スノウ・クラッシュ〔新版〕 下 (ハヤカワ文庫SF) [Kindle]

  • 早川書房
3.81
  • (5)
  • (10)
  • (4)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 114
感想 : 9
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (387ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 上巻の終わり頃から始まっていた、ヒロとライブラリアンの対話が面白かった。対話形式で進めることで、読んでる側もすんなり理解を進められる。長い話ながらも、得た知識を人に伝えることで時々振り返って要約するポイントがあり、親切設計。下巻はテーマのクライマックスと並行して人物間のドラマも展開されるためノンストップの面白さ。主人公とその相棒Y.Tが知らず知らずのうちに中心人物になっていく展開が中二的でいい。少しずつドラマがフェードアウトしていくエンディングも心地よい。エンタメSF!映画化希望!

  • オーディブルはニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ・下巻』を今朝から聞き始める。

    「スノウ・クラッシュは脳細胞膜を貫通して、DNAの蓄積されている細胞核に到達する」

    Y.T.はNgの指示に従い、スノウ・クラッシュを手に入れた。Ngはマフィアに頼まれていたのだという。はじめてスノウ・クラッシュのサンプルを手に入れたマフィアが何をするのか。Y.T.とヒロのやりとり。

    「あたし、売人のひとりに会ったの」「彼女、もとはハッカーだったんだって。コンピュータの画面で何かおかしなものを診たら、具合が悪くなったの。それで病院に行って、あのカルト集団に加わって、最後は〈ラフト〉に行ったわけ」
    「〈ラフト〉か。続けてくれ」
    「《エンタープライズ》よ。あの連中、人の血を採るの。身体から吸い取るのよ。病気のハッカーの血を注射して、ほかの人に感染させるんだわ。で、ジャンキーみたいに血管が注射針の痕だらけになると、船から降ろして、陸上で広める仕事に就かせる」
    「なるほど」「そいつは巧妙だ」
    「彼女、コンピュータでノイズ画面を診たら、具合が悪くなったんだって。何か知ってる?」
    「ああ。そのとおりだぜ」

    ライブラリアンとヒロの対話の続き。

    「シュメール神話は、ギリシャ神話やヘブライ神話と同じ意味で〝読める〟あるいは〝楽しめる〟わけではありません。われわれとは根本的に異なる意識を表しているのです」「シュメールのあとにアッカドの神話がありますが、これはかなりの部分、シュメール神話をベースにしたものでした。アッカド神話の編纂者たちがシュメール神話から不可解な部分を除き、それをギルガメシュ叙事詩などの長い物語とつなぎ合わせたということは、明白です。アッカド人はセム族で、ヘブライ人と同系統でした」
    「アッカド人たちは彼女のことをどう言ってるんだ?」
    「アシェラーは性愛と生殖の女神です。また彼女は、破壊と復讐の女神という側面ももっています。ある神話では、キルタという人間の王が、アシェラーによって重い病気にされてしまいます。治せるのは、神々の王であるエルだけでした。またエルは、ある人たちに、アシェラーの乳で赤ん坊を育てるという特権を与えました。エルとアシェラーは、しばしば人間の赤ん坊をアシェラーの乳で育てています――ある記述によれば、彼女は70人の神の子たちの乳母だそうです」
    「例のウイルスをばらまいたんだな。エイズにかかった母親は、子供に母乳をやることで病気を感染させてしまう。これがアッカド・バージョンてわけだな?」
    「そうです」

    「アシェラーがどのようにエンキを病気にしたかという話を聞きたいですか?」「要約すると、このようなものです。エンキとニンフルサグ――アシェラーのこと――は、ディルムンという土地に住んでいました。ディルムンは純粋で清潔で明るく、病気もなく、そこでは人々は年をとらないし、肉食動物も狩りをしませんでした。
     しかし、そこには水源がありません。そこでニンフルサグは、一種の水の神であるエンキに対し、ディルムンに水をもたらすよう願います。エンキは葦の茂みのある溝でマスターベーションをして、生命のもとである精液――〝愛の水〟と呼ばれるものをあふれさせました。同時に彼は、その血には打でも入ってはならぬというナム・シュブを宣言しました――自分の精液の近くに誰も近づいてほしくなかったのです」「しかしニンフルサグは、エンキの命令にそむいてその精液に触れ、受胎します。9日間の妊娠ののち、彼女は痛みもなしに娘のニンムを産みます。川岸を歩くニンムを見て、エンキは激怒しますが、川を渡っていくと、彼女とセックスをします」
    「自分の娘と」
    「そうです。彼女は9日後に別の娘、ニンクラを産みます。そして、同じパターンが続きます」
    「エンキがニンクラともセックスするのか?」
    「ええ。そして彼女も、娘ウトゥを産みます。このころになると、ニンフルサグもエンキの行動パターンに気づき、ウトゥに家にいるように忠告します。そうすればエンキは、贈り物を持って誘惑にくるだろうと」
    「そうなったのかい?」
    「エンキはふたたび溝を〝愛の水〟で満たし、それによってさまざまなものが育ちます。栽培者は喜び、エンキを讃えます」「彼はエンキに、ブドウその他の贈り物をします。エンキはその栽培者の姿に化け、ウトゥのもとに行って彼女を誘惑します。しかしニンフルサグは策略をめぐらし、ウトゥの大腿からエンキの精液を手に入れます」
    「なんてこった。いやらしい義理の母親みたいなもんだ」
    「ニンフルサグが精液を大地に撒くと、8つの作物が芽生えました」
    「するとエンキは、植物ともセックスをするのか?」
    「いえ、彼は作物を食べます――そうすることによって、その秘密を学んでいるとも言えます」
    「つまり、アダムとイヴのモチーフってわけだな」
    「ニンフルサグはエンキを呪い、『汝が死すまで我は〝命の目〟で汝を見ることをせず』と言って姿を消したため、エンキはひどい病気になります。さきほどの作物に対応して、8つの臓器を患ったのでした。結局、ニンフルサグは説得されて戻ります。彼女はエンキの患った部分に合わせて8人の神を産み出し、エンキは治癒します。この8人こそ、ディルムンの神々でした。つまり、近親相姦のサイクルが破られ、正常な生殖をつかさどる新たな男と女の神が創り出されたのです」
    「ラゴスが〝熱病にかかった二歳児〟と言った意味がわかってきたよ」
    「アルスターは、この神話を解釈して、『ここに表れているのは、論理的問題、すなわち、もともとはひとりの創造者しかいなかったものから、いかにして通常の対による(バイナリ)性的関係が存在するようになったかということが表されている」と言ってます」
    「ほう、また〝バイナリ〟が出てきたか」
    「わたしたちの会社の初めのほうにあった分岐点を憶えていますね。あそこから別のルートをたどったとしても、この同じ結果にたどり着くわけです。この神話は、シュメールの創世記と比較することができます。シュメールの場合は天と地が最初はひとつで、それがふたつに分かれるまで世界というものは創造されませんでした。ほとんどの創世神話は、〝カオスともパラダイスともみなされる、すべてのもののパラドックス的統一〟によって始まり、それが変化するまで、われわれの知る世界というものは生み出されません。ここで、エンキのもともとの名が〝エンクル〟、すなわち〝クルの王〟であっことを、指摘しておかねばなりません。クルというのは、エンキが征服する太古の海、つまりカオスです」
    「ハッカーなら誰でもわかることだな」
    「しかし、アシェラーにも同様の暗示的意味があります。ウガリット語における彼女の名前は〝アティラトゥ・ヤンミ〟で、これは〝海を制圧する女〟という意味です」
    「オーケイ。つまりエンキとアシェラーは、ある意味でカオスを無効にする存在だったわけだ。そしてそのカオスを無効にすること、世界をバイナリ・システムに統一することが、創生を意味すると言いたいんだな」
    「そのとおりです」
    「ほかにエンキについて話せることはあるかい?」

    「シュメール神話の重要な部分のほとんどは、彼を中心に語られています。先ほど説明したように、彼は水に関わりがありました。川はもちろん、広大なシュメールの運河をも、生命を与える精液で満たしたのです。彼は、一度のマスターベーションでティグリス川を創り出したと言われます。彼はみずからのことを、こう語っていました。『わたしは王である。わたしの言葉は永続する。永遠の存在なのだ』。ほかの者からは、こんなふうに言われています。『あなたの言葉により、穀物の山が高く積み上げられる』『あなたは天の星を地上に降ろし、その数を数える』。彼は自分の創り出したあらゆるものの名を宣言します」「創世神話の多くにおいて、名前をつけるということがそのものを創り出すということなのです。さまざまな言語において、彼は〝呪文を確立したエキスパート〟とか、〝言葉に富む者〟とか、〝エンキ、すべての正しき命令のマスター〟などと表現されています。クレイマーとマイアーは、『彼の言葉は、カオスしかなかったところに秩序をもたらし、調和のあったところに混乱をもたらした』と指摘しました。そして、みずからの息子であり、バビロニアの主たる神であるマルドゥクに知識を伝えるため、多大な努力を払いました」
    「それでシュメール人はエンキを崇拝し、シュメールのあとに現れたバビロニア人は、その息子マルドゥクを崇拝したわけか」
    「そうです。マルドゥクは、困ったことがあるといつでも父親のエンキに助けを求めました。この石碑――ハムラビ法典の石碑ですが、これにマルドゥクが描いてあります。ハムラビによれば、この法典はマルドゥクから彼に対し個人的に与えられたものです」

    「こいつはまさに、マルドゥクがハムラビに1と0をわたしている図なんじゃないか?」
    「それが王の権力の象徴です」「起源ははっきりしませんが」
    「エンキに原因があることは確かだな」
    「エンキの最も重要な役割は、メと〝ギスフール〟の創造主であることと守護者であることでした。ギスフールというのは、宇宙を支配するキーワードとパターンです」
    「メについて話してくれ」
    「もう一度クレイマーとマイアーを引用しましょう。『(彼らは)宇宙とその構成要素、神々と人類、都市と国、社会生活のさまざまな側面といったものに関連づけられる、権力と義務、規範と標準、法律と規定という根本的かつ不変で包括的な組み合わせ、つまりメが、原初より存在していると信じていた』」
    「律法(トーラー)のようなものか」
    「ええ。ですが、神秘的あるいは魔術的な力ももっていました。そして、宗教的なものばかりでなく、凡庸な問題に使われることもしばしばあります」「ある神話では、女神イナンナがエリドゥに行き、エンキをだまして94のメを手に入れます。彼女が自分の都市ウルクに持ち帰ると、メは歓喜のもとに迎えられました」
    「イナンナっていうのは、ジャニータがとりつかれてたやつだな」
    「そうです。イナンナは『メの完全な実行(エクシキュージョン)をもたらした』ということで救世主として歓迎されました」
    「実行? コンピュータ・プログラムの実行みたいなものか?」
    「ええ。社会にとって重要な、ある種の作業を実行するアルゴリズムと言えるでしょう。あるものは聖職と王政の仕事に関係します。あるものは、宗教的儀式をいかに行うかを説明します。またあるものは、戦争と外構の術に関係します。そして多くは、芸術や技能についてです。つまり音楽や大工仕事、鍛冶、皮なめし、建築、農作、あるいは火おこしといった単純な作業にまで関係していました」
    「社会のオペレーティング・システムだな」「電源を入れた瞬間、コンピュータは、自分では何もできない回路の寄せ集めにすぎない。マシンを起動するには、この回路に、どうやって機能するかといったルールの集まりを注入してやらなくちゃならない。いかにしてコンピュータになるか、だ。このメってやつは、社会におけるオペレーティング・システムみたいなもので、何もできない人間の集まりが、システムとして機能するようにさせるわけだな」
    「解釈はご自由に。いずれにせよ、エンキはメの守護者でした」
    「いいやつだったんだな」
    「彼は最も愛される神でした」
    「ハッカーみたいにも思えるな。そのせいで、彼のナム・シュブは理解するのがすごく難しい。そんなにいいやつだったのなら、なぜバベルの一件なんかがあるんだ?」
    「エンキの謎のひとつと考えられています。お気づきのように、彼の行動は、現代の規範から言って必ずしも一貫性があるとは言えません」
    「それには賛成できんな。彼がほんとうに自分の妹や娘やその他とファックしたとは思えない。その話は、何かほかのことのメタファーに違いない。一種の帰納的情報処理に対するメタファーなんじゃないだろうか。この神話全体に、それが感じられる。連中にとって、水と精液は同じだった。たぶん、汚れのない水という概念がなくて、茶色い泥混じりの、ウイルスがうじゃうじゃいる水ばかりだったんだろうから、無理もない。だが現代の視点からすると、精液は情報の運搬役にすぎない。善良なる精子と、悪意あるウイルス両方のね。エンキの水、つまり彼の精液でありデータでありメでもあるものは、シュメールの国全体に満ち、国を繁栄させた」
    「ご存じのように、シュメールはふたつの大きな川、ティグリスとユーフラテスの間に挟まれた、氾濫原にありました。すべての年度版が出てきたのもここでした。彼らは河床から直接回収したのです」
    「つまりエンキは、情報を運ぶ媒体である粘土も、彼らに与えたんだな。彼らは湿った粘土板に文字を書いて乾かした――水分を除いたわけだ。その後、水がつくと、情報は失われる。だが、粘土板を焼いて水分をすべて除いてしまえば、つまり熱でエンキの精液を使えなくすれば、タブレットは永久に存在し、律法の言葉のように不変のものとなるんだ。考えすぎかな?」
    「わたしにはわかりません」「ですが、あなたはラゴスに似て見えます」
    「ぞくぞくするな。おれはこれから、〈ガーゴイル〉に変身するぞ」

    「学問的範疇で言えば、文献というものは本質的に空想的なものではありません。しかし、バベルについては、それを解釈しようとする膨大な努力が払われてきました。バベルの塔のことでなく――あれについては、ほとんどの人が神話とみなしています――言語が分岐するという事実のことです。すべての言語を結びつけようとして、多くの言語理論が作られてきました」
    「ラゴスが自分のウイルス仮説に適用しようとした理論だな」
    「ええ。相対主義と普遍主義という、ふたつの主義があります。ジョージ・スタイナーが要約していますが、相対主義者は言語のことを、思考を伝達するものでなく、思考を決定する媒体だと信じています。それは認識の枠組みであり、あらゆることに対するわれわれの近くは、この枠組みを通過する間隔の流れによって組織されているというわけです。したがって、言語の進化を研究することは人間の精神自体の進化を研究することになります」
    「オーケイ、意味はわかった。普遍主義ってのは?」
    「言語は互いに共通する部分をもつ必要がないという相対主義とは逆に、言語を充分に分析すれば、すべての言語がもつ共通の特徴を見つけることができるとする考えです。普遍主義者たちは言語を分析し、そうした特徴を探します」
    「何か見つかったのか?」
    「いえ。あらゆる法則には例外があるようです」

    「彼らが言うには、あるレベルにおいて、言語は人間の脳の中で生じたはずだということです。人間の脳はいくぶんか似かよっていますから――」
    「ハードウェアは同じだ。ソフトウェアは違う」「つまり、フランス語をしゃべるやつの脳も英語をしゃべるやつの脳も、もとは同じってことだ。成長するにつれ、別々のソフトウェアでプログラミングされる――別の言語を学ぶんだ」
    「そうです。したがって、普遍主義者によれば、フランス語も英語も――別の言語もすべて――人間の脳の〝深層構造〟に根ざすある特徴を共有していなければなりません。チョムスキーの理論によれば、深層構造とは脳の生来の要素であり、記号列によってある種の形式的な作業の実行を可能にするものだということです。あるいは、スタイナーがエモン・バッハの言葉をこう言い換えています。『この深層構造というのは、結局は膨大な分岐による脳皮質のパターン化ということであり、また電気化学的かつ神経生理学的なチャネルによる〝プログラム化された〟ネットワークである』と」

    「ラゴスはチョムスキーの理論を修正して、言語を学ぶのはPROMにコードを焼きこむのと同じだと仮定しました――わたしには翻訳できないアナロジーです」
    「そいつは簡単さ。PROMってのは、〝プログラマブル・リードオンリー・メモリ〟チップのことだ。工場から出てきたときは、何も中身が入っていない。その後、一度だけ情報を書きこんで、焼きこむことができる――データやソフトが、チップに固定され、ハードウェアになるわけだ・PROMにコードを焼きこんだあとは、読み出すことはできるが、それ以上の書きこみはできない。ラゴスはこう言いたかったんだろう。生まれたばかりの人間は脳になんの構造ももってなくて――ここは相対主義の部分だ――幼児が言葉を学んでいくにつれて、脳の構造も発達し、言語がハードウェアに〝焼きこまれて〟いき、脳の深層構造にとって不変の部分となる――ここは普遍主義の部分だ」「すると、エンキが魔術的な力をもつ実在の人間だったというラゴスの言葉の意味は、エンキが言語と脳の関係をある程度理解していて、その扱い方を知っていたということだ。あるコンピュータ・システムを知りつくしているハッカーなら、そいつをコントロールするコードを書けるのと、同じことだ。いわばデジタル・ナム・シュブだな」
    「エンキは言語の宇宙に昇ってそれを目の当たりにする能力を持っていたのだ、とラゴスは言っていました。人間がメタヴァースに入るのと同じです。それにより、彼はナム・シュブを創り出す力を得ました。ナム・シュブは、脳と身体の帰納を変える力を持っているのです」

    「初期の言語学者は、カバラ主義者と同じように、〝エデンの言葉〟、つまり〝アダム語〟と呼ばれる架空の言語を信じていました。それを使えばあらゆる人間同士が理解しあえ、誤解のないコミュニケーションができるのだと。それは神がこの世界を創ったときに使った言葉です。〝エデンの言葉〟においては、あるものに名前をつけるということは、それを創り出すということなのです」
    (中略)
    「この世界におけるマシン語ってわけか」「コンピュータはマシン語をしゃべるんだ。1と0,つまりバイナリ・コードで書かれている。いちばん低いレベルでは、あらゆるコンピュータは1と0の文字列でプログラミングされているんだ。マシン語でプログラミングするというのは、コンピュータの脳幹にあたる部分、つまり存在の根幹からコントロールするということを意味する。マシン語は〝エデンの言葉〟だ。
     ところが、マシン語で作業をするってのは、かなり難しい。そんな精密なレベルで膨大な作業をしていたら、しばらくすれば頭がおかしくなっちまうからな。そこで、プログラミングのためにバベルも真っ青のいろんなコンピュータ言語ができたってわけだ。フォートラン、ベーシック、コボル、リスプ、パスカル、C、プロログ、フォース。こういった言語でコンピュータと話すと、コンパイラと呼ぶソフトがそれをマシン語に変換してくれる。
     でも、コンパイラが何をしているかってのは、こっちにはわからない。しかも、いつも思ったとおりにやってくれるとはかぎらない。汚れたガラスや、歪んだ鏡のようにな。ほんとに進んだハッカーは、マシン内部での働きを理解しようとする――自分の使っている言語のむこうにある、バイナリ・コードの隠された機能をつかむんだ。〝バール・シェム〟みたいになるわけさ」
    「ラゴスは、〝エデンの言葉〟の伝説は現実の出来事を誇張したものだと信じていました。こうした伝説は、その後のいかなる言語よりも優れた言語であるシュメール語を話していたころへの、ノスタルジアが反映されているのだと」
    「シュメール語はほんとに優れていたのか?」
    「現代の言語学では理解できません。(中略)ラゴスは、単語が現在とは違った働きをしていたのではないかと考えていました。もし、ある人の自国語が発達途中の脳の物理的構造に影響を与えるのなら、シュメール人は――現存するどんなものとも決定的に違う言語を話す彼らは――われわれとは根本的に違う脳をもっているはずだと。このことからラゴスは、シュメール語はウイルスの創造と伝搬にうってつけの言語だったのだと結論づけました。一度シュメールに放たれたウイルスは、急速に、かつ非常な毒性で、あらゆる人に完成していったのです」
    「エンキはそのことも知っていたらしいな。エンキのナム・シュブは、それほど悪いものじゃなかったんだろう。バベルの一件は、人類にとってこれまででベストの出来事だったのかもしれない」

    オーディブルはニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ・下巻』の続き。

    アラスカ湾の半島国家ケナイ・アンド・コディアック暫定共和国(TROKK)がロシアからやってきた難民のオーソ(ロシア正教会の異端者)の連中に乗っ取られた。オーソは〈ウェイン牧師の真珠の門(パーリーゲート)と関連があり、舌がかりをしゃべる=ウイルスに感染している。彼らは自分たちをロシアから運んでくれた旧ソ連の原潜を乗っ取り、核弾頭を手にした。その船に、アレウト族出身のクジラ獲りレイヴンもいて、彼が潜水艦の乗組員と難民の大半を殺して、核弾頭はレイヴンのコントロール下に入ったのだ。

    「イナンナとは?」
    「シュメール神話上の存在です。のちの文明において、彼女はイシュタルまたはエステルと呼ばれるようになりました」
    「善の女神か、それとも悪の女神か?」
    「善です。愛された女神です」
    「その女神はエンキやアシェラーと関係があったのか?」
    「おもにエンキとありました。この女神とエンキとは、時にいい関係にあったり、悪い関係にあったりしました。なお、イナンナはすべての崇高なメをつかさどる女王として知られていました」
    「メはエンキに所属するものと思ったが」
    「そのとおりです。ですがイナンナはアブズ――エリドゥの街にある、エンキがメを溜めこんでいた水上要塞――に行き、エンキからメを手に入れたのです。メはこのようにして文明に放たれました」
    「水上要塞だって?」「エンキはその事態をどう受け取ったんだ?」
    「彼はみずからの意志で、それを彼女に与えています。というのも、彼はそのとき明らかに酔っており、イナンナの容姿の魅力に負けていたのです。酔いから醒めると彼女を追い、メを取り戻そうとしましたが、イナンナのほうが彼よりも上手でした」
    「記号論的に考えてみよう」「〈ラフト〉はL・ボブ・ライフの水上要塞だ。ライフはそこに自分のすべてのものを溜めこんでいる。彼のメのすべてを、だ。ジャニータはアストリアへ行ったが、そこは2日ほど前には〈ラフト〉に最も近い場所だった。彼女はおそらく、イナンナを気どろうとしてるんだと思う」

    ヒロはジャニータを追って〈ラフト〉を目指す。〈ラフト〉にはL・ボブ・ライフに操られたオーソがうようよしている。その過程で、ヒロは義眼の男らと合流する。

    「われわれは同じ一味に属する、同志なのだ」
    「一味って、なんの?」
    「ラゴスの一味さ」「いや、正確には彼の一味ではない。が、そのお膳立てをしたのが、彼なんだ。彼を中心にすべてが形作られた」「ラゴスにはアイデアがあった。いろいろな種類のアイデアが」「彼はさざまざな分野にわたるスタックをそこらじゅうに持っていた。それを使ってマップのあちこちから知識を引っぱり出し、つなぎあわせる。彼はそういったものをメタヴァースのそこかしこに忍ばせておいた。その情報が役に立つ日までな」
    「複数だったのか?」
    「おそらくな。とにかく数年前、ラゴスはL・ボブ・ライフと接触した」
    「彼が?」
    「そうだ。いいか、ライフは無数のプログラマーを使っているが、やつは彼らが自分のデータを盗んでるんじゃないかという偏執狂的な疑いを抱いていた」
    「彼らの家を監視していたのは知ってるよ」
    「きみがなぜそれを知っているかというと、きみはそれをラゴスのスタックから見つけたからだ。そしてラゴスがなぜわざわざそれを調べたかというと、彼は市場調査をしていたからだ。バベル/インフォカリプス・スタックを高く買うやつはいないかと、探していたんだよ」
    「彼は、L・ボブ・ライフがウイルスを使ったんじゃないかと考えた」
    「そうだ。おれにはそのあたりのことは理解できない。が、彼はおそらく知的エリートを狙った古いウイルスか何かを発見したんだと思う」
    「テクノロジカル僧侶、インフォクラートだ。シュメールの情報制度(インフォクラシー)を完璧に消滅させたものだ」
    「よくは知らんがね」
    「狂ってるな。それじゃあまるで、従業員たちがボールペンを盗んだからといって、そいつらを片っ端から殺しているようなもんじゃないか。そんなウイルスを使ったら、すべてのプログラマーの精神をおかしくすることになる」
    「オリジナルの状態ではな。だが要するに、ラゴスはそれを研究したかったということだ」
    「情報戦争の研究か」
    「ビンゴだ。彼はそれを抽出し、プログラマーを操作できるように改良したかった。連中の脳みそをぶっつぶしたりせずにね」
    「うまくいったのかい?」
    「さあね。ラゴスのアイデアを盗んだのはライフだ。やつはそれを奪ってトンズラした。それ以来、ライフがそれをどうしたか、ラゴスには見当もつかなかった。が、それから数年して、彼は自分の目に映るものを見て、心配になってきた」
    「〈ウェイン牧師の真珠の門〉が急成長した、とか」
    「それに、舌がかりのロシア人たち。そしてライフが発掘している都市の遺跡――」
    「エリドゥか」
    「そうだ。それから電波天文学関係。ラゴスの心配の種は多かった。そこで彼は、ほかの人間にアプローチしはじめた。われわれにアプローチした。きみが前につきあっていた娘にもアプローチした――」
    「ジャニータ」
    「ああ。いい娘だ。それからミスター・リーにもアプローチした。つまり、この小さなプロジェクトには、何人かの人間が携わってきたと言えるわけだ」

    ヒロは義眼の男〈フィッシュアイ〉といっしょにレイヴンを追うが、潜水艦を操るレイヴンの反撃を食らって船を破壊され、救命ボートで漂流する羽目に。一方、Y.T.は荷物を届けたときに捕まり、〈ラフト〉送りにされる。そこでレイヴンのガールフレンドになる。

    オーディブルはニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ・下巻』の続き。

    レイヴンがY.T.に語って聞かせた身の上話と目標。

    「ロシア人にめちゃくちゃにされちまった……天然痘の死亡率は90%だった……奴隷としてやつらのアザラシ狩りに駆り出され……スーアードのアラスカ購入で……42年にニッポニーズの連中がおれの親父を捕まえ、戦争が終わるまで捕虜収容所に監禁……それからアメリカ人が原爆を落としやがった。信じられるかよ?」
    「ニッポニーズは自分たちが原爆を落とされた唯一の民族だと言うが、すべての核兵器の背後には、その核実験で故郷が犠牲になる先住民がいるんだ。アメリカ国内ではアリューシャン列島、それからアムチトカが被爆した。おれの親父は」「二度も被爆した。一度目はナガサキ。そこで失明して、それから1972年になってアメリカがおれたちの故郷に対して核を使った」

    「何をしようとしてるの? ていうか、あんたの目標はなんなの?」
    「短期的な目標かい? それとも長期的な目標?」
    「えっと――長期的」
    「おれには計画があった――アメリカに核攻撃を仕掛けるつもりだった」
    「そう。でも、それってちょっとキツイわね」
    「かもな。それはおれの気分しだいだ。長期的な目標は、それ以外にはない」
    「じゃあ、中期的なやつは?」
    「数時間後に〈ラフト〉は解体する。おれたちはカリフォルニアに向かってる。まともに暮らせる場所を探してな。おれたちを食い止めようとする連中もいるだろう。みんなが安全に、陸にたどり着けるようにするのがおれの仕事だ。だから言ってみれば、おれは戦争に行くわけだ」

    Y.T.がついに事の真相を知ることに。

    「ここですべてが組み合わさった。〈連邦府〉、L・ボブ・ライフ、〈ウェイン牧師の真珠の門〉、そして〈ラフト〉は同じ穴のムジナだったのだ」
    「彼らはみんなL・ボブ・ライフに雇われている。プログラマーとエンジニアとコミュニケーション技術者だ。ライフは重要人物だ。独占権を握ってるんだ」
    「レイヴンとの関係も、好ましく思えるようになりそうだった。彼が人殺しのミュータントである、という事実さえなければの話だが」

    ヒロとNgとアンクル・エンゾとミスター・リーのそろいぶみ。ヒロがここまでに判明した事実を列挙する。

    「メタウイルスとして知られる存在があります。これが原因で、情報システムは、それ自体をカスタマイズされたウイルスに感染させてしまう」「完全無欠で複雑な情報システムは、いつか必ずウイルスに――みずからの内部で形成されるウイルスに感染するんです。
     はるか昔の、ある時期に、このメタウイルスは人類に感染し、以来、おれたちとともにあるわけです。それはまず初めに、パンドラの箱いっぱいのDNAウイルス――天然痘、インフルエンザ等々をばらまきました。そして健康と長寿は過去のものとなった。その記憶が〝楽園追放〟という伝説となって継承されるようになりました。人類が安楽な場所から、病魔と苦痛が荒れ狂う世界へと放り出された、という。
     その伝染病はやがてある種の安定期に達しました。いまでも新しいDNAウイルスを目にすることがありますが、おれたちの身体はどうやら、DNAウイルス一般に対する抗体を生み出したようなのです」
    「いずれにせよシュメール文化――このメを基礎とした社会――もやはり、メタウイルスの現れだった。ただしこの場合、それはDNAではなく、言語としてだった」
    「失礼だが」「きみはこう言いたいのかね、文明が感染から発生した、と?」
    「古代の文明に関するかぎりは、そのとおりです。メはそれぞれ一種のウイルスで、メタウイルスの原理には当てはまりません。パン焼きのメを例にとってみましょう。メが社会に入りこんだころ、それは独立した一個の情報にすぎませんでした。単なる自然淘汰の問題です。パンの焼き方を知っている人々は、それを知らない人々よりも、よりよい生活ができますし、生殖にも適しています。当然のことながら彼らはメを流布し、この自己複製する情報にとっての宿主を務めました。それをウイルスと呼ぶ所以は、そこにあります。シュメール文化――各地の寺院をメでいっぱいにしていた文化――は千年王国が血帰責してきた優秀なウイルスの集大成にすぎなかった。それはフランチャイズ経営だったんです」
    「シュメール語で〝心〟や〝知恵〟を示す言葉は、〝耳〟を示す言葉と類似しています。彼らはつまり、そういった人々だった。耳が身体に付いている、といったような人々だったわけです。情報の受け手だった。ところがエンキは異なっていた。エンキはたまたま、非常に仕事のできるエンだった。彼には、新しいメを書くというまれにみる才能があった――彼はハッカーだったわけです。彼は実際のところ、最初の近代人であり、自意識のある人間だった。ちょうど、おれたちのような。
     ある時点でエンキは、シュメールに未来がないということに気づいた。人々は年がら年じゅう、お決まりのメを実践し、新しいメも生み出さず、自分たちで考えたりもしない。世界に数えるほどしかいない――おそらくはただひとりの――自意識のある人間だった彼は、じつは孤独だったのではないか、と思うんです。そして、人類の進歩のためには、ウイルス文明からの脱却が必要である、ということに彼は気づいた。
     そこで彼はメやメタウイルスと同じルートで蔓延する抗ウイルス、エンキの〝ナム・シュブ〟を編み出した。それは脳の深層構造に到達し、それをプログラムしなおした。それ以降、シュメール語をはじめとする、深層構造に根ざした言語を解する者はいなくなった。そうして共通の深層構造から切り離されたおれたちは、互いに共通点を持たない言語を、めいめい開発しはじめたわけです。メは機能しなくなり、新しいメを書くこともできなくなった。メタウイルスの進行は食い止められました」
    「パン焼きのメを失った人々はなぜ、パンがなくても飢え死にしなかったんだ?」
    「餓死者も多少は出たでしょう。それ以外の誰もが、より高次の思考力を使って考えさせられたわけです。したがってエンキのナム・シュブは、人間の自意識の出発点であったと言える――われわれが自分の頭で考えさせられた最初の瞬間です。それはまた、理性に基づく宗教の起源でもあり、人間は神や善や悪といった抽象的な問題を考えはじめました。バベルという名前はそこから来ています。言葉としては〝神の門〟を意味しています。これは神を人類に導く門でした。バベルはおれたちの心の中にあるゲートウェイです。メタウイルスによる束縛からおれたちを解放し、おれたちに考える能力を授けた――おれたちを物質世界から二元的世界へ――物質的な要素と精神的な要素が共存するバイナリ世界へと移行させた――エンキのナム・シュブによって切り開かれたゲートウェイです。
     カオスと大変動があったと思われます。エンキ、あるいは彼の息子であるマルドゥクはメという従来のシステムに取って代わる法典によって、社会に秩序を取り戻そうとした――それがハムラビ法典です。これは部分的にですが、成功を収めました。ところが各地でアシェラー信仰が存続しました。シュメール時代への回帰と言えるこれは、とてつもなく頑強なカルトで、言葉だけでなく体液をも交換することによって広がっていきました」
    「ヘルペスと類似した、あるいはヘルペスと同一のものなのかもしれませんが、このアシェラー・ウイルスは、細胞膜を突き抜け、核に到達すると細胞のDNAに鑑賞します」

    「ウイルス的思考は僕別可能です――たとえばナチズム、ベルボトム・ジーンズ、バート・シンプソンTシャツがそうでした――が、生物的な側面を持っているアシェラーだけは、なおも人間の体内に潜伏することができる。バベル以降になっても、アシェラーは人間の脳に巣くいつづけ、母から子へ、愛人から愛人へと伝承されていった。
     おれたちはみな、ウイルス的思考の力に左右されやすいんです。ちょうど集団ヒステリーのように。または頭の中に入りこみ、誰かに感染すまで、日がな一日口ずさんでしまう歌のように。ジョーク。都市伝説。常軌を逸したカルト教団。マルクス主義。いかにおれたちが賢くなろうとも、おれたちを自己複製する情報にとっての有効な宿主にしてしまう不都合な部分というのは、いつまでも存在する。ただし身体が悪性のアシェラー・ウイルスに感染している場合は、さらにいちだんと感染しやすい状態になる。これらの支配から世界を守っている唯一のものこそ、バベルという要素――人類を区分し、ウイルスの拡散を阻止する、相互理解を妨げる壁なんです。
     バベルは言語の種類を爆発的に増加させた。それはエンキの計画の一部でした。トウモロコシ畑のような単一栽培は伝染病の影響を受けやすい。それに反して、大草原のような遺伝学的に多様な栽培は非常にたくましい。数千年たって、例外的な柔軟性と力を兼ね備えた新しい言語――ヘブライ語――が生まれた。これを最初に利用したのが、紀元前7世紀から6世紀に存在した申命記派と呼ばれる、ラディカルな一神論者の団体です。彼らが生きたのはナショナリズムと外国人排斥運動が台頭していた時代でした。したがってアシェラー信仰のような、外来思想を排除するのは簡単な仕事でした。彼らは自分たちの物語をまとめて律法(トーラー)を完成させ、宣伝効果が未来永劫に続くようにな法令をその中に組みこんだ――結果的には、〝これを複製して毎日読むように〟と諭しているような法令です。そして彼らは、情報衛生学とでも言うべきものを推奨した。複製は正しく行わなければならず、情報は危険なものだから慎重に扱わなければならない、と彼らは信じていた。彼らはデータを制御された物質にしてしまったんです」
    「いずれにせよ、それは理性的な宗教の誕生だった。それ以降の――回教徒が適切にも聖書の宗教と呼ぶ――一神教は、そういったアイデアをある程度吸収しました。たとえばコーランは、それが天国にある本の写本であり、完全な複製であると、何度となく訴える。当然のことながら、それを信ずる者はテキストに手を加えようなんて一分たりとも思わない! このようなアイデアは、アシェラーの伝播を阻止することにかけては、あまりにも効果的で、結果としてウイルス・カルトが栄えた――インドからスペインにかけての――地域はひとつ残らずイスラム教やキリスト教、ユダヤ教の支配下になりました」

    「ラゴスはこういったことすべてを発見したわけです。彼はもともと、アメリカ国会図書館の調査員だった。その後CICがライブラリを吸収した際に、CICに配属されました。彼はライブラリで面白そうなもの、自分以外に誰も掘り起こさないような史料を探し出すことで収入を得ていた。そういった史料を彼は整理し、人々に売っていた。このエンキ/アシェラーに関係する事柄を知ってからというもの、彼はその買い手を求めた。そして〝帯域幅王〟で光ファイバー系独占企業のオーナー、当時は地上で最も多くのプログラマーを雇っていたL・ボブ・ライフに落ち着きます。
     ラゴスはビジネスの素人にありがちな致命的欠陥を持っていました。考えが小さすぎたんです。ちょっとした投下資本金があれば、この神経言語ハッキングは新しいテクノロジーとして発展し、ライフはプログラマーたちの脳に入った情報を管理できるようになるだろう、と彼は考えました。善悪はともかく、悪いアイデアではありませんでした。
     ライフは大きいことを考えることが好きです。このアイデアがなおいっそう強力なものになりうる、とたちどころに見抜きました。彼はラゴスのアイデアを手に入れるやいなや、ラゴスに対して、とっとと失せろ、と言います。それから彼はペンティコスト教会に大金をつぎこみます。テキサス州ベイビューの小さな教会を買い取り、それを大学にまで発展させます。三流の牧師だったウェイン・ベドフォード師を雇い、それを法皇の上をいく重要人物に祭り上げます。ライフは一連の自立型宗教フランチャイズを世界じゅうに展開し、自分の大学と、そのメタヴァース・キャンパスを使って何万人もの宣教師を生み出しました。宣教師たちは第三世界のいたるところに散らばり、ちょうど聖ルイス・バートランドのように人々を改宗しはじめます。L・ボブ・ライフの舌がかりカルトはイスラム教の誕生以来、最も成功した宗教です。彼らはキリストについて語ることも多い。とはいえ自称キリスト教会の多くがそうであるように、その名前を使うだけでキリスト教とは無関係。それはポスト理性的宗教なんです。
     さらに彼は、その宗教の促進剤あるいは増進剤として生物的ウイルスをばらまくつもりでしたが、性的生贄である教団内娼婦を介してそれを実行するわけには、どうしてもいかなかった。それがあまりにも反キリスト的で破廉恥な行為だからです。ただし、第三世界に版権した宣教師の役割のひとつに、奥地に入って人々にワクチン接種をする、というのがあった――そして、その注射器にはワクチン以外のものも入っていたわけです。
     一方、第一世界に関しては、人々はすでにワクチン接種を受けているし、宗教的狂信者がやって来ておれたちに針を刺すなどということを誰も許しはしない。とはいえ人々は、たくさんのドラッグを摂取している。そこで彼は、作戦を変更しました。人間の血清からウイルスを抽出し、スノウ・クラッシュと呼ばれるドラッグとして、その体裁を整えたんです。
     ちょうどそのころ、彼は〈ラフト〉を使って、何十万人という信者をアジアの不遇な世界から合衆国へ輸送していました。メディアが報道する〈ラフト〉のイメージによれば、そこは何千もの異なる言語が飛び交う完全な混乱状態で、そこには権力の中心もない。だが、実際はまったく違う。高度に組織され、統制も行き届いている。そこの人々はみな、互いに異言を交わしている。L・ボブ・ライフはゼノグロシアを手に入れ、それを改良し、それを科学にした。
     彼は、これらの人々の頭蓋骨に受信機を植えこみ、脳幹へ指示――つまりメを送信することによって、彼らを操作することができるようになりました。百人にひとりが受信機を持っていれば、その人間はその区域のエンとして機能し、L・ボブ・ライフのメをほかの者に分配することができます。彼らはまるでプログラムされたかのように、L・ボブ・ライフの指示に従うんです。そしていま現在、彼はこういった人々を百万人ほどカリフォルニアの沖に待機させています」

    「ライフの目的はなんだと思う?」
    「彼は王の中の王、オジマンディアス(ラムセス2世のギリシャ名)になりたがっている。いいですか、これは単純な話なんです。人々を自分の宗教に改宗させてしまえば、あとはメを使って人々を操作できるようになる。そして彼は無数の人々を自分の宗教に改宗させることができる。なぜならそれはウイルスのように広まるからです――人々はそれに対する抵抗力を持っていない。宗教について考えている者などいないし、そういったことについて議論するほど、人々は理性的でないからです」
    「おれの知るかぎり、バイナリ・ウイルスを止める手段はありません。ただし、ライフのいんちき宗教に対する対抗手段はある。エンキのナム・シュブが、まだ存在しています。彼はその複写を彼の息子、マルドゥクに授け、マルドゥクはそれをハムラビに与えた」「いずれにせよエンキは、ナム・シュブをなんらかのかたちで伝えたという印象を、わざわざ与えている。これはつまり彼が、アシェラーがふたたび地上に現れるときを想定し、後世のハッカーたちが解読すべきメッセージを遺したということです」
    「もしおれたちが、〈ラフト〉上にあるすべてのエンに対してエンキのナム・シュブを発信できたなら、彼らは〈ラフト〉の人々に取り次ぐはずです。それは彼らの祖語ニューロンを混乱させ、新たなメを使って彼らをプログラムしようとするライフを阻止するでしょう。ただしおれたちは、これを〈ラフト〉が解体する前に終わらせる必要があります――難民全員が上陸する前にです。ライフはエンに語りかけるとき、《エンタープライズ》にある送信機を介しますが、これは見える範囲にしか電波が飛ばないような、短距離用のものと思われます。彼は近いうちにこのシステムを使って、難民が足並みのそろった一個の統合軍となって上陸してしまうような、大きなメを配信するはずです。つまり〈ラフト〉が解体したら最後、難民全員への司令を一回の送信ですませることは不可能になる。だからおれたちは、できるだけ早くこれを行動に移さなければなりません」

    オーディブルはニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ・下巻』の続き。

    L・ボブ・ライフのいんちき宗教の感染を抑えるために、エンキのナム・シュブが発動された。ライフは残された最後の手段として、ハッカーたちの脳を破壊すべく、ハッカーが全員集合している円形劇場に狙いを定める。核弾頭をもったレイヴンがバイクで円形劇場に向かうのをヒロが妨害する。2人には思わぬ因縁があった(どこかにそれをほのめかす伏線らしき情報はあった???)

    「レイヴン」「おまえを殺す前に、話しておきたいことがある」「おれの親父な第二次大戦のとき、陸軍にいた。年をごまかして入隊したんだ。軍は親父を太平洋にまわして雑用をやらせた。とにかく親父はニッポニーズに捉えられたわけだ」「やつらは親父を日本に連行した。そこにはたくさんのアメリカ人がいて、イギリス人と中国人も少しずついた。そのほかに、やつらが分類できなかった男がふたり。見た目はインディアンだった。英語を少々話したが、ロシア語のほうがより堪能だった」
    「アレウト族だ」「アメリカ国民だ。だが、誰も彼らのことを知らなかった。日本が戦争中にアメリカの領土を征服したという事実を知る者はほとんどいない――アリューシャン列島の端にあるいくつかの島を。住民がいる島だ。おれたちアレウト族が。日本軍は最も重要なふたりのアレウト人を連れ去り、日本の捕虜収容所にぶちこんだ。ひとりはアッツ島の島長――最も重要な市民の代表だ。もうひとりは、おれたちにとってもっと重要な人物であり、アレウト国の銛師の頭だった」
    「その島長は病気にかかり、死亡した。免疫をいっさい持っていなかったからだ。それに反して銛師はタフな男だった。何度が病気にかかったが、それでも彼は生き残った。他の捕虜といっしょに農場へ働きに出かけ、戦時中の食料となる作物を育てた。厨房で働き、捕虜と看守に食い物を作った。食い物をたくさん自分のものにしていた。彼はひどく臭くて、誰もが彼を避けていた。彼のベッドの臭いは兵舎全体に行き渡った」
    「彼は農場で見つけたキノコやその他もろもろのものを服の中に隠し、それから捕鯨用のトリカブト系の毒薬を調合していたんだ」
    「(略)とにかくある日、昼食後のこと、看守の連中が片っ端から重い病気にかかった」
    「魚のシチューに入った捕鯨用の毒だ」
    「(略)それは戦争末期のことで、増援部隊を呼ぶのは難しかった。おれの親父は捕虜の列の最後尾にいた。そしてそのアレウト人の男が親父の前にいた」
    「捕虜たちが灌漑用水路を渡っているとき、アレウト人が水に飛びこみ、消え失せた」

    「アレウト人は境界線のフェンスを目ざして走った。もろい竹製のフェンスだ。そこにはおそらく地雷原があっただろうが、彼は問題なくそれを駆け抜けた。幸運だったのか、さもなければ地雷が――もしあったらの話だが――少ないうえにまばらだったんだ」
    「やつらは隙のない警戒線を敷こうとも思わなかった」「なぜなら日本は島国だから――逃げたところで、どこに逃げるというんだ?」
    「だが、アレウト人にはできた」「彼なら、最も近い海岸線に出て、カヤックを作ることができた。彼なら外海に出て、日本の海岸線に沿って北上し、島から島へと波に乗り、アリューシャン列島まで帰り着くことができた」

    「おれの親父は、おまえの親父の足跡をたどって地雷原を渡った。そしてふたりは自由になった――日本の中で。おまえの親父は丘を下り、海に向かおうとしていた。おれの親父は丘を登り、山に入りたかった。戦争が終わるまで僻地に隠れ住み、生き長らえることができると考えていたんだ」

    「ふたりの論争は――いまのおれたちと同じ論争だが――破滅を招いた。ニッポニーズはふたりを長崎郊外の路上で捕らえた。やつらには手錠さえもなかった。そこでやつらは靴ひもでふたりをうしろ手に縛り、互いを向き合わせて路上にひざまずかせた。そして少尉が鞘から刀を抜いた。それは歴史のある刀だった。少尉は由緒あるサムライの出身で、開戦後まもなく片脚を吹き飛ばされたために、内地勤務にまわされていた。少尉はおれの親父の頭の上で、その刀を上段に構えた」
    「刀は宙で高く鳴り響き」「それが父の耳を痛めつけた」
    「けれども刀は振り下ろされなかった」
    「おれの親父は、メの前にひざまずくお前の父親の骨格が、あの光で透けるのを診た。親父が最後に見たものだ」
    「おれの親父は長崎に背を向けていた」「その光で、親父は一瞬目がくらんだが、前に倒れ、地面に顔を押しつけて、その恐ろしい光から目を遠ざけようとした。やがてすべてが元に戻った」
    「おれの親父が失明した、ということ以外はな」「おまえの父親が少尉と戦っていたが、音しか聞こえなかった」
    「それは刀を持った片脚の、失明寸前のサムライと、うしろ手に縛られた剛健な大男との闘いだった。まれにみるみごとな闘いであり、フェアな闘いでもあった。そして親父が勝った。それが戦争の終わりだった。それから数週間して、占領軍が到着した。親父は故郷に帰り、しばらくハメを外し、70年代に入って子供を作った。おまえの親父もそうだ」
    「1972年、アムチトカ。おまえら人でなしに、親父は二度も核攻撃を受けたんだ」
    「おまえの心にできた傷の深さはわかる。だけど、もう充分復讐したとは思わないか?」
    「この世に充分などというものはない」

  • 諸々の伏線回収がされて物語が盛り上がっていく。
    ライブラリアンがまさにChatGPTを連想させる。

  • 第三長編の下巻▲ライブラリアンAIの導きで自意識や言語の発生源へと古代シュメール史を遡行。現実とメタヴァース、大活劇の果てに…▼草の根パソ通の頃は、メタバースなんてイメージできなかったなぁ。バベルなど旧約聖書を絡めた古代史と言語やバイナリコードは相性良く、ウイルスを鍵に切り込んだ謎解きか楽しめました。「もしまだ法律ってものがあれば、マフィアは犯罪組織なんだ」と極小さい政府、Y・T視点の〈連邦府〉なんてショボ過ぎて。新興宗教とリバタリアニズム満載の北米西海岸は、暴れ回るのにピッタリな舞台でした(1992年)

  • スノウ・クラッシュ〔新版〕 下 (ハヤカワ文庫SF) Kindle版 そうしてみると、1992年にこのストーリーを書いて、今なお古びた感じがしないのは、変化の激しいこの時代を正しく予測したといえるような気がする。

  • 2022/3/18読了。
    20年以上前に読んだときには、正直あまり面白くなかった。いま読んでも、まあまあ面白かったが、それほど面白くはなかった。描かれたビジョンはどうあれ、小説としてはあまり上手に構成されたものではないと思う。ちなみに本書に描かれた未来世界のビジョンは僕の好みではなく、本書に先見の明が認められる程度にはそのビジョンが現実のものになりつつある今の世の中も、僕にとっては居心地の良い世界ではない。
    今をときめくIT長者たちの愛読書だったということで、なんだかSFプロトタイピング的にもてはやされているようなのだが、詰まるところ古典文学作品である本書をビジネス読書の一環として今さら初めて読んで、ビジネスパーソン(笑)の方々が楽しめるのかどうか興味がある。楽しめるかどうかは問題ではない、というのがビジネス読書というものなのかな。
    楽しめなくてもいいから未来のビジョンをとらえる力を持ったIT長者たちにあやかるため、そうした意識を高める自己啓発のために読書をするのだというのなら、本書よりも、20年以上前の本書と同じような位置にある今の本(SFとは限らないが、非現実的で荒唐無稽で今の経済界の中心にはいない一部の連中が熱狂的に支持していてノリが合わなければ退屈ですらあり、そして現時点ではベストセラーどころか一般世間の話題にすらなっていない、ほとんどの人はそれが何かのビジネスの役に立つなどとは思いも寄らず、読書とは何かの役に立てるためにするものだと思っている人が手にも取らずに見過ごしているニッチな本であることは間違いない。もちろんビジネス書や自己啓発書の棚にはない。Kindleで読めるとも限らない)を探したほうがいいと思う。

  • <メタバース>の用語を生んだサイバーパンクアクション。ドラッグの裏に潜む古代文明・宗教の謎を解き明かしながら、フラット化した国家群をめぐる陰謀に迫っていく。
    ガジェットてんこ盛り、言語ミステリーあり、剣銃バトルあり、エロ要素ありと、“ポストサイバーパンク”というより、こっちの頭脳が“パンク”して“クラッシュ”しそうな盛りだくさんの内容。
    <メタバース>というバズワードにより、時代を先駆けした小説という印象が強かったが、小島監督が言うように実際はアニメ映えするアクションが目立つ。巻末のSmartNews創業者・鈴木健さんの解説が完璧で、小難しくて理解しにくかったところもスッキリした。

  • 【オンライン読書会開催!】
    読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の課題作品です

    ■2022年3月28日(月)20:30 〜 22:15【下巻のみ】
    https://nekomachi-club.com/events/0fc2ae28fb28

    ※上巻は3月6日(日)に開催します。

全9件中 1 - 9件を表示

ニール・スティーヴンスンの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ギュスターヴ・ル...
アーサー C ク...
マーガレット ア...
グレッグ イーガ...
ロバート A ハ...
劉 慈欣
ジョージ・オーウ...
テッド チャン
フィリップ・K・...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×