わたしの名は赤〔新訳版〕 下 (ハヤカワepi文庫) [Kindle]

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  • オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」上巻が今日でおしまい。引き続き下巻を聞く。

    細密画師が描く馬は、どこかに現に存在する具体的な馬ではなく、細密画師の頭の中にいる馬にすぎない。神の見た馬を再現するのが彼らの仕事なのだから、というのだけど、それは自らを神に模した不遜なおこないにならないのだろうかという根本的な疑問を、当の馬自身が掲げるに至って、思わず笑ってしまった。神の視点でものを眺めるって何様だよと。ただ、3次元のものを2次元に切り取るときに「見たまんま」をコピーすることは不可能で、どうやっても観察者の主観が入り込んできてしまうのもまた間違いないわけで、現実の存在からも神様の視点からも切り離されたその(描かれた)馬とはいったい何なのか。観察者独自の切り口でありながらも、他人が見ても馬に見える、それは馬という概念?共通認識?共同幻想?

    それにしても、あっちにフラフラこっちにフラフラ、わが子を殺すぞと脅したり、かと思えばぎゅっと抱きしめたりして、しまいには神にすがって自分に非がないことばかり言い募るシェキュレは、男たちがこぞって熱を上げるほど魅力的な女性なのだろうか。それとも、そうでもしなければ生きていけない女性の弱い立場をわかって著者は書いてる?あまりそう感じられないのは、こちらの理解力の問題なのかな。

    オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」下巻。

    存在そのものが異端と正統のはざまにある細密画にあっては、描いた個人が特定できるあらゆる個性的なタッチも才気走った新種の技法も署名も忌避される。だから、人の目を引く人物の顔やしぐさ、衣装には気を遣い、いにしえから受け継がれてきた技で丹念に描きこむのだが、それでもふとした隙に表出してしまう、主題から外れた瑣末な「耳」や「馬の蹄」や「走る兵士たちの脚のあげかた」には、否応なしに、その人のクセが出てしまう。それを「女官の術(誰も気にもしていなかった「耳」に着目することで、皇女を女官姿で描いた絵師を特定した逸話に基づく)」として、異端に走ったり、罪を犯したりした絵師を探し出すのに役立てる伝統が密かに受け継がれてきたという。

    正解があらかじめ決まっていて、そこからはみ出したり、外れたりすれば、すぐに糾弾される、いわゆる「減点法」の考え方からは、新しいアイデアや創意工夫は生まれようがない。中国風、モンゴル風、ペルシャ風、西洋風の技法やタッチが融合してはじめて「新結合=イノベーション」が生まれるはずなのに、それを頑なに拒んでさえいれば、いつまでも平穏無事な世の中であり続けるというのは「井の中の蛙」の発想にすぎない。自分たちの世界に閉じこもっていると気づかないかもしれないが、よその世界がどんどん変わっていくなかにあって、自分だけ「恒常的な世界」「現状維持」を志向しても、相対的な地位の低下は避けられず、現状維持どころか停滞→衰退の一途をたどるというのは、いままさに日本が「失われた30年」をかけて経験していることだ。

    それでもえらい神様にとっては「東も西もすべて私の下にある」はずで、さまざまな違いを乗り越える器の広さをもつというのが、仏教に親しんだ私たちにはしっくりくると思うのだけど、イスラムの神様にはどうにも戦闘的というか、不寛容で排他的な感じを受けてしまう。これもある種のバイアスなんだろか。

    オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」下巻。

    弟子やわが子を殴って正しい道を教えるしつけというのは、(代々受け継がれてきた)正しさに疑いを持たず思考停止した大人たちが、ともすれば既存のルールから逸脱しがちな弟子やわが子をコントロール下におくための手段であって、弟子や子どものためを思ってやっているというのは欺瞞で、本人の思い込みにすぎない。なんでも言いつけを守る従順な子が育てば気分はいいかもしれないが、自分の(劣化)コピーをつくって何が楽しいのだろう。

    自分は若い人たちが自分の想像を超える活躍をするのが見たいし、そういう驚きと発見と感動が自分の次のモチベーションにも繋がると思うのだけど。子どもを「未完成」の人間「未満」な存在と決めつけて、正しい人間へと導こうという上から目線の試みに対しては全面的に反対していきたい。子どもは「可能性の宝庫」で、すでに頭が固まってしまった大人たちが実現できなかった未来をつくるのは彼ら彼女らなのだから。

    オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」下巻。

    悪さをした人間が地獄に堕ちるということにしておかないと、人々は神を畏れなくなる。宗教が人間を抑圧する方向に過度に傾いたのは、そうでもしておかないと、人々は騙し合い、殺し合い、憎み合って、ろくなことをしないから。たしかにそういう面もあるかもしれないが、それって、支配者からすれば、一般ピーポーを自らの支配下におくのに都合がいいからだし、自らの命令に従順な人以外は排除し、天罰を下すための方便にすぎないし、一方、非支配層からすれば、支配者が悪さをしても生前には復讐できないから死後に報いを受けろ、という願望の表れでしかない。

    際限のない欲望はたしかに悪さももたらすが、それをコントロールするためだからといって、必ずしも人間性を全否定することはあるまい。だが、一度そういうルールをつくってしまうと、歴史上何度も「聖書に帰れ」「いにしえの栄光をもう一度」と唱える輩(原理主義者たち)が登場して、現状にそぐわなくなった古臭いルールを厳密に適用しようと押しつけて、人間の豊かな営みを破壊する。原罪ってのがあるとしたら、人間が嘘をつくこと(知恵の実を食べたこと)ではなくて、宗教に組み込まれたこの自己否定のサイクルが永遠に終わらないことじゃないかと思ってしまう。

    グローバリゼーションとデジタライゼーションによって、人間は自分たち以外のよその世界の人たちが何を考え、どのように暮らしているか、ある程度わかるようになった。知らないことが恐怖の源だとしたら、知ってしまえば、いままで見たことも会ったこともなかったような人たちも、同じ人間だと理解できる。そんな時代には、わざわざあらゆる世界に精通した神を想定しなくても、人間は相互にコミュニケーションをとって、問題解決への道筋をつけることができる。たとえ、それが亀のようなのろい足取りであっても、説明責任を負わない神が天罰を下すのよりも、よっぽど人間らしい解決が望めるはずだと思うのだけど。

    オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」下巻。

    個性を発揮し、自分の思いのたけを表現するだけで悪魔に自分を売ったり、異端と謗られ命を危険にさらさなければならないのって、やっぱりどこか間違ってる。人間の欲望には際限がないから、どこかで線引きしなければ、リソース不足に陥るか、お互いに殺し合うかして、いつか自分たちの生存が脅かされることになる。それを見越して、宗教、あるいは保守的な道徳規範や慣習は、思い通りにならない人間を脅し、人間らしさを排除し、極度に抑制する方向に舵を切ったのだろうけど、そういう禁欲的なルールに飼い慣らされる人もいれば、自分を殺して理不尽なルールに従っているうちに、他人がそれを破るのが許せなくなって断罪し、ルールを極端に厳格に強制するようになる面倒な原理主義者も出てくるし、既存のルールを疑い、それを破ることに快感を覚えたり、自分で新たなルールをつくることに生きがいを感じるイノベーターも一定の割合で生まれてくる。

    ストレイシープ(迷える羊)は迷えるから人間なのであって、迷わなくなったら、それは機械か、はたまた天使か悪魔か、それとも神か。「殺し屋」と呼ばれる絵師が自我を抑えきれなくなって宗教的禁忌を犯してしまったことにこそ、愛すべき人間らしさが宿っていると自分なんかは思うのだけど。

    規範に合っているかどうかが善悪の判断基準になると、「正解」があることが前提となる。「正解」をいち早く見つけることが正しいことと見なされれば、前例にない事態(=正解なき課題)に対処する機敏さを失い、自ら考え、より納得感の高い「答え(=唯一の正解ではない)」を探り当てる知的訓練を受ける機会を逃すことになる。

    オーディブルはオルハン・パムク「私の名は赤」下巻が今朝でおしまい。

    洋の東西のはざまにあり、西洋の異教徒の肖像画と遠近法の様式も、中国やモンゴル風の様式も取り込んで、混じり合うのが自然な位置にありながら、それを拒否した細密画師たちは、殺し合ったり、性的虐待したり、BL的に愛し合ったりしても、しなくても、やがて消えゆくさだめにあった。

    それにしても、母ちゃんのたくましさよ。シェキュレに翻弄された男たちの愚かさと、幸福さを思う。シェキュレの子の名前がオルハンだった理由は最後に明かされるんだけど、ということはつまりオルハンは500歳くらいってこよなのかな?

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著者プロフィール

オルハン・パムク(Orhan Pamuk, 1952-)1952年イスタンブール生。3年間のニューヨーク滞在を除いてイスタンブールに住む。処女作『ジェヴデット氏と息子たち』(1982)でトルコで最も権威のあるオルハン・ケマル小説賞を受賞。以後,『静かな家』(1983)『白い城』(1985,邦訳藤原書店)『黒い本』(1990,本書)『新しい人生』(1994,邦訳藤原書店)等の話題作を発表し,国内外で高い評価を獲得する。1998年刊の『わたしの名は紅(あか)』(邦訳藤原書店)は,国際IMPACダブリン文学賞,フランスの最優秀海外文学賞,イタリアのグリンザーネ・カヴール市外国語文学賞等を受賞,世界32か国で版権が取得され,すでに23か国で出版された。2002年刊の『雪』(邦訳藤原書店)は「9.11」事件後のイスラームをめぐる状況を予見した作品として世界的ベストセラーとなっている。また,自身の記憶と歴史とを織り合わせて描いた2003年刊『イスタンブール』(邦訳藤原書店)は都市論としても文学作品としても高い評価を得ている。2006年度ノーベル文学賞受賞。ノーベル文学賞としては何十年ぶりかという

「2016年 『黒い本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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