勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • おもろいど
    難しい言葉にわかりやすい解説を書いてくれている
    地に足をつけて、勉強とはなんだろうに、どう道を引いていばいいんだろうを考えられる本

  • ブックトーク「勉強を深めるための方法」で紹介した本。

  • 【オンライン読書会開催!】
    読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の課題作品です

    ■2022年11月16日(水)20:30 〜 22:15
    https://nekomachi-club.com/events/6fd4c3c5f436

  • 第一章で私の頭の中にある言語化できないような複雑なぐるぐるを非常にわかりやすく簡単に書いてくれていた。
    確実な理解をせずにギコギコ使っていた頭をちゃんと整理することができた。

    結論を読んでからカラッと読み返した。
    また何年か後に読みたい。

  • 勉強することについて書かれた本。
    当たり前というコードが意識的にずれていく。意識的な操作はメタ的な視点であり、その操作が、音楽や絵画、詩などの形式に展開される。その展開していく流れを言葉にした本。
    本書でいう、プロモードの状態で、もう一度この本を読みたい。

  • - どういう心構えで勉強することが大事か、混乱に陥らずにやるべきことを理解するための道標を示してくれる本だった。
    - ***
    - 勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。  勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。  言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。
    - 言語は、自分が生まれる以前からの「 用法」を真似するという形でインストールされた。同様に、すべての他者もまた、他者による用法を真似して、言語を使えるようになっている。  そういう言語習得の過程で私たちは、他者から、ものの考え方の基本的な方向づけを受けてしまいます。 /// すなわち、言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。   言葉の意味は、環境のコードのなかにある。 /// 言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベルで「洗脳」を受けるようなことなのです。これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。   言語を通して、私たちは他者に乗っ取られている。
    - 勉強とは何をすることかと言えば、それは別のノリへの引っ越しである。
    - 環境のノリから自由になるために、勉強を深める。  根本的に深い勉強、ラディカル・ラーニング。それは言語偏重になることである。  言語偏重になるというのは、ある環境でスムーズに行為するために言語を使っている状態から脱して、 言語をそれ自体として操作する意識 を高めることである。言語の「道具的使用」から「玩具的使用」へ。言葉をおもちゃのように操作し、「言えるには言える」という形で、自分のあり方の多様な可能性を、環境の求めから離れて自由に考えられるようになる──。
    - コードを客観視する「最小限のツッコミ意識」が、勉強の大前提である。  勉強とは、新たなことを自覚的にできるようになることです。   最小限のツッコミ意識:自分が従っているコードを客観視する    その上で、   ツッコミ:コードを疑って批判する   ボケ:コードに対してズレようとする
    - アイロニーは破壊的なプロセスです。要は、深い話へ深い話へと疑いを重ねていくと、結局のところ、何を信じて話をしたらいいのかわからなくなっていくのです。言い換えれば、  超コード化を進めていくと、コード不在の状態に近づいていく。  場を支える共通のコードがもはやなくなってしまう。  これは、「 超コード化による脱コード化」だと言えるでしょう。
    - アイロニカルな意識、つまり「外に出よう」という意識をもちながら、究極の外=現実それ自体は目指さずに、言語は環境から離れては存在しないということ、「 言語の環境依存性」を認める。ある環境の外には別の環境があるだけなので、このスタンスは「 環境の複数性=言語の複数性」を認めることです。さまざまな環境のあいだを、「諸言語」のあいだを行ったり来たりする。これは旅人のようなあり方でしょう。
    - アイロニーは「根拠を疑う」こと。  ユーモアは「見方を変える」ことである。  ユーモアは、コードがそもそも不確定性であるから起こってしまう事態です。
    - ユーモアによるコードの拡張は、原理的に際限がないからです。  コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。  これがユーモアの過剰化であり、そのために無自覚な「転々とする話」が生じるのです。
    - 言葉の用法=意味は、通常は、ある環境のコードによって制限されていますが、コードとコードがどうにでも変換できるなら、その制限はなくなる。  この帰結を、「 意味飽和」と呼びましょう。  言葉は、区別されたひとつの意味をもつことができなくなる。意味飽和は、あらゆる言葉が無意味になることです。意味は、一定の区別されたものでなければ、意味ではない。  ユーモアの極限は、「 意味飽和のナンセンス」です。
    - 新しい見方へとコードが拡張されるのではなく、コードの一部へとコード全体が縮減されてしまうのが、「縮減的ユーモア」である。  この場合でも、拡張的ユーモアと同様、「え、そんな話だったっけ?」という目的=方向喪失が引き起こされるから、これもユーモアなのです。 /// 縮減的ユーモア=「不必要に細かい話」は、自閉的な面をもっている。 /// 縮減的ユーモアでは、「 享楽的こだわり」のために口を動かしている。
    - 自分の享楽的こだわりに対しアイロニカルに疑いを向けて、たんに「自分のこだわりはこうだからこうなんだ」というだけにならない、という段階。本書では、享楽的こだわりは、絶対に固定的なものなのではないと考えます。もし絶対に固定的なのならば、私たちは、運命的に自分のこだわりに従って生きるしかなくなる。だがそうではないのです。深い勉強は、ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにある享楽的こだわりに介入するのです。   享楽的こだわりが、勉強を通して変化する可能性がある。
    - 自分の現状や興味を大きなスケールの抽象的な問題につなぐのが、勉強の「深い」テーマ設定なのです。
    - 抽象化の作業をしながら「キーワード出し」をする。そして次には、そのキーワードが、どういう「専門分野」に該当するのかを考えます。  勉強するというのは、何かの専門分野のノリに引っ越すことである。  このときには、近いスケールで具体的に考えられる分野、これを「 直接的分野」と呼ぶことにしますが、それを挙げた上で、もっと大きなスケールで関係しそうな「 間接的分野」の名前も挙げてください。
    - 社会学や経済学、哲学とか数学のような基礎的で歴史の長い「学問」は、いまの環境で何かをうまくやろうとする、それにわざと自己ツッコミを入れる、という相反する方向のどちらにも関わってくる。  歴史ある学問は、環境に「いながらにしていない」ような思考を可能にする。  いまの環境内での生き方を改良するという道筋、あるいは、いっそ外に出てしまおうという道筋、という相反する可能性を総合的に考えさせてくれるという意味で、歴史ある学問はひじょうに柔軟に役立つものなのです。
    - アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは「 追究型」と言える。  他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは「 連想型」です。  キーワードを出すのにも分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。
    - 自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。  信頼できる情報に自分の享楽を絡めて考えて、「まあこれだろう」と決める。  こうした「比較の中断」が、勉強を始める際にも勉強の最中にも必要なのです。
    - 比較にベストな解はありません。絶対的に根拠づけられた選択はありえない。  そこに、ある転機が訪れる──。  絶対的な根拠を求め続けていて、到達できない……この無限に先延ばしされた状態を、一点に瞬間的に圧縮し、絶対的な 無根拠 への直面にしてしまう。  そして、「絶対的な無根拠こそが、むしろ、絶対的な根拠なのだ」という逆転が起こる。  絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。  だから──ここで起きる論理の飛躍に注意してください──、無根拠に決めることが 最も根拠づけられたこと なのである。次のイコールが成り立つ、絶対的な無根拠=絶対的な根拠。  実際的に言えば、これは要するに、「決めたんだから決めたんだ、決めたんだからそれに従うんだ」という形で、まあ「気合い」で、ただたんに決めるのだということです。  聞いたことがあると思うんですが、自己啓発書などで、「明日からあなたが決めさえすれば、あなたはそういうあなたになる」といった形で言われることです。  それではマズいのだと僕は言いたいのです。  このやり方では、何に決めてもいいことになるというのがポイントです。  決断では、たんに偶然的なもの、たまたま出会ったもので何に決めてもいい。
    - 何かを無根拠で決断することは、逆説的に、それだけが絶対的に根拠づけられた決断なのであり、この決断によって何かが「真理化」される。  絶対的な無根拠=絶対的な根拠という等式による決断では、真理をつかんでしまっているのだから、他の可能性はもう目に入らない。排他的に、その真理を信じ込むことになる。  これを、「 決断主義」と呼びましょう。  アイロニー的な有限化は、決断主義である。  ベストな選択をしようと無理をするからそうなるのです。
    - 決断の前に自分が何者であるかは、決断には関係ない。  中身がカラッポの私が、何でもいい任意の他者と出会い、その他者を絶対化する。 (ここで、「他者」という言い方は、他人やモノ、さらに「考え方」も指しています。)  たまたま、ある人の考え方に出会って、それ=他者に完全に乗っ取られる。 決断とは自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。 私はある他者に完全に乗っ取られ、ひとつの真なる世界観に入る。  ひとつのその世界観だけが、リアルなのです。それに異議を唱える、別の生き方をする 複数の他者たち がまったく存在しなくなる。  こうして、アイロニーはそもそも批判的になることなのに、決断主義に転化すると無批判な生き方になってしまいます。狂信的になってしまう。他の考えを聞く耳をもたなくなる、というか、他の考えをもつ複数の他者がそもそも存在しなくなる。  だから、決断主義は避けなければならない。これが本書の立場なのです。
    - ユーモア的な有限化、それは、複数の他者のあいだで旅しながら考えることです。  話が振り出しに戻りますが、つまりは、 ちゃんと考えて比較をする ということ。  正確には、比較に絶対的な結論を出そうとしない、 比較を続ける ということ。絶対的な結論を出したら(それを決断したら)、その瞬間に比較はふいになるからです。 /// 考えるべきは、「比較を続けながら比較をストップする」ような事態です。  これを、決断ではなく、比較を「 中断」する、と言うことにします。  比較を続けるなかで仮にベターな結論を出す。  比較がちゃんと比較であるならば、その結論は「仮固定」でなければならない。比較は、ある結論が仮固定されても水面下で続く。私たちは、ある仮固定の結論を比較の継続のなかで徐々に放棄し、また異なる仮固定の結論へと移っていくのです。  ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける。  すなわちこれは、「 勉強を継続すること」です。  これはエネルギーが要ることで、大変だから、環境のノリに保守的に流されたり、「エイヤッ」で決断してしまったりするのです。
    - ここまでの議論で、惰性的に環境のノリに従うこと、また、無になって決断してしまうことはあるべきでない態度として排除されたのでした。結果、私たちは、比較し続ける人になろうとしている。だから私たちにとって、  信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。
    - 以下、他者との偶然的な出会いを、ひとことで「出来事」と呼ばせてください。  出来事から直接にこだわりが結実したのではない。こだわりとは、出来事が、ある環境のなかで言語を通して意味づけされ、機能をもつようになった結果である。  出来事は、たんに偶然的、無意味で、強烈なものなので、自分はそれを言葉でなんとか意味づけして「納得」しようとした。  出来事の意味づけ=納得は、生まれ育つ過程の、何らかの環境のなかで行われた(これは当然そうです、言語的な意味は環境のなかにしかないのだから)。  ところで、どこの環境においても言語には、何か偏った価値観が染みついている。ゆえに、環境の価値観が染みついた言葉で、出来事をなんとか納得してしまっているわけです。しかもトラウマ的に強い出来事ですから、それをなんとか納得するために動員される言葉=価値観は、強く自分に結びついてしまうでしょう。  これがこだわりの環境依存的な面です。
    - 浅いレベル では、環境は、「これを選んでおけばいいですよ、みんなもそうしてますよ」という指示を出している。それに対し、何かにこだわっている自分が反発するわけですが、実は自分なりのこだわりは、 深いレベル において環境依存的に意味づけられているのです。  環境のノリから自由になるという本書の課題は、浅いレベルだけでなく、深いレベルにまでおよび、何かを決めるときの「自分なりに」の根源にある「自分に固有の無意味」へと向かっていく、という課題になる。  何かに「無意味にこだわる」とか「意味なくこだわる」という言い方がされますが、あれこれ思い出してみれば、そこには実は(環境的な)意味があることがわかる。その意味を「はがして」いくと、たんにある言葉のかけらが好きだとか、何かイメージが気になるとか、まさしく意味なくこだわっているもの、すなわち「非意味的形態」が見えてくるかもしれません。
    - ラディカル・ラーニングは、自分の根っこにあるバカさを変化させる。バカでなくなるのではない。別のしかたでバカになり直すのです。  これが、本書のサブタイトルで言う「来たるべきバカ」ということです。
    - 入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。  専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。必要なのは、最初の足場の仮固定です。そして、  入門書は、複数、比較するべきである。  一冊だけで信じ込まないようにしてください。入門書を一冊読んだくらいでわかったと思われては困ります。いろんな角度から分野の輪郭を眺める必要があるのです。
    - 専門分野に取り組むにあたっては、入門書に加えてその分野の教科書、あるいは「基本書」と言えるものを買っておくことをお勧めします。最初の段階では、これらは読み通すのではなく、あくまで入門書の理解を深めるための「事典」として使います。
    - 勉強の順序としては、複数の入門書→教科書→基本書、となります。  基本書とは、まずは、入門書や教科書に重要なものとして繰り返し出てくる文献がそれだと思ってください。また、基本書のブックガイドが専門家のウェブサイトで公開されていることがよくあります。
    - まずは教科書は、読み通すものではなく、事典のように「引く」ものと捉える。最初は目次を眺めるだけでもいい。その分野のテーマや概念がざっとわかります。 /// 入門書で知ったことについて、教科書で該当するところを「引いて」いるうちに、教科書はあちこちから「モザイク状」に読んだ状態になります。入門書をもとに、徐々に地図を塗りつぶしていくイメージです。そうなってから、あらためて最初から通して読んでいき、全体の流れを確認する。しかしそのときに、漏らさずにすべてを読もうとしなくてもかまいません。なぜなら、「完璧な」読書など結局は不可能だからです。
    - バイヤールによれば、読書において本質的なのは、本の位置づけを把握することです。
    - 次に、入門書への取り組み方について説明しましょう。  まず、言葉づかいに慣れる。難しげな言い方が出てきても、「そういう言い方をするもんなんだ」と冷静に読んでいくこと。第一章で述べたように、新しい言葉づかいへの違和感を大事にします。その分野=環境における言い方=考え方のコードを、メタに観察するのです。  そのために重要なのは、自分の実感に引きつけて理解しようとしないこと。 「実感に合わないからわからない」では、勉強を進めようがありません。  そもそも、これまでの自分にとって異質な世界観を得ようとしているのだから、実感に合わないことが書いてあって当然なのです。むしろ、「なんでそんなふうに考えるの?!」と気味悪く、ときには不快に思うこともあるような考え方を学んでこそ勉強なのです。  新しい言い方=考え方にノることで、自分の「感覚を拡張する」のです。
    - 教師は、まずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。  その有限化された情報を軸として、自分でさらに本を読み、調べながら勉強を深めていく。  教師とは、有限化、あるいは切断の装置です。  独学するときには、入門書がこうした教師の役割を果たすことになる。
    - どの入門書を選ぶべきかなのですが、これは結局、情報の信頼性をどう判断するかという一般的な問題になります。原則としては、同語反復ですが、 信頼できる人物や機関の情報を信頼する。しかし、その判断はなかなか難しいでしょう。  信頼性の条件とは、第三章で述べたように、多くの情報を十分に集めて比較するなかで仮固定の結論を出し、さらに比較を継続していること、です。これは、言い換えれば、「たえず勉強を続けている」ということにほかなりません。  勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である。
    - 本章の始めで、信頼できる著者、「まとも」な本、という表現をしました。  信頼性の──絶対的ではなく、相対的な──根拠とは、その著者・文献が「知的な相互信頼の空間から信頼を受けているかどうか」である。  もう少し詳しく言えば、専門分野の業界や、学問の世界に直接・間接の関わりがあり、同種のテーマに関する他者との建設的な議論が背景にあるかどうか、です。
    - 入門書のところで少し説明しましたが、読書において大事なのは、自分の実感に引きつけて理解しようとしないことです。あるいは、  難しい本を読むのが難しいのは、無理に納得しようと思って読むからである。
    - 納得よりも先に、使われている言葉の種類や、論理的なつながりなどを把握してほしいということです。それは、テクストの骨組み、「 構造」を分析することです。
    - プロの仕事においては、証拠となるテクストに文字通りにどう書かれているかが問題となることがよくあります。たとえば、契約書の取り扱い。何かトラブルが起きた際に、「この契約はだいたいこういう意味ですよね」とゆるく共感を求めるのでは、通用しないわけです。契約期間や解除条件など、書いてある文言を文字通りに捉えて、どのように解釈するのが妥当かが争われることになります。  このような態度を、「 言語のプロ・モード」と呼んでみたい。厳密に言語偏重になる。  それに対し、だいたいの理解で言語を、 それ自体としてではなく意味として 扱うのは「 言語のアマ・モード」であるとしましょう。  学問の世界でも、言語のプロ・モードが重要です。  先に少し言いましたが、学問的な研究書や論文に書いてあることは「文字通り」に尊重される必要がある。それは証拠の役を果たすのです。文言自体が現実に対して効力を発揮する、契約書に似ているのです。
    - 読書をするときに、後で証拠として使うべき部分を「引用」して読書ノートに書いておきます。後で使う引用を蓄積しておくのです。 /// どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。  これは個性的なアイデアを 育む上で、ひじょうに大事なことです。

  • 「可能性をとりあえずの形にする。言語はそのためにある。」

     人の話を聞かず自分の話したいことを話す人は、享楽的こだわりに浸っているいる状態で、ノリが悪いというか、人の話を受けず自分の話したいことをダラダラと話す人が好きではない。

     そういう人と話す場になったら「参ったな」た思って、最近は適当に話を流してるんだけど、あの自分のテリトリーに巻き込んで話すのは享楽的こだわりに浸っている、つまり本書でいう「勉強」してる状態だったとは驚いた。あれは勉強をしていたのか、一人の時にしてくれって思うけれど。

     本書における勉強、アイロニー→ユーモア→享楽という行為のサイクルは、自分の周りにあるノリから自分を切り離し、可能性の空間に身を開くことで、このサイクルを繰り返すことを推奨していて、アイロニーの果てに「絶対的な無根拠こそが、むしろ、絶対的根拠」という決断主義からの回避すること。
     決断主義に陥ることをマズいと訴えてるのは、國分功一郎もハイデッガーの決断主義批判と共通するところだった。
    善悪や優劣といった価値判断を決断するのではなく、価値判断を中断することがより享楽に浸れるハウツーらしい。

  •  新進気鋭の哲学者、気になり図書館で借りた。 
     周りに合わせるというか同調圧力というか、ある環境で目的的に協同化されているいわゆるノリやお約束、空気のことを「コード」と呼ぶ。そのコードを客観視しその根拠を疑い批判することを「アイロニー」と呼ぶ。一方、そもそもコードを批判するのではなくズレ、ひねりといった見方を変えることを「ユーモア」と呼ぶ。
     勉強の進展とは、アイロニーを出発点にユーモアへ転換するプロセスのことのようだ。そして出発としてのアイロニーは自分の享楽的こだわりこそが出発点であり、享楽的こだわりはユーモアから切断された足場を仮固定されているという。
    「来るべきバカのために」、勉強によってノリが悪くなり、キモくなり、環境から浮いてしまう、だがそんな環境下で自分の享楽的こだわり、すなわちバカさでなんとか生きていく者へのメッセージだ。

  • 構えていたけど、言っていることはオーソドックス。読みやすい。

  • 以前から興味を持っていた著者の作品を文庫で触れられることもあって購読しました。

    本書に当たるか迷っている方がおられるなら、ひとまず「はじめに」「結論」をお薦めします。
    「はじめに」には方向性が、「結論」には各章の主要なトピックがまとめられ参考になります。
    内容としては1章から3章が「年表作成」を除き「原理編」、4章が「実用編」にあたります。
    とりあえず具体的な情報のみ得たいという方は4章のみ手を付けてみるのも悪くないでしょう。

    「来るべきバカのために」というサブタイトルの言葉の強さで手を付けることに躊躇していましたが、第一印象とは裏腹に背景にあるのは専門的な哲学的思考にも関わらず全編を通して多くの一般的な読者を想定した良心的な文章で紡がれています。このような種類の著作は「原理編」のようなパートのみで、読み終わった後に結局どのように勉強をはじめてよいかわからず放り出された感を持つものも少なくないのですが、本書の特徴のひとつとして実用編で書物の種類と読み進める順番や、アウトプットの方法、どのようなスタンスで勉強すべきかについてまで丁寧にサポートされています。

    特に「完璧な通読などありえない」「勉強に真の完了の状態はありえない」「仮固定から仮固定へと進んでいく」「三日坊主的にあれこれ勉強するなかでつながりが見えてくるのが勉強の醍醐味」といった言葉は、勉強することに対しての抵抗感を解きほぐし、勉強への欲求をかき立ててくれるのではないでしょうか。

    文庫版向けの補章では小説、ダンス、詩、俳句、短歌、絵画、音楽といった芸術の各ジャンルについて大づかみな捉え方についてもレクチャーされており、ここではテーマから外れるため本書では扱われなかったであろう「ものをつくる」ことへの著者の想いをわずかながら伺えます。

    常にかたわらに置いておきたい、親切心にあふれた良書です。

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著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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