昼は音大生、夜はアングラ演劇。これもずっとブレてない。映画の中で、1984年のインタビューだったか、「エラーやノイズにも惹かれる」、ブレてない。
新宿を根城にしてた若者、学生運動〜テクノポリスTOKIO、ブレードランナーと未来派野郎。
東風のライヴ映像。
YMOは電子音楽だけど、肉体性、フィジカルさがものすごく強い。もうだいぶ前だけどEテレの『スコラ』。打ち込みで作るからこそ、YMO時代にどうやったらグルーヴを出せるかを3人で研究したらしい。ベースをズラす、前ノリ後ノリみたいなことかと。
これまた20数年前のEテレ『ソリトンsideB』で、高橋幸宏がゲストの回で記憶に残ってること。「細野さんは天才、坂本くんは努力型の奇才(鬼才)、僕は凡人」。同じく幸宏さん曰く「僕はジョージかリンゴ、細野さんがジョンで、坂本くんはやっぱり出たがりのポールかな笑。」
私は似たようなことをはっぴいえんどに対して感じていて、細野さんがジョン、大瀧さんがポール。ジョン=パンク、ポール=ポップスで、良いバンドってだいたいこのふたつの個性のぶつかり合いで出来ている場合が多いと思う。音楽性的には細野さん=ポップス、大瀧さん=ロックだけど、これがねじれて表面とは逆になる場合も多い。
私はYMOが結成された年に生まれて、物心つく頃にはすでに散開していた。93年の再生の頃はまだ意識してなくて、ゲイシャガールズ〜アホアホブラザー世代。ほぼ同時期、YMO好きの友達からボックスを借りて聴いた。
これまた同時期に別ルートでノーニューヨーク、DNAのアートリンゼイを知る。(因みに矢野顕子はマークリボーとコラボしてるのが面白い。)あとはPhewさんやTACOとのコラボ。これは最近知った。
だから、この映画の中で教授がやってることはすごく好きだ。フィールドレコーディング、ミュジークコンクレート。
逆にエナジーフローなんかは好きじゃない。戦メリも、映画そのものが別に好きじゃない。ラストエンペラーのOPが好きなんだけど、デヴィッドバーンと教授の共作かと思ってたらバーンのみの曲だった…。バーンは元々好きだったから、なーんだと。
私は結局、教授の音楽ではなく、教授そのものが好きってことではないのか??と。でもYMO時代だと、ビハインドザマスクとかは好きだしな…うーん。
バーンと言えば昔からアフロビートだし、ワールドミュージックだし、イーノ。イーノといえばアンビエント。サティとドビュッシーとイーノ。「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」とまで影響を受けた、中二病の教授。学生の頃は民族音楽学の小泉文夫に衝撃を受け、その道に進もうかと思ったほどだったらしい。
あとはデヴィッドシルヴィアンと仲が良い。ジョルジオモロダー〜JAPANとYMO、ニューロマンティックの前駆。
世界のサカモトになったのは、同時代性や映画音楽を手がけたこともあるけど、教授はパンクだと思う。単に流行りを追いかけているとかではない。真のパンクとはパンクロックという音楽ジャンルではなく、パンクロックをやらないことがパンクだ。
音楽理論が徹底的に入った上でのパンク。エナジーフローみたいな曲を簡単に作って、めちゃくちゃ売れちゃう教授。
映画によると、政治的発言をするようになったのは92年頃からだったとか。今年亡くなったシラク大統領が95年に核実験を強行した時、色んなミュージシャン、アーティスト達も声明を出してたけどその中に教授もいたような。古い雑誌を引っ張り出さないと確認できないけど、記憶違いでなければ私の一番古い記憶だとその頃。
以下、教授の発言から引用
「戦後70年以上がたってもいまだにアイデンティティを保持していないように思えるし、戦前と変わっていない面と両方ある。特にね、自己主張をしない、声をあげない、上に逆らわないという国民性は気になる。国民主権ということは、主人は国民ひとりひとりなんだよと、これを自覚できないと民主主義が根づいたことにはならないよね」
「音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」
「電気グルーヴのCDおよび映像商品の出荷停止、在庫回収、配信停止」
「なんのための自粛ですか?電グルの音楽が売られていて困る人がいますか?ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいだけなんだから。音楽に罪はない。」 -
坂本龍一に密着したドキュメンタリー。
癌で一時休んでいるあたり。
映画の中で、タルコフスキーのソラリスが流るのだけれど、絵力に圧倒された。やはりすごい映画。
坂本龍一はタルコフスキーの映画の音が、すごい音楽だと言っていたけれど、確かにそうかもしれない。
あの音は生きている音なのかも。そしてそれこそが音楽なのかもしれない。
当然なのだけど、映画音楽が、坂本龍一にどれだけ重要なウェイトを占めているかが感じられた映画。
ラストエンペラーの曲をつくる経緯、かなり突然中国に呼ばれて、すぐに曲をつくれと言われたこととか、面白かった。
また、過去の映像も出てきて貴重。YMOのころは、かなり繊細な若者という感じ、話下手というか。
今は話も良くするし、ニコニコしながら頑固なおじいさんという感じ。
そして常にきているものがおしゃれ。
テクノ、ワールドミュージック、環境問題への興味、など、良く考えると世界のトレンドに沿っているなというのが印象。
個人的には、あまりイデオロギーに走らなく、音楽活動を純粋に究める方向が良いのでは?とも思いました。 -
TVにて
震災時の泥だらけの傷ついたピアノ,若い頃のYMO,映画音楽などなど坂本龍一の軌跡. -
津波で浸水したピアノを死体と言っていたのが、自然だと言うまでになった価値観の変遷が興味深かったです。ガンになり闘病中に起きた3.11の原発事故を受け、自然ではないものへ歪みを覚える坂本氏。自然の音を蒐集し、音楽へ融合していく手法なども面白かった。とても静かな、ひとりの音楽家のドキュメンタリーです。
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夜。窓を開けて本作を観ていたら、背後から虫の鳴き声が聞こえた。それが坂本龍一が録音した自然音と融け合ってふしぎなここちになった。
が、本作を観れば観るほど、坂本龍一はメロディの人だという印象が強まっていった。いわば人工の人。自然のカオスから何かを感じるより、人工の産物のなかで遊ぶことに長けた人。 -
2018/07/29