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作品名: 宝塚生い立ちの記
作品名読み:たからづかおいたちのき
著者名: 小林 一三
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小林一三(1873-1957)
山梨韮崎の出身、1月3日に生まれたことにより、名前は一三。慶應大学をでて三井銀行に入行
1907に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の創設に尽力、以後、鉄道の乗客数向上に向けて
さまざまな事業を起こしていきます。箕面動物園、宝塚歌劇、阪急百貨店、阪急ブレーブズ、東宝。
その軌跡は、多くの私鉄経営者に影響を与え、優れたモデルとして今日に至ります。
文化人としても知られ、自身の多くの著書をはじめ、社会事業、文化事業に寄与しています。
■宝塚
もともとは、武庫川に沸き出していた湯小屋がはじめ、いわゆる鉱泉である
電車開通時は、数件の農家があるのみで閑静な川原であった。
始めは、箕面動物園がつくられ、プールなども開園されたが振るわなかった
温泉場の余興として、三越の指導をうけて、女子音楽隊を設けることにしたのが、宝塚歌劇の発祥である
また一三が帝劇からヒントを得て、音楽学校のオペラを導入した。それが、大正2年(1913) 一期生は高峰妙子ら16名であった
宝塚の特徴は、日本人による日本語での歌劇であった
紆余曲折はあるも、大毎慈善歌劇会などの公演にて、北浜の帝国座、道頓堀の浪花座などで人気を博して、大阪、神戸、京都に認知されていく
大正5年(1916)坪内逍遥の絶賛をえて、大正7年(1918) 東京の帝劇にも出演するようになる。小山内薫の評が書かれている。
その後、新橋演舞場、歌舞伎座にもでるようになり、東京宝塚劇場の建設へと進んでいく
宝塚の出身者は(当時)約2000名であるが、芸能人として名をなしたのは、37名、のこりは、家庭人となっている
小林一三は、宝塚から、世に良妻賢母を送り出したと自負しているのである
■一三の女性感
まず、健康美、少し太っていても、頑丈な女のほうがずっといい
当時は、まだ地域差があったようで
名古屋の女は発展家で、堅実
キップがいいのは、江戸っ子、そして、てきぱきしている
従順さなのは、京都、大阪
役者として器用なのは女性といっている
最初はもくもくと勉強しているだけで全然みとめられなかったがあるきっかけで、ぐんぐん伸びて認められた糸井しだれという女優の話がある
また、どうも、他の芸人からみて、宝塚は潔癖なところがあったようだ
一三は、真面目な女性が多かったと感心している
恋愛観も、いきなりの恋愛結婚よりも、まわりがこれはうまく言うという風に考えてもってきてくれる、見合い結婚のほうが長続きするのではといっている
恋愛での熱病がさめるのとはちがって、結婚後に自然に恋愛感情が起こってくるのがいいといっている
いずれも、決めつけでなくふわっとした感覚がよい
■男役あっての宝塚歌劇
かっては、女だけで芝居をするなんて不自然だと思った時期もあったが、いまではもうそんなことは考えたことははない
歌舞伎での女形とは、女以上に女であって、女のよさをしっている男が女をやることに良さがある
同じように、女からみた男役というものは男以上である。いわゆる男性美を一番よく知っている者は女である。その女が工夫して演ずる男役は、女からみたら、実物以上の惚れ惚れする男が演じられているからだ
スイスの時計職人しかり、自分1代ではどんなに器用でも第1流の時計職人にはなれず、2代、3代を重ねていくうち、いい職人がうまれてくる
それは、歌舞伎でも、あるいは、宝塚歌劇でも同じではないかと、小林一三は、言葉を置いている。
目次
40年前の宝塚風景
無理にこしらえた新都会
「宝塚歌劇」の誕生
水泳場の仮舞台で初公演
糊と鋏で出来上がった脚本
新しい舞台芸術の萌芽
坪内逍遥博士の折紙
日本歌劇の曙光
意外な「花嫁学校」の実質
私の「女性感」といったもの
「男の世界」と「女の世界」
恋愛結婚よりは見合結婚
歌劇の男役と歌舞伎の女形
底本データ
底本: 宝塚漫筆
出版社: 阪急電鉄
初版発行日: 1980(昭和55)年2月15日
入力に使用: 1980(昭和55)年2月15日
校正に使用: 1980(昭和55)年2月15日
P.137詳細をみるコメント0件をすべて表示