ホテルローヤル

著者 :
  • 集英社 (2013年1月4日発売)
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本棚登録 : 5102
感想 : 827
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“使われないまま放置され、荒れ果てた状態になっているもの”を指す『廃墟』という言葉。怖いもの見たさもあって、どこか心惹かれる言葉でもあります。

『白壁が半分以上はがれ落ちた古いラブホテル』というその『廃墟』。
『消火器もむき出しのパイプも、蜘蛛の巣さえも埃をかぶっている』というその『廃墟』。
『すのこの上にねずみの死骸が転がっている』というその『廃墟』。

しかし、『廃墟』は最初から『廃墟』であるはずがありません。誰かがその場所に素晴らしい夢を見て、誰かがその場所に光輝く未来を見て、そして誰かがその場所にいつか微笑む自分自身の姿を見た、そんな時代が過去にあったはずです。『すげぇだろこの景色。ここにラブホテルなんか建てちゃったら、みんな列を作って遊びにくると思わねぇか』という過去の誰かの思い。しかし、時間を経てみればそこには栄枯盛衰の物語が存在することになる、それは悲しくも人の世の定めなのかもしれません。

そんな栄枯盛衰の時間を、現在から過去へと遡る物語がここにあります。湿原を見下ろす高台に、今や『廃墟』と化して佇むその建物。掲げられた看板には「ホテルローヤル」の文字。『だれもかれも、幸せにしなければ。そして最後に自分が笑わなければ』と、かつてそう願った男の夢の果てを冒頭に見る物語です。

『青いようだが、上空はうっすらとかすんでおり、湿原の向こうにあるはずの阿寒岳は輪郭も見えない』と『フロントガラスの向こうに広がる空を見』るのは主人公の加賀屋美幸。『とうに空腹感はなくなっている。炭水化物を摂らなくなって一週間が経っていた』という美幸の横で『ハンドルを握る貴史』。『晴れてよかったな。撮影日和だ』、『これが終わったら、好きなものなんでも食っていいから』と『朝から同じ言葉を三度ずつ聞いた』という美幸。『短大を卒業してから十三年「スーパー・フレッシュマートしんとみ」の事務』をしてきた美幸。そこに三年前に採用された木内貴史。『すぐに美幸が中学の同級生だったことに気づいた』のは『右の眉毛の上にある直径五ミリほどの黒々としたほくろだった』と『初めて肌を合わせた際にそんな台詞を吐いた』貴史。車の『後部座席へと視線を移』すと、『デジタル一眼レフカメラ一式がカメラバックに入っている』という車内。『一週間前、モデルになってくれと言われた』美幸。『急なダイエットも…中に透けるスリップ一枚しか着けていないのも、すべて「撮影」のため』という今。『あと五キロ痩せてほしいんだ』という貴史の注文に応え、『一週間で無理やり三・五キロ落とした』美幸。『湿原脇の国道を右へと曲がり、踏切を越えて坂道を上った』二人の車。『すぐに古い建物が視界に入ってきた』ものの『周囲を草に覆われた看板は「ホテルローヤ」までしか見えない』というその建物。『廃墟でヌード撮影をするのがあこがれだったんだ。最高だろ。ここしかないって思ってさ』と語る貴史が『一か月も前から決めていた』というこの場所。『青いバックに黄色で縁取った赤い文字。ロゴの端はすべてくるりと巻きが入っている』という看板が掲げられた『ホテルローヤル』へと到着した二人。『降りてよ』という貴史の言葉に『頭の中が真っ白いがらんどうにな』る美幸。『建物の扉を開け』、埃くさい建物の中へ進んでいく二人。『ここだ』と貴史が指差す『廊下の中ほどにある部屋』。『煙草の焦げ跡で穴だらけ』の『赤いベルベットのラブソファー』。『使用感が残っている』のを見て『他人が使ったあとの部屋なんて見る機会ないだろう。ここを発見したときは、さすがの俺も興奮したね』と言う貴史。そして『ね、脱いで』と急かす貴史。そんな二人の廃墟ホテルでのその後の時間が描かれていく〈シャッターチャンス〉というこの短編。今や『廃墟』と化した『ホテルローヤル』の今を砂利を噛むような違和感たっぷりに描き出した好編だと思いました。

七つの短編が連作短編の形式を取るこの作品。『八月の湿原は、緑色の絨毯に蛇が這っているようだ。湿原から蒸発する水分で、遠く阿寒の山々が霞んでいた。視界百八十度、すべて湿原』という北海道の湿原を見下ろす高台の上に建つ『ホテルローヤル』という名のラブホテル。そんなホテルの三十云年に関わる人たちを、時間軸を遡りながら描いていくという、なんとも興味深い作りがなされています。そんなこの作品で感じたのは”真逆のものを見事に対比”させる構成の上手さだと思いました。そんな真逆なものを三つあげたいと思います。

まず一つ目は、”昼と夜”です。北海道の湿原を見下ろす高台というと、雄大な大自然に囲まれ、澄んだ空気に眩しい陽射しが降り注ぐ、そんな健康的な昼の情景が思い起こされます。しかし、この作品で描かれるのはあくまでそこに建つラブホテルが舞台。狭く閉ざされた部屋、薄暗い照明が照らす、そんな不健康な夜の情景、と、外と内の真逆さがとても際立つ光景が浮かび上がります。そんなホテルの外と内の世界の対比を『朝も昼も夜を演出し続けた部屋』、『外は真昼でも室内はみごとに夜の気配』、そして『客は日が高くても夜を求めてここにくる。後ろめたさを覆う蓋に金を払う』と、何度も言葉を変えて読者の中に夜を印象づけていく桜木さん。ホテルの外と内の極端な対比によって、夜の暗がりを読者により強く印象づけている、そのように感じました。

次に二つ目は、人の”理性と野性”です。これは一つ目の”昼と夜”に密接に関係します。私がここで改めて語るまでもなく、人には昼の顔と夜の顔があると思います。昼には見せない夜の顔、そしてその逆というのは他の小説でも取り上げられる部分です。ただし、ここでいう夜の顔とはベッドの上ということを言っているわけではありません。理性のある昼の顔と、野性が顔を出す夜の顔、そういった意味合いです。七つの短編に登場する人物は『ホテルローヤル』が接点にはなりますが、年齢、職業ともにバラバラです。中学の同級生で現在の職場の同僚、住職の奥さんと檀家の人々、そして長年連れ添う夫婦というような普通の人々の何の変哲もない昼の顔。それが、『ホテルローヤル』の中でその顔が一変します。特に秀逸だと感じたのは上記で冒頭を取り上げた短編〈シャッターチャンス〉です。美幸視点で描かれるその物語は、『貴史は会ってすぐに』、『貴史の注文だった』、そして『貴史がヌード写真を撮りたがっている』というように、『ホテルローヤル』の外の”昼の理性”の顔では、彼のことを名前を用いて表現します。それが、『ホテルローヤル』へと入り、”夜の野性”が顔を出すとこの表現が一変します。『男も懸命に体を繫げてくる』、『男がひたすら写し続けている亀裂の内側』、そして『男の欲望のかたちをただ忠実に内側に向かって』というように”貴史=男”と、本来同じ対象について語っているにも関わらず、そこにはまるで対象が変わったかのような夜の顔が蠢きます。同じ人物を指すのにも関わらず、名前を使う場合と、”男”という表現を使う場合とが全編に渡って絶妙に使い分けられていくこの作品。この辺りの細かい表現の工夫が、”理性と野性”の差をより強調することになり、結果として作品により深みを与えている、そのように感じました。

そして、最後の三つ目は、この作品でなんといっても秀逸に感じる”時間の対比”です。連作短編の形式を利用して時間軸を遡って物語を描いていくという絶妙なこのアイデア。私たちの人生は過去から現在へと繋がって、その時間軸の上を日々生きています。過去の事象の積み重ねの上に、もしくは過去の事象の結果として今がある、そんな風に物事を理解して生きています。では、それを逆に眺めていったらどのような世界が見えてくるのでしょうか?それに挑戦したのがこの作品の一番の見どころ、読みどころだと思います。通常の物語、連作短編であれば今読んだ短編の次に、ああ、彼と彼女はこうなったんだ、という結果をそこに見ることになります。それが短編ごとに異なる主人公の物語の背景として描かれていく、これが連作短編の魅力です。それが、この作品では、唐突に、ある事態、それは”夜の野性”の顔が招いた事態がまず描写されます。連作短編なので、それが描写される場面では、その事象は物語の背景の中に描かれるので、その時点でピンとくることはありません。そして次の短編で描かれるのは、前編で描かれた”夜の野性”へと向かう主人公の”昼の理性”の物語なのです。そういうことなのか!と驚く一方で、その先にどういう未来が待つかをすでに知ってしまった読者としては、未来を知らない主人公たちが繰り広げる物語を複雑な思いを抱きながら見守るしかありません。読者と主人公の間に同じ時間が流れる一般的な物語に対して、読者と主人公の間に真逆の時間が流れるこの物語。とても斬新な構成によって、なんとも言えない余韻が後に残るのを感じました。

『同じ名前のホテルで、私がそこの娘だったことと掃除の経験と父がパチンカーだったのは事実(笑)』と語る桜木紫乃さん。ラブホテルを営む家庭に育ち、そのリアルな現場を長年に渡って見てこられた桜木さんが描く物語だからこそ、その場が嘘っぽくなることなく、結果として物語に強い説得力が生まれるのだと思います。

『ホテルがいつから時間を止めているのかわからないが、もうどの部屋も人を待ってはいなかった』という『ホテルローヤル』の今。『不思議なことに、「ホテルローヤル」を出版する直前に、実家のホテルは廃業しました。私のなかでようやくひとつケリがついたような気がします』とおっしゃる桜木さん。そんな桜木さんが描く『ホテルローヤル』を過去に遡る物語は、時間軸を遡ったからこそ、逆にそのホテルの名前、そしてそこで何があったのかという記憶が読者の中に深く刻まれることになるのだと思います。そんな構成の妙が光る桜木さんの傑作。読後、今度は最後から最初へと短編を遡りながら読み返してみたくなる、そんなとても印象的な作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 桜木紫乃さん
感想投稿日 : 2021年1月30日
読了日 : 2020年12月26日
本棚登録日 : 2021年1月30日

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