職業としての政治 (岩波文庫) [Kindle]

  • 岩波書店
3.60
  • (1)
  • (1)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 52
感想 : 1
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (122ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  本書で論じられるのは、いわゆる「政治家」の在り方ではない。ヴェーバーが政治について論じる際に常に用いた定義は、「政治とは政治団体の指導またはその指導に影響を与えようとする行為」(8頁)である。政治団体とは、「国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である」(10頁)。つまり、「正当化された暴力」による「支配」(=正統性のある権力)が現に普遍的に存在することを前提として議論を始めているのである。これはあまりにも悲しい指摘であり、ここで議論を打ち切ってしまいたくなるほどの厳然たる事実である。現代西欧においては領域的国家によって権力が独占されていることが(少なくとも独占すべきだと国民が要求していることが)(9頁)せめてもの救いであろうか(当然、「領域」であること、「国民」であることが新たな問題を生じさせることは小さな問題ではない)。
     なぜ権力の存在を前提としなければならないのかという嘆かわしい問題はひとまずおくとして、政治を権力とのみ関係づけることは、利益の配分が政治とは無関係とは言えないとしても、必ずしも同一ではないということを示している。つまり、「経済経営における管理と政治的管理との間には多分に類似点がありながら、根本的には全く違った法則に従っている」(18ページ)のであって、「[ドイツ革命において]政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を手に入れた彼らは…...資本主義的経済経営内部での収奪の方も大丈夫だ、と本当にいえるかどうか、これは別問題」(18ページ)なのである。政治的な闘争はその正当化をどこに示そうがそれは政治的な闘争に過ぎず、例えば社会主義経済の実現とは無関係だという非情な宣告である。
    「政治家」とはこうした特殊な意味での「政治」団体の指導者、またはその指導に影響を与えようとする者のことである。

     では、ドイツ革命は「政治的」にどのように分析されるのか。ヴェーバーはまず世界の歴史的事実から理念型を抽出していく。

    ・職業政治家の2つの形態「政治指導者」、「政治団体のスタッフ」
    ・政治「によって」生きるか、政治「のために」生きるか
    ・「官吏団」と「指導型の政治家」
    ・「専門官吏」と「『政治的』官吏」
    ・政治家の7つのタイプ「聖職者」、「文人」、「宮廷貴族」、「ジェントリ」、「法律家」、「デマゴーグ(ヴェーバーは現代においてはジャーナリストをこの典型と考えている)」、「政党職員」
    ・政党のタイプとしての「名望家ギルド」と「人民投票的な集票マシーン」

    本書では時間の制約もあるためであろうか、理念型を用いた分析はほとんど行われず、社会学的な相関の証明も行われない。それもあってかドイツの現状分析については極めて抑制的であり、ドイツ革命の今後についてはほとんど何も語られない。数少ない内容を拾っていくと少しだけヴェーバーの心情が見えてくる。

    ・「官吏として倫理的にきわめてすぐれた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間がーー残念ながらわがドイツのようにーー指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態、これが『官僚政治』と呼ばれているものである」(41-42頁)
    ・「ドイツでは、このジャーナリストのキャリアーは、それが他の点でどれほど魅力に富み、そこから生まれる影響力や活動の可能性、特に政治的責任がどれほど大きなものであっても、今のことろ政治指導者に出世するためのノーマルなコースではないーーこの「ない」がもはやないの意味なのか、それとも、まだないの意味なのかは、もう少し待ってみないと何も言えない」(46頁)
    ・ドイツ政党は「名望家ギルドへの発展の道をたど」(71頁)り、「議会の無力を生み出した」(70頁)
    ・第一次大戦における敗北を期に、ドイツでは「一つの転換が多分進行しつつある。多分であって、確実に、ではない」(73頁)。しかし、それは「指導者さえいたら、多分新しい装置が生まれていただろう、ということの一つの兆候に過ぎなかったのである」(同)
    ・「ぎりぎりのところ道は二つしかない。『マシーン』を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ『職業政治家』の支配を選ぶかである。そして後者は、党内反対派の立場からよく『派閥』支配と呼ばれるものである。現在のところドイツにはこれしかない」(74頁)

    こういった分析は、ヴェーバー自身の「政治」の定義からの一脱を感じさせる。「官僚」は権力との関係から切り離して考えることはできず、ヴェーバーの定義からすれば当然「政治家」であるはずである。しかし、「専門官吏」は「『政治的』官吏」とは対置され、政治家に向かない人間とされる。議会の外で現に権力を握っている「名望家」は議員として議会で多数派を形成しながらも、議会を無力化しているとさえ言われ、統治の正当性を剥ぎ取られ権力から追放されてしまわんばかりである。

     ヴェーバーは続けて、では政治家にとっては何が重要なのかと問う。これはすでに社会学の問いではない。答えて曰く、情熱、責任感、判断力(Augenmaß。カントの言うUrteilskraftではない))である、と(77頁)。この3つの要素は備わっていると望ましい性質というにとどまらない。「情熱は、それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力……が必要である」(77頁)。つまり、これらの要素は有機的に連関しており、これらが備わったときに初めて「政治家」となる。これは冒頭の政治家の定義まで歪めるものである。もっともこの定義は、純粋な権力崇拝としての「権力政治」に対する批判であって、つまり「〔政治〕行為にとって内的な支柱が必要である」(81頁)という西洋の常識に基づくものであるとしても、ここまでの厳密な議論を蔑ろにする通俗的な議論であるという印象は拭いきれない。まるで、誰も「責任」を取ろうとしないドイツの現状を悲観し、ジャーナリストや政党職員の中から指導者としての資質のある「デマゴーグ」か登場し、集票「マシーン」を駆使して指導者民主制を実現することを待望するかのようである。ここにはもはや価値中立的な社会学者としてのヴェーバーの姿はない。聴衆へのリップサービスも多少はあるであろうが、価値自由を標榜する学者としての姿と峻別されたナショナリストとしてのヴェーバーが顔を覗かせたというところであろうか。

     一方で、ヴェーバーは、政治においては当人の主観的目的に反することが容易に起こりうることを認めている(81頁)。これでは、政治家の資質はその結果になんら関係がなくなり、内的支柱は単に「信仰」の問題に過ぎないことになる。まさしく政治的責任は倫理の問題ではなく「現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神、とりわけ品位」(84頁)の問題である。しかし、このことは倫理の誤った理解に基づく歪曲である。結果が起こった後で「責任者」や「理由」を探し、自らを「正当化」するのは「『倫理』が『独善』の手段として利用されたことの結果である」(84頁)。
     では、政治における「倫理」とは何か。ヴェーバーがまず取り上げるのは結果を考慮しない無条件的な「心情倫理」である。「心情倫理」は山上の垂訓(絶対的な福音の倫理)であるがゆえに、自由主義者であると同時にキリスト者としてのヴェーバーが終生取り組まざるを得ない問題であった。特に「政治」においてはそれ自体絶対悪である「暴力」が必ず伴う。もちろん「暴力」は「暴力」を生み、「非暴力」は「暴力」を産まないということはないが、絶対的な倫理はこれを許さない。「政治」はその定義からして「正当化」された暴力を伴うがゆえ、なんらかの欺瞞が避けられないことになる。
     そこで、もう一つ導入されるのが「責任倫理」である。予見しうる結果の責任を負うべきだとするものである。この正反対な倫理は、むろん宗教的には交わることはない。しかし、ヴェーバーはこの相対立する二つの概念を政治においては調和しうる、というよりむしろ「両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである」(103頁)という。というのも、暴力を必然的に伴う政治においては、「責任倫理」に従って行動する政治家が結果を予見しつつそれでもなお(デンノッホ)「心情倫理」に従って行動せざるを得ないという事態が普遍的に生じるからである。
     以上のように、一見すると価値理念の表明にすぎないような政治における倫理の分析は、実はヴェーバーの研究の核心であり続けた、理解社会学(主観と客観の両面からの動機の統合)と、キリスト者としての自由の問題が凝縮している。つまり、人間は生きる限りこの矛盾を解消せざるを得ず、それを学問的に把握するのが社会学の課題なのである。10年後に再び今日の社会状況と将来の社会状況を結びつける作業を通してこの学問的手法正しさを確認しようという呼びかけにも、ヴェーバーの自信が溢れている。

全1件中 1 - 1件を表示

著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マックス・ヴェーバーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×