その扉をたたく音

著者 :
  • 集英社 (2021年2月26日発売)
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本棚登録 : 4713
感想 : 478
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『あなたは普段は何されてるんですか?』…という唐突な質問にあなたなら何と答えるでしょうか?

仕事をしている、学校に行っている、そして無職だけど○○の道に進むための勉強をしている…。人によってその答えは様々でしょう。しかし、普通には誰もが明確に何らかの目的を、何らかの理由を持っているはずです。上記のような質問をされてもその目的や理由が明確であれば、その答えに窮することなどないはずです。

さて、ここにそんな風に訊かれて『そうだな…』と答えに窮してしまった一人の男性が主人公となる物語があります。『だいたい家にいらっしゃるんですか?それともバイトとかですか?』と詰め寄られて、『ちょこちょこでかけたり、ギター弾いたり、作曲したりはしてるけど。バイトもしてないし、家にいる…かな』と語尾を濁すその男性。『それで、どうやって生活を?』と『不思議そうに首をひね』る質問者に『当然の疑問だ』と思う主人公。

この作品は、『ばあさんたちにぼんくら呼ばわりされてもしかたがない』、『今自分がいる社会に働くことで関わっていかなきゃならない』とは思うものの自分の殻に閉じこもった日々を送る主人公の物語。そんな主人公が、殻の外へと繋がる扉を叩く音を聞いて『起きる時が来た』ことに気付く様を見る物語です。

『いた、天才が。いや、ここまできたらもはや神だ』と、『目の前の男がサックスで奏でる音楽』に耳を澄ませるのは主人公の宮路(みやじ)。周囲を見渡すと『目の前に座る、じいさんやばあさんも涙ぐんでいる』という光景を目にして『当然だ』と思う宮路。そんな中『演奏を終えた神様は、サックスをテーブルの上に載せると』、『宮路さんのギターと歌を聴いて、利用者さんもみんな喜ばれてました』と頭を下げます。『嘘だ』、自分がギターの演奏をしている間は『じいさんもばあさんもしかめっ面をしているか、居眠りをしているか』だったと振り返る宮路に『また機会があればぜひいらしてください』と、『渡部』と名札をつけたその男性は言います。『君、すごいだろう?サックスだよ。プロ級だろ?いや、神だ』と言う宮路に謙遜する渡部。そして『あの音を、あの音楽を、もう一度聴きたい』と思う宮路は次の機会がないか尋ねます。『金曜はレクリエーションがある』ので、時間が余ったらまた自らの登場の機会があるかもと言う渡部。それに対し宮路は『わかった』と『うなずくと、老人ホーム「そよかぜ荘」を後にし』ます。『時々、今日みたいに老人ホームや病院にギターの弾き語りに行く』ものの音楽を仕事にしているわけではない宮路。『ギターを始めたのは高校一年生』、大学の卒業を迎えてもそのまま就職もせず『音楽で食べていく。そこまでの思い切りや、突き動かされるような情熱もな』く、『無職のまま七年が過ぎて』二十九歳になった宮路。かつての友人と会うと『自分が置いてきぼりになっていることに気づく』という今の宮路は、『市議会議員をしている親父』から毎月振り込まれる二十万円を頼りに生活を続けていました。『じっとしていても働くのと同じくらいのお金が毎月振り込まれ』、『ますます働くのがばからしくな』るという宮路。そして一週間後、再び『そよかぜ荘』を訪れた宮路は、『体が水を欲するくらいの勢いで、あの音を聴きたかった。サックスの響きに、心を揺らしたい』とはやる気持ちを押さえながら『コミュニティフロア』へと向かいます。『今日の演奏って、サックスですか?』と隣のじいさんに聞くも『いえ、手品ですけど』と言われ困惑する宮路でしたが、手品の残り時間で渡部が登場し念願のサックスを聴くことができました。しかし、『ずっと探し求めていた音』に思わず立ち上がってしまった宮路は『見えん!』という声と共に『後ろの席のばあさんに杖で殴られ』てしまいます。『本当にすみません』と渡部に事務室に連れて行かれ保冷剤を当ててもらう宮路。そして、図らずも渡部と色んな話をするなかで『普段は何をされてるんですか?』と訊かれた宮路は『正直に答えるなら、「何もしていない」が正解だ』と考えるもののはっきり答えることができません。そして、帰ろうとすると『おい、ぼんくら』、『ドラ息子はまたここに来るのかい?』と杖で殴ったばあさんに声をかけられる宮路。『とりあえず、ばあさんの様子見に来てやるか』と返す宮路に『私がぼんくらの様子を見てやるんだよ』と言うばあさん。そんな二人を見ながら『仲良くなってよかったですね。宮路さんと水木さん、気が合いそうですもんね』と『的外れなことを言』う渡部。そして、宮路が毎週老人ホームに水木を訪ね、渡部とも関わりを深めていくその先に『ずっと手にしたかったもの。きっと、それは音楽ではない』と感じる瞬間を見る物語が描かれていきます。

中学駅伝を描いた瀬尾まいこさんの傑作、「あと少し、もう少し」のスピンオフ作品でもあるこの作品。「あと少し」で、主人公の一人でもあった太田君に光を当てる「君が夏を走らせる」というスピンオフ作品がすでに刊行されており、これは同作の二冊目のスピンオフとなります。…と偉そうに書いている私ですが、実はこの作品がスピンオフだと知ったのは読後であり、かつ「あと少し」読了から一年数ヶ月の月日が経っていたこともあってその内容が朧げで、本作に登場した渡部が「あと少し」の渡部君と同一人物だとは全く気がつきませんでした。しかし、それが全く支障にならないくらいに、本作は本作の中で全く違うテーマによる作品世界が描かれていきます。また、一般的にスピンオフ作品というと本編の余韻を楽しむ程度の位置付けの作品が多いと思いますが、この作品はその域を超えて単体でも十分満足感の得られる作品に仕上がっていると思います。ということで、本の紹介でスピンオフと書かれていることで手に取るのを躊躇される方がいるとしたら、それは一切気にすることなくこの作品単体で十分楽しめる作品です、ということをまずお伝えしたいと思います。

そんなこの作品の主人公の宮路は、実家が資産家だったこともあり、『大学を卒業して無職のまま七年が過ぎていた』という日々を送っていました。『歌もギターもずば抜けてうまいわけではない』という自覚があり、『音楽で食べていく。そこまでの思い切りや、突き動かされるような情熱もない』という宮路。一方で三十歳という一つの区切りの年が迫り来る中、『いつまでも、今のような暮らしは続けていられない。それだけはわかっていた』という宮路。しかし、そんな宮路は社会と再び関わっていくための一歩がどうしても踏み出せずにいました。”就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人”、いわゆる”ニート”とも呼ばれる人は直近の調査で87万人にも上るとされています。”病気や怪我のため”に働きたくても働けないという割合が高い一方で”急いで仕事につく必要がない”という割合も一定数に上ります。この作品の主人公である宮路は、実父から月二十万円の仕送りを受け続けるという環境の下、すっかりそのぬるま湯の生活に浸り『就きたい仕事もないうえにお金があるんじゃ、働こうという意欲はそうそう湧いてはくれな』いという状況にありました。『自分の目指すところも夢もぼんやりしてしまっている。今、俺は二十九歳』と社会から距離を置く今を生きる宮路。

そんな宮路のことを『自分の殻に閉じこもっていたので、社会を知らないから成長もできず、結局大人にもなれていないんですよね。しかも、ぼんぼんなので、いまだに親から仕送りをもらいながら生活しているという。いいご身分ですね(笑)』と語る瀬尾さん。そんなある意味『いいご身分』に憧れる気持ちというのは、誰にでもあると思います。私も大学を卒業して○年。一介のサラリーマンとして今を生きていますが、会社を辞めたいと思う瞬間が今までに何度あったか、それはもう数えることなどできない位です。働かなくてよいなら働きたくなどない、そんな風に思う方は決して少なくないはずです。では、私たちはどうして働くのでしょうか?憲法第二十七条に勤労の義務が規定されているからでしょうか?生活の糧を得る必要があるからでしょうか?それとも、『普段は何をされてるんですか?』と訊かれた時に自信を持って返事ができるようにするためでしょうか?主人公の宮路は『音楽をやる』ために就職活動をしなかったという起点が今に繋がっています。そして、老人ホームに慰問に行くなどする日々を送っています。そんな日々の中で次第に社会との間に距離が生まれていくのを感じる宮路は、『今自分がいる社会に働くことで関わっていかなきゃならない』という意識を一方で持っています。しかし、社会と距離を置く毎日の中で『社会から外れることも平気になった』と社会から気持ちが離れていく宮路。そんな中、慰問先の老人ホームで働いている渡部や入居者の水木、本庄といった人々との関わりを通じてすっかり自分の殻の中に閉じこもっていた宮路に外の世界の音が聞こえるようになります。『ずっと手にしたかったもの。きっと、それは音楽ではない』という気づきの機会、そして気づきの瞬間の到来。

『ひとりでいても人生は変わらないけど、誰かと関わることによって絶対に動き出す何かがあります』と語る瀬尾さんは『部屋に閉じこもっているときの宮路には実際何も起きなかったけど、関わる人が増えて、関わる時間が長く深くなったからこそ、素敵な何かが待っていた』と続けます。そう、私たちは働くということで社会と関わり、社会に影響を受け、そして社会に影響を与えあって生きていく生き物、人間です。自分の殻に閉じこもるのはある部分では快適な人生なのかもしれません。面倒な人間関係とも無縁に自分の生きたいように生きられる人生。しかし、社会との関わりなくしてはそこに何の変化も訪れることはありません。人と関わることは面倒です。しかし、その先には人と関わることでしか得られない幸せもきっと待っているのだと思います。

『俺だけが真ん中にいた世界は、もう終わったんだ』と顔を上げる宮路。そんな宮路が、人が関わり合いを持つ社会というものの存在を意識し出す様を見るこの作品。そんな外の世界の素晴らしさを色んな『音』の中から知っていくこの作品。それは、『自分以外の人を愛することがどんなことなのか。自分以外の人と時間を共にすることが何をもたらすのか』という人と人との関わりが人生の中でどれほどに大きな意味を持つものかを教えてくれた物語でもありました。

いつもながらに、ふわっと描かれる作品世界の中に、深い奥行きを感じさせてくれるこの作品。読後感が保証された瀬尾さんならではの優しい世界観に包まれた、人の心のぬくもりが感じられる作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 瀬尾まいこさん
感想投稿日 : 2021年7月28日
読了日 : 2021年6月19日
本棚登録日 : 2021年7月28日

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コメント 2件

HARUTOさんのコメント
2021/07/28

こんばんは。
あと少し、もう少しの渡部君がもう一度登場するのでこの作品気になってましたが、老人ホームで働いているなんて思いませんでした。瀬尾さんの作品の優しい世界観って良いですよね。

さてさてさんのコメント
2021/07/29

HARUTOさん、こんにちは。
いつもありがとうございます。
はい、まさかの展開でした。でも、「あと少し、もう少し」の登場人物の名前をすっかり忘れてしまっていた私は全く気づきませんでした。あの作品に続けて読めば違う感動があったかなという気もします。作品を超えて人が繋がっていくって面白いですよね。
引き続きよろしくお願いします!

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