旅屋おかえり (集英社文庫)

著者 :
  • 集英社 (2014年9月19日発売)
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感想 : 912
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『旅』に対する考え方が変わりました。何がきっかけと言われてもこれと言えることがあるわけではありません。でも、確かに変わりました。Excelを開きます。縦軸に朝6時から夜の12時まで、そして横軸に旅の日数分の列でマトリックス表を作ります。そして、飛行機や電車の時間を調べながら、ガイドブックを開いて、昼食はココ、夕食はココと決めて旅程表を作り上げて印刷をする。いや、あなたは旅行会社のパンフレットを作っているんじゃないんだから、ということをやっていた過去の私。作った予定表通りに朝起きて、食事をして、観光をする、そして予定表通りに事が運んだことを満足して眠りにつくという何だか本末転倒な旅にいつかしら疲れ、旅が面白くなくなった時期がありました。そういう時に考えます。人は何のために旅に出るのでしょうか。人は何を求めて旅に出るのでしょうか。

『十代の頃から「移動が好きだ」と公言してやまなかったら、いつのまにか旅することが仕事になっていた』という岡林恵理子。『私の故郷は、北海道の、人が住む最北端の小さな島、礼文島』という恵理子は、生まれた故郷の島をとても愛する一方で『いつの頃からだろうか、私には夢があった。この小さな島を出て、できるだけ遠くまで移動すること。海鳥のように、アザラシのように』と『「海のあっち」の世界』に行ってみたいという強い思いも抱いていました。高校の修学旅行で運命的なスカウトを受け、『芸能人になって「故郷に錦を飾る」。そう決めた。父さん。私、東京へ行く。芸能人になる。有名になって、帰ってくるよ』と島を後にした恵理子。

でも、そんな甘い世界であるはずのない芸能界。十五年の時が流れ、アラサーを迎えた恵理子。『お前のタレントとしての売り時期はとっくに終わってる』と事務所の社長から言われる恵理子。『「ちょびっ旅」 、私の唯一のレギュラー番組だ』と仕事口が一つになり、まさしく崖っぷちに立たされます。それでもカメラの前に立つ恵理子は輝きを失いません。『こんにちは。「おかえり」こと、丘えりかです。じゃあ、これから電車に乗りま〜す。今日もちょびっとちょびっ旅、いってきま〜す』と、芸名の『丘えりか』をもじった通称『おかえり』として今日も元気にお茶の間に旅番組を届けます。そんな唯一のレギュラー番組の中で犯した彼女の致命的なミスが彼女と事務所を存続の危機に陥れてしまいます。それでも彼女は前向きです。運も味方につけた彼女は『気がつくと、私は、このまったく新しい仕事、旅代理人、「旅屋」を始めるべく、最初の一歩を踏み出してしまっていた』と、『職業・旅人』と言っても良いほど旅が何よりも好きな自身の生き方を生かして新しい仕事を立ち上げ、突き進んでいくのでした。

面白いと思ったのは、この作品の構成です。『前代未聞の旅代理業「旅屋」』という設定もあって、旅が中心になるストーリー展開を予想しますが、実際には商売としての『旅屋』がスタートするのは作品も半ばになってからのことです。それまでは、ただひたすらに『おかえり』のこれまでのあんなこと、こんなことが繰り返し描かれます。そしてそもそも旅そのものが描かれるのは全体でも数十ページほどの分量しかありません。『旅屋』という書名から旅行記を主体とした内容を期待すると肩透かしを喰らってしまいます。そう、この作品は旅自体よりも、旅にこだわる『おかえり』と彼女に関係する人々の生き様を描いた『人情もの』だという印象を受けました。『元プロボクサー、いま社長』という萬鉄壁、『元セクシーアイドル、いま副社長ですのよ』というのんのをはじめ、 個性豊かなとても濃い人々に囲まれる『おかえり』、彼女の出演番組が打ち切りになったことを嘆くファンがいるということに、とても自然な説得力を感じるのは、このあたりの丁寧な描き方あってのことだと思いました。

また、『おかえり』が、一人で角館に赴くシーンがあります。成果物を確実に手にするために事前に綿密な旅のスケジュールを立てる『おかえり』。でも幾ら事前に万全のスケジュールを立てたとしても、そうそう予定通りにはいかないもの。予定通りにいかないことを嘆く『おかえり』。でも『おかえり』は、当初の予定が狂ったことで、結果として、予定になかった魅力的な人々と出会い、予定になかった素晴らしい景色を目にすることができました。『たとえ同じ季節に同じ場所へ行ったとしても、旅する理由や目的が違えば、まったく違う旅になる』。まさしくその通りだと思います。しかし、たとえ同じ理由や目的で行ったとしても旅が同じものになるとも限りません。旅は生き物だからです。

『旅が好きだ。「移動」が好きなのだ。移動している私は、なんだかとてもなごんでいる。頭も心もからっぽで、心地よい風が吹き抜けていく』という『おかえり』。日常から切り離された世界。日常の辛いこと、苦しいことから物理的に離れることで心の中もスッと楽になる、そんなひと時を求めて私たちは旅に出たいと思うのかもしれません。そうであるからこそ、予めみっちり組んだスケジュールになんて縛られる必要はない。もっと自由に、もっとからっぽになった自分に会いに行く。だからこそ、『旅は、出かけるだけで、すでに意味がある』、その言葉にとても納得できました。

決定的な悪人が一人も出てこないこの作品。それ故に何事にも真摯に向き合い、何事にもひたむきに取り組む『おかえり』の生き方が、とても心に響いてきました。私は作品中、3つのシーンで熱い思いがこみ上げ涙してしまいました。原田さんの作品は「楽園のカンヴァス」に続いて二冊目なのですが、なんでしょう。人情がにじみ出ているのに透き通っているというか、ピースがたくさんあるのに作品世界が整理されきっているというか、全体としてとても見通しよく、そしてきっちりと結末を書き上げられる方なんだなと感じました。その分、作品のストレートな熱い思いが一気に突き上げてくる、そんな印象を受けました。人情味溢れるとてもあったかい作品、素直にいいなぁと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 原田マハさん
感想投稿日 : 2020年4月18日
読了日 : 2020年4月17日
本棚登録日 : 2020年4月18日

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コメント 2件

shukawabestさんのコメント
2022/02/23

shukawabestです。
はじめまして。フォローありがとうございます。さてさてさんの本棚、好みが似ているところがあるなぁ、と思いながら、何度か拝見していました。

僕はまだ本の数が少ないですが、心地よいと感じる作品を一つでも知り、共感できたらいいなと考えています。

よろしくお願いします。

さてさてさんのコメント
2022/02/23

shukawabestさん、こんにちは!
こちらこそ、フォローをいただきありがとうございます。
おっしゃる通り本棚の中で重なる作品が多いですね。私は女性作家さんの小説に限定して読んでいますが、shukawabestさんの本棚で何人か未読の作家さんを見つけました。本棚が似ているということは、私の好みである可能性も高くメモさせていただきました。
ありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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