- 青空文庫 ・電子書籍
感想・レビュー・書評
-
夏目漱石によってかかれた随筆。夏目漱石は日本の教師、小説家、評論家、英文学者、俳人である。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授を務めた後、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。1915年1月13日から2月23日にかけて、朝日新聞に掲載された。夏目漱石の最後の随筆。夏目漱石が病気になって身体を休めている自室での話。自室を硝子戸の中としている。自室にいながら、その中で起こるイベントを書いたり、記憶・精神の意味で周囲を見渡して思い出を話すような感じで、晩年の夏目漱石の精神や記憶をそのまま映し出したかのような話。夏目漱石の人生や人柄がわかる。「硝子戸の中」の興味深い一節で「もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前にひざまずいて、私に亳髪の疑いをさしはさむ余地もないほどの明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹な正直者に変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私はばかで人にだまされるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に満ちている。もしそれが生涯続くとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。」というところがあるのだが、正直さで書いてあり、無防備な文章である。現代で言うとブログやツイッターのような文章。この時代に朝日新聞が「メディア」として持っていた立ち位置は、特に質的なものとしては、現在で言えば案外「ブログ」や「ツイッター」に近い物。私はこの時代でも何か自分のことを発信したいと考えることがあったのではないかと考えることができる。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
晩年の漱石がの漱石が書き綴った随筆集。一つ一つの話が短く日記のようなものなので、近代文学があまり得意でない人でも読みやすい作品。
生い立ちや回想、漱石の感じたものや本音をありのままに綴っていて、他の作品では見られない漱石の一面が見られる。
移り変わっていく時代や風景とその時の漱石の心情にどこか切なさを感じる。
夏目漱石をもっと好きになる作品。 -
二十五
私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
或日私は切通しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋の傍に、寄席の看板がいつでも懸っていた。
雨の降る日だったので、私は無論傘をさしていた。それが鉄御納戸の八間の深張で、上から洩ってくる雫が、自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。人通りの少ないこの小路は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っ懸る汚ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗びしかった。始終通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕するような不愉快な塊が常にあった。私は陰欝な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた。
次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでいたのです」
これに対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向の句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった -
20120323読み終わった