ある晴れた夏の朝

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  • 偕成社 (2018年7月13日発売)
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『原爆で亡くなった広島と長崎の人々は、はたして、ほんとうに、罪もない人々だったのでしょうか?むしろ、殺されて当然の人々だったのではないでしょうか?』

- あなたは、1945年8月6日 午前8時15分、広島の空で何が起こったかを知っているでしょうか?

- あなたは、1945年8月9日 午前11時2分、長崎の空で何が起こったかを知っているでしょうか?

アメリカ軍による原子爆弾投下。あれから77年も経った今の世にあっても未だにその被害に苦しめられている人たちがいる現実。世界で唯一の被爆国として、未だ千羽鶴が絶えず折られ、毎夏に行われる慰霊の式典には内閣総理大臣も参列し続けるなど、この国において原爆投下という現実は決して過去の歴史の中に埋もれてはいませんし、埋もれさせてはいけないのだと思います。

そもそも、そんな原爆はなぜこの国に、広島と長崎の地に投下されなければならなかったのでしょうか?先の大戦についてはこの国に今を生きる私たちの中にもさまざまな意見があります。秘匿されてきた過去の文書が公開されることで新たにわかってきた事ごともたくさんあります。しかし、私たち日本人にとって、二発の原爆投下は決して肯定などできないものであり、だからこそ二度とこのような悲劇が起こってはならないという思いを誰もが抱いているはずです。もちろん、さまざまな意見があるとは言え、この国の中に原爆投下を肯定する人など絶対にいないと思います。

では、そんな原爆投下を否定する立場の私たちが冒頭に取り上げた次の発言を耳にしたとしたらあなたはどう思うでしょうか?

『原爆で亡くなった広島と長崎の人々は、はたして、ほんとうに、罪もない人々だったのでしょうか?むしろ、殺されて当然の人々だったのではないでしょうか?』

その時何が起こったかを知る術もなく、ただただ熱い炎に焼かれ、苦しんで死んでいったたくさんの人たち。その人たちのことを『殺されて当然の人々だった』というこの主張。そんな主張を目の前で『鋭い口調でまくし立て』る人がいたとしたらあなたはどうするでしょうか?

そんな主張はさらに続きます。その主張をする人は戦争の災禍から必死に逃れ田舎へとやむなく疎開していった人たちのことをこんな風に一刀両断にします。

『将来の戦力を温存するために、子どもたちを安全な田舎に避難させていた…子どもたちも、兵士だったわけです。ならば、戦争でアメリカ軍に殺されても、当然ではありませんか?』

あなたは、こんな主張を耳にして耐えることができるでしょうか?こんな主張が200人もの収容規模のホールを満席にした人たちの前で堂々となされ、聴衆から非難されることもなく勝手気ままに展開されると聞いて憤りに打ち震えないでいられるでしょうか?

しかし、そんなことが許される場が今の世には設けられているのです。

それが、『ディベート』です。

この作品は、原爆投下を実行したアメリカの人たちがその行為をどのように思っているかを知る物語。『日本に対してなされた原爆投下を肯定するか、否定するか、各自の考え方をもとにして』『合計八人。四対四に分かれた』高校生たちが議論を戦わせる物語。そしてそれは、熾烈を極める議論の先に「ある晴れた夏の朝」に思いを馳せ、

『あやまちは二度とくりかえしません』

日本人なら誰でも知っているこの大切な言葉の意味を改めて噛み締める物語です。

『みなさん、はじめまして。私の名前は、メイ・ササキ・ブライアンといいます』と、自己紹介を始めたのは主人公のメイ。そんなメイは『なぜ、日本の中学校の英語の教師になっ』たのかを語ります。『日本人である母と、アメリカ人である父が結婚』して生まれ『四歳になるころまで』祖父母と一緒に岡山で暮らした後、『ニューヨーク州に引っ越しをし』たため『私は日本で生まれましたが、残念ながら、日本のことはほとんど覚えていません』と語るメイは、『なぜ、いっしょうけんめい日本語を勉強し、日本語を身につけて、将来は日本へ行って仕事をしたいと思うようになったのか』を生徒たちにこんな風に語ります。それは、『今から十年ほど前のこと』、『二〇〇四年の夏。私は十五歳』という五月のことでした。『六月から八月までの三か月』という長い夏休みをどう過ごすか考えていた時、『ハイスクールの先輩たち』が急にメイの家を訪れました。『成績はトップクラス。スポーツ万能』というスノーマンと、『すごく頭のいい人。科学クラブに入っている』というスコットの二人の先輩が訪れた理由が理解できないメイ。そんなメイに『きみにひとつ、頼みたいことがあって訪ねてきた』とスノーマンは語ります。それは八月に『コミュニティセンター主催のカルチャーイベント』として開かれる『公開討論会』のことでした。『ぼくたちはホットな討論をする』、『ディベートに近いものになるかもしれない』というその討論会は『出場メンバーは合計八人。四対四に分かれる』という内容で既に七人までは出場者が決まっていました。そして、『メイ、きみにもぜひ、この討論会に出場してもらえないか』と身を乗り出すスノーマンに『ディベート、あんまり得意じゃないんです。できればほかの人に』と気が引けるメイ。そんなメイに討論会について『戦争と平和を考える』というテーマで『広島と長崎への原子力爆弾投下をとりあげる』と説明するスコットは、『原爆投下は、ほんとうに必要だったのか。そこから討論を深めていって、原爆の是非を問う』と詳細に説明しました。『メイ、きみは当然のことながら、あの原爆投下が正しかったなんて、思ってないだろ?』と訊くスコットに『あ、はい、それはそうですけど、でも…』とまだ躊躇するメイに『うん、それでいい。きみは否定派だ』と役割を指定するスコット。それでも躊躇するメイに『日本への原爆投下を肯定することなど、きみにはできないはずだ。そうだな?イエスだな?』とまっすぐ目を見られて思わず『あ、はい』とうなづいてしまったメイ。『ありがとうメイ、とてもうれしいよ』と手も握られて後に引けなくなってしまったメイ。そんなメイは、同じく日系アメリカ人のケンが『原爆肯定派』に属したことを知ります。『こうなったらもう、あとへは引けない』と覚悟を決めたメイは『「原爆」という言葉に』『心をつかまれてい』きます。そして、『みなさん、ご存じのとおり、きょうは八月七日です。一九四五年のきのう、日本時間の八月六日の朝八時十五分、アメリカは広島に原子爆弾を落としました』という「ある晴れた夏の朝」に起こったことの是非を巡る『公開討論会』が始まりました。

「ある晴れた夏の朝」というどこか意味ありげな書名が気をひくこの作品。それは今から77年も前の八月のあの日のことをテーマに描かれた作品。そう、それは1945年8月6日 午前8時15分、アメリカ軍のB-29戦闘爆撃機によって広島上空に投下された原子力爆弾投下の是非を取り上げた物語です。私たち日本人はそんな原爆投下により被害を受けた当事国として、少なくとも他の国々の人たちよりは学校教育の場で、映像で、そして数々の書物においてその被害の実態を、その行為の意味するところを知り、それぞれの頭でそれを消化・吸収して大人になってきたと思います。この小手鞠るいさんの作品は、そんな私たちが目にしてきた、耳にしてきた原爆投下の意味を少し違った角度から捉えているのが大きな特徴です。それが、”原爆投下の是非をアメリカの視点から書く”というものです。

そんな作品の方向性について”原爆を落とした側であるアメリカで原爆がどのように教えられ、どう捉えられているかについて書いている作品はほとんど見当たらない”と、小手鞠さんは語られます。そして、”アメリカは、いろんな宗教を信じている、いろんな人種の人たちが暮らす多民族国家です。このことを日本の読者に伝えるために、人種の異なる高校生たちの公開討論会という形にしました”とその形式についても語る小手鞠さん。このレビューでは、そんな小手鞠さんがこだわられた二つの視点からこの作品を見ていきたいと思います。

まずは、後者の『高校生たちの公開討論会』という形式です。私たち日本人にとって恐らく一番苦手な部類のもの、それがこういった討論の場ではないかと思います。”密室政治”と言われて久しいように、この国では表立った議論を避け内々に物事を決めていく文化がすっかり根付いています。下手に討論の場で相手を打ち負かすようなことは大人気ないとさえ考える土壌がこの国にはあると思います。一方でこの作品の舞台となるアメリカは、世界の中でも討論の最も盛んな国でもあります。そんな土壌から自然に導き出される『ディベート』という場。『なんらかのテーマに関して、異なる意見を持つ人たちがふたつのチームに分かれて、あるいは一対一で、議論を戦わせる討論の形式』というその場が展開されていくこの作品は、日本語を読んでいるのに、どこか英語を読んでいるようなそんな気分にもなってくるから不思議です。そんな『ディベート』は、原爆に対する意見の相違によって二つのチームに分けられます。冒頭にイラスト付きでチーム分けが掲載されてもいますが、

・『原爆肯定派』
- ノーマン: リーダーでメイを誘った人物
- ケン: 日系アメリカ人だが原爆を肯定
- ナオミ: ユダヤ系で強硬に原爆を肯定
- エミリー: 中国系でその視点から原爆を肯定

・『原爆否定派』
- ジャスミン: リーダーで平和運動家
- メイ: 主人公、日本生まれで4歳まで岡山暮らし
- スコット: 天才と呼ばれ、メイを誘った人物
- ダリウス: 黒人で医師を目指している

以上のような四人対四人で初回が8月6日、その後一週間に一ラウンドづつ計四ラウンドにわたって議論を戦わせていくというスタイルで物語は描かれていきます。そこには、私たちが原爆に関して話したり、本で読んだりする感覚とは異なるなんとも不思議な世界観の上で物語が展開していきます。それが、

・『試合の流れを大きく左右するトップバッター。こんな大役が、わたしにつとまるのかどうか』。

・『ケンのスピーチには説得力があった』。

・『笑いをとったあとのスコットのスピーチは、いたってシンプルで、引きしまっていた』。

・『それが彼の戦略だったのだろうか。短く潔く切り上げて、あざやかな印象を残そうとしたのか』。

・『最後はゆっくりと、親しい人にやさしく話しかけるように語った。みんなの心に余韻のさざ波が残るように』。

・『スノーマンたち原爆肯定派は、そのような人々の反応をあらかじめ予想した上で、だからこそ、原爆は落とすべきだったし、落とした意義があったのだという主張に結びつけていこうとしていたのだ』。

といったようにまるでスポーツをしているかのように勝ち負けにこだわり、作戦を練って相手を打ち負かそうという視点で物語が展開していきますす。私たち日本人の一般的な感覚だと、原爆投下というような重量級の話題をテーマにして、そこに勝った、負けたというような”軽いノリ”で会話をすることは間違いなく憚られることだと思います。場面によってはそんな”軽いノリ”を見せた人物は糾弾を受ける懸念さえ考えられます。この作品では、そんな重量級のテーマであっても、勝ち負けにこだわり、あくまで『ディベート』という場を戦っていく高校生たちの一所懸命な姿が描かれていました。これには、非常に新鮮な感覚を抱くとともに、一見このある意味での”軽さ”故に、どうしても敬遠しがちになってしまう、原爆投下の是非という重量級のテーマにも却って興味を持って触れていける、この作品にはそんな魅力があるようにも感じました。

そんなこの作品のもう一つのこだわりが”原爆を落とした側であるアメリカで原爆がどのように教えられ、どう捉えられているか”という点です。このレビューを読んでくださっている皆さんの原爆投下に対する知識量の差異は大きなものがあるのではないかと思います。そういう私の知識量がいかに少ないものであるかをこの作品を読んで思い知らされました。

・『八月六日に広島に落とされた原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラニウム型…爆心地の地表の温度は…3000度から4000度に到達…爆心地にいた人、2万1000人のうち、56人をのぞいて、全員が即死した』。

といった基本的な情報も『ディベート』という形で語られると、単なる知識で読んでいる以上に頭に入ってくるのを感じます。そんな『原爆肯定派』の論調の中心は『戦争を一刻も早く終わらせたくて、これ以上、戦争による犠牲者を増やしてはならないという責任感にかられて』大統領がその投下を決断したというところから始まります。これは一般的によく言われる論調でもあります。それに対して、『原爆否定派』は、『歴史的な事実と食いちがっている』とその主張を切り崩していきます。『日本は、八月九日のソ連参戦によってこそ、降伏する決意をし』たこと、そして『「戦争の犠牲者」とは、アメリカ人だけを示している』ことなどをもって反論を繰り広げていきます。また、『原爆は、実験という目的で、落とされたのです。強いアメリカ、強い大統領を国民に、世界に見せつけるために』といったアメリカ国民自らが主張するからこそ説得力がある主張が登場するなど、議論はどんどん白熱していきます。そんな物語は、『ディベート』が二ラウンド、三ラウンドと盛り上がっていく中で、チームメンバーの人種問題を絡めたそれぞれの立場からの見方、そして反論が繰り広げられていき、日本人なら誰でも知るあの言葉が登場する結末へと展開していきます。上記した通り、『ディベート』という非常に興味深い場で戦わされる原爆投下の是非を被災国ではなく、投下したまさに当事国の人たちの視点からその是非を問うていくこの作品。原爆を投下した国に生まれた人間でも納得のいくと思われる極めて鋭い、説得力のある結末に、普段あまり考えることのない原爆投下の是非という、結果論としてこの国の多くの人々の命を無残にも奪った現実について、新たな知見を与えてくれるこの作品。私たちが今後為していくべきことを思い、その思いは彼の国の人たちとも共有していくことがきっとできるのではないか、そんな風に感じながら、本を閉じました。

この作品の執筆において、“「小手鞠るい」はあの戦争をどう考えているのか、という主張を一切出さないようにし”たと語る小手鞠さん。そんな小手鞠さんは”大切なのは、8人の子どもたちがそれぞれどう考えているかということ。そこに私自身の意見を反映させることによって、一方的にひとつの物の見方を押し付けてはならない”とも続けられます。戦争はあってはならない、起きてはならないことだと思います。私たちは、2022年に突如として起こったロシアによるウクライナ侵攻を見て、この世界に平和というものが当たり前に感じられる日常はある意味で夢物語であるという現実を突きつけられました。そんな私たちのこの国は、改めて言うまでもなく、世界で唯一の被爆国です。一方で、世界で唯一の原爆投下国という側に立つ人たちが存在すること、そして、その国に暮らす人たちの中には原爆投下という事実についてさまざまな視点からのさまざまな意見があることをこの作品を通じて知ることができました。

アメリカに暮らす小手鞠るいさんだからこそリアルに展開できる『ディベート』という形式を用いて原爆投下の是非を改めて考える機会を与えてくれたこの作品。とても読みやすい文体が故に重量級のテーマがスッと心に染みてくるのを感じるこの作品。「ある晴れた夏の朝」のことを思い、平和へと続く人々の思いは万国共通のものなのだと改めて感じたこの作品。

作品に込められた小手鞠さんの深い思いを是非多くの人に知ってもらいたい。そう、全力であなたにおすすめしたいと心から感じる傑作だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小手鞠るいさん
感想投稿日 : 2022年6月25日
読了日 : 2022年3月18日
本棚登録日 : 2022年6月25日

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コメント 5件

shukawabestさんのコメント
2022/10/11

shukawabestです。
昨晩、僕もやっと読むことができました。さてさてさんのレビューはとても細やかで、昨晩読んだ私にもいい復習になりました。「前提にとらわれず異なった立場から眺めてみることの大切さ」を学んだ気がします。
また昨日は、「そして、バトンは渡された」も読み終え、とても充実した読書DAYでした。これからも気になる本を見つけて追いかけていきます。よろしくお願いします。2冊ともとてもいい本でした。ありがとうございました。

さてさてさんのコメント
2022/10/11

shukawabestさん、こんにちは!
コメントありがとうございます。私のレビューはやたら長いですが、それでも作品によって書ききれていないと思う時があります。この作品などまさにそうでした。読中、読後ともに、激しく心が揺さぶられて…という作品に出会えることはそうはないと思います。一年に160冊ぐらいが私の年間読書冊数になりますが、なかなかそこまで心が揺さぶられる作品に出会えることはないです。その中でこの作品は心が動揺しました。小手鞠るいさんは、初めての作家さんでしたが、ど真ん中に刺さりました。アメリカに暮らす小手鞠さんだからこその説得力がこの作品のベースを支えているのだと思いますが、読んで良かったと心から思える一冊でした。
瀬尾さんの作品も良いですよね。最近は新しい作家さんの開拓に執心しているところがあるのですが、再読というのもやっていきたいと思っています。「そして、バトンは渡された」、再読したい作品の一つです。良い作品と出会えるのは本当に幸せですよね。
どうぞよろしくお願いいたします。

shukawabestさんのコメント
2022/10/11

お忙しいなか、ありがとうございます。よろしくお願いします。

さてさてさんのコメント
2022/10/12

shukawabestさん、こちらこそありがとうございます。
shukawabestさんの本棚を改めて見せていただいて、まだ読んだことのない女性作家さん、南杏子さん、メモさせていただきました。起点をありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いします!

shukawabestさんのコメント
2022/10/12

本棚、見ていただきありがとうございます。南杏子さんは僕もまだ2冊しか読んでいませんが、命や医師の患者への向き合い方を考えさせられるとてもいい作品でした。他の作品もまた読もうと思っています。

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