リズム (角川文庫 も 16-6)

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング) (2009年6月25日発売)
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学校生活最後の日である卒業式、そんな場であなたは泣いたことがありますか?私がハッキリ覚えているのは小学校の卒業式でした。体育館での式典がおわり、教室に戻って担任の先生が最後の話を始めた時、まず女の子が鼻をすすり始め、やがてクラス全体に広がっていく涙の連鎖。ちょっとワルだったアイツ、お調子者でみんなを笑わせてばかりいたアイツ、そしてクラス一の優等生だったアイツも、もうみんなが声を出して泣いていたあの時間。クラスメイトの大半が同じ中学に通うのに、学校がなくなるわけでもないのにどうしてあんなに切ない思いに囚われたのだろうか、と今でも思います。物心ついて初めて出会う別れの場、そして今まで続いてきた当たり前の日常が変化してしまう、そしてこの日常にはもう二度と戻れないんだ、というその思い。さらには、自分たちの前にぼんやりと見える漠然とした未来への不安が、あの時の涙となって現れていたのかもしれません。そんな十代前半の自分のことをふと思い出しました。そう、この作品はそんな時代を舞台にした物語です。

『あたしには、わが家が、ふたつ、あります』という書き出しから始まる作文を『夏休み最後の日。引き出しの奥からなつかしいものが出てきた』、と見つけたのは中学一年生の藤井さゆき。『ずっと前に書いた作文。二年三組ってあるから、五年前のやつだ』というその作文には、『もう一つの家』という親戚の家に住む高志と真治のことも書かれていました。『たかしくんはもうちゅーがく三年生だから、あんまりあそんでくれない。でも、しんちゃんは、ちゅーがく一年生でも、いっぱいあそんでくれます』、そんな真ちゃんは『いじめられっこのテツを、よく、たすけます』、そして最後に『あたしはしょーらい、しんちゃんのおよめさんになります』と書かれていた作文。そんな さゆきは、八月三十日までに宿題を終えたら海に連れて行くという真治との約束を『多少キタナイ手は使ったものの、あたしはどうにか昨日までに宿題を終わらせることができた』と無事に果たし、真治の家に行きました。『見て、これ。なつかしいものを見つけたの』と、真治に五年前の作文を見せる さゆき。『昨日、テツから電話があってね、明日お誕生会をやるから来てね』と言われ、『断ったよ。だって今日は海に行く約束だったじゃない』と答える さゆきに、真治は『今日は予定を変えて、テツの誕生日を祝おう。海は逃げない』と結局、二人でテツの家に行くことになります。『あれ、今日は海に行くんじゃなかったの』というテツに『あんたがこんな日に生まれたからよ』とむすっとする さゆき。家には『弟一匹に妹が二匹。まるで動物園の運動会だ。あーあ…。こんなことならやっぱり、意地でも海に連れてってもらえばよかった』という さゆき。こうして、夏休みも終わり新学期が始まります。

この作品は森さんが二十歳の時に書かれたデビュー作であり、講談社児童文学新人賞を受賞されている作品でもあります。そのため文章がとても読みやすく、ひらがながとても多いのが特徴です。でも、ひらがながくどいと感じることは全くありません。というより、意図して、ひらがなと漢字を使い分けられているようで、読書のリズムにひらがながと漢字がいい塩梅で組み合わさっている、そんな印象も受けました。また、ひらがなであるからこその、文章全体から醸し出される柔らかい雰囲気は逆にとても魅力に感じました。そして、風景、自然の描写もとても印象に残ります。『快晴。四角い窓からはみだしそうな青空だ』という短くも、これだけでその場面が見事に浮かび上がる描写、『玄関のドアを開けると、まばゆい夏の光線とともに飛びこんできた風が、あたしのポニーテールをさわさわとゆらした』という表現で文字の中から さゆきという少女が生きた存在として浮かび上がってくる描写。そして『校庭を彩る銀杏の葉が、ちらほらと黄色く染まりはじめた。いつのまにかすっぽりと、あたりを包みこんでいた秋』という季節の描写。いずれも、大人向けの作品であればもっと凝った表現もあるとは思いますが、いずれもとても素朴でやさしい表現、この作品世界にとても相応しいものだと感じました。

中学生という多感な時代。さゆきは『古ぼけた校舎も、せまいグラウンドも、卒業前になると急にいとおしくなった』と小学校時代を振り返ります。『卒業式には、クラスのみんなと抱きあって大泣きした』という思い出。『変わらないものが、あたしは好き。風みたいに、空みたいに、月みたいに、変わらずにいてくれるものが好き』とこの先、中学を卒業して高校へと進んで行くことに漠然とした不安を感じる さゆき。特に何があるわけでもなく、毎日続く普通の日常。でもそんな普通の日常が何よりも大切だと気づくのは失った後になってからのこと。将来への漠然とした不安が先立ち、毎日続く普通の日常が壊される怖さに耐えられなくなる感情。まだ、中学生なのに昔を懐かしむなんておかしいと思うのは、おそらく我々が大人になりすぎてあの日々を忘れてしまったからではないでしょうか。もしかすると大人の我々以上に、昔を懐かしむ自分が過去にいた。あの時代、あの瞬間に漠然とした不安に押し潰されそうになっている自分がいた。この作品を読んでそんなかつての時代に想いを馳せました。一方で、現在進行形でそんな時間を生きている十代の方が読むと、この作品はどんな風に見えるんだろう、そんなことも考えてしまいました。

『どんどん流れていく時間。あたしが眠ったり、笑ったり、あくびをしたりしているうちに、気がつくと今が過去になって、未来が今になっている』というように慌ただしく流れる十代の時間。そんな中で『さゆき、自分のリズムを大切にしろよ。それを大切にしていれば、まわりがどんなに変わっても、さゆきはさゆきのままでいられる』と語った真治。十代という人生の中でも最も大切な時間、最も輝ける時間、そして、最も人生に深く刻まれる時間。『あたしたちはみんなもう二度と、あのころのようにはもどれない』、だからこそ、『あたしにしかできないこと。そんななにかを見つけることができたら…』と毎日を、それぞれの毎日を真っ直ぐに走っていたあの頃。自分が自分らしくあるために、自分のリズムを刻み始めたあの時代、そんな二度と戻れないかけがえのない日々。

大人になってすっかり忘れていた大切なことを思い出させてくれたこの作品。短い時間に色々な感情が頭の中を駆け巡ったこの作品。丁寧に紡がれる十代の眩ゆい光の世界に、すっかり心を囚われた読書の時間をいただきました。ファンタジーでもなく、スポ根でもなく、普通の日常がやさしく描写される森絵都さんのデビュー作、素晴らしい作品だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 森絵都さん
感想投稿日 : 2020年6月10日
読了日 : 2020年6月9日
本棚登録日 : 2020年6月10日

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