わたし、定時で帰ります。 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (2019年1月29日発売)
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いきなりですが、次の二つの質問にお答えください。

問1) あなたは、『定時』に帰っていますか?

労働基準法で定められた一日の労働時間は八時間、私たちはそんな法律に守られた中でそれぞれの仕事をしています。朝9時始業だとしたら17時、もしくは18時、それが多くの会社員が仕事を終える時間ということになります。

さて、この一ヶ月を思い返してみて、あなたはそんな時間に会社を後にしていたでしょうか?

では、次にまいりましょう。

問2) あなたは、『有給休暇』をとっていますか?

労働基準法で定められた『有給休暇』は、たとえ新人だとしても半年間勤務すれば10日間発生します。三年以上勤務すれば20日間も発生する『有給休暇』。私たちは法によってそれだけの日数を取得する権利を与えられています。

さて、この一年間を思い返してみて、あなたは何日の『有給休暇』を取得したでしょうか?

二つ続けてお聞きしましたが、あなたの答えはどうなったでしょうか。

2018年に”働き方改革関連法案”が成立し、この国にもようやく”働き方”というものを見直す気運が訪れました。”滅私奉公”が何よりも尊ばれ、『精神は肉体を超える』というような考え方がずっと支配してきた私たちが暮らす国、日本。『長時間労働が当たり前』、『有給なんかとらなくていい』、そして『過労死する人の数は増え続けている』。この法律の成立はそんな”不思議の国ニッポン”が今度こそ変わる機会となるのでしょうか?

さて、ここに「わたし、定時で帰ります。」という一つの宣言をそのまま書名にした作品があります。『入社以来、どんなに繁忙期でも必ず定時に帰ることにしている』という一人の女性が主人公を務めるこの作品。『有給は必要だ。誰にだって体や心のバランスが崩れる日がある』とオンとオフをはっきり意識する主人公がさまざまな問題と対峙していくこの作品。そしてそれは、『納期まであと四ヶ月しかない。でも、チーフになったからには、チーム全員、毎日定時に帰してみせる』と誓う女性が、『会社員は本当に定時に帰れないものなのか』というこの国に潜在する不治の病と向き合っていく様を見る物語です。

『来栖くん、今日も休んだんですねっ』、『なぜ休むのか、訊きました?』と『ひそかに「皆勤賞女」』と呼んでいる三谷佳菜子に話しかけられたのは主人公の東山結衣(ひがしやま ゆい)。『壁時計を見あげ』、『十八時ぴったり、定時だ』と思う結衣は、『さあ…訊いてませんけど』と、『あと五分で出られるだろうか』と思いつつ答えます。『十八時半までに注文すればビールの中ジョッキが半額』になる『上海飯店のハッピーアワー』の時間が気になる結衣。そんな結衣に『あなた教育係でしょう』、『新人は有給なんかとらなくていいんですっ』と息巻く三谷のことを『とにかくまじめ』で、『有給もとらない。他の人がとるのも許せない』人だと認識しています。そんな佳菜子に『東山さんも金曜日休むそうですね。なぜ?』と訊かれ『法事で』と答えつつ『パソコンをシャットダウン』すると、三谷は『なに閉じてるんですか?…まったく、種田さんは寝る間も惜しんでお仕事されてるというのに』と『三つ年上』で、『同じチームのサブマネジャー』のことを話題にします。しかし、『隙を見て』『お先に失礼します』と脱出した結衣。そんな結衣が勤める『ネットヒーローズ株式会社』は社員三百名の業界大手で『デジタル方面におけるマーケティング』などを『主な業務として』います。帰途につこうとした結衣はEVホールで種田晃太郎に声をかけられます。『もう帰るの?』『いけないですか』『ほんとに毎日定時で帰ってるんだな』と会話する二人が『別れたのは二年も前のこと』でした。別会社で働いていた晃太郎は、別れる直前にこの会社への転職が決まりました。そして『今週から同じチームで働くことになってしま』った二人。そんな晃太郎も振り切り『上海飯店』で夕食を摂る結衣。店主の王丹と親しく話す結衣は、いつも同じ席に座っていた『年配の男性』がいないことを話題にすると『無理して朝まで働いて』『次の朝、会社で死体になってた』という顛末を聞きます。『過労死する人の数は増え続けている』というツイッターのつぶやきを見つめる結衣。そんな時、『同じチームの吾妻からの進捗報告メール』を受信した結衣は『有名な衣料雑貨メーカー』である『星印工場株式会社』から『ウェブサイトを大幅にリニューアルしたい』という依頼についての『予算額』を目にして驚きます。『少なすぎる。こんな額ではとても無理だ』。そして翌日出勤すると『東山さんが帰っちゃうから、昨日は私、残業したんですよ』と、吊り上がった目の三谷に声をかけられます。『入社以来、どんなに繁忙期でも必ず定時に帰ることにしている』という結衣。そんな結衣の「わたし、定時で帰ります。」という”お仕事”な日々が描かれていきます。

“絶対に定時で帰りたい会社員VSブラック上司!? 働き方に悩むすべてのひとへ捧げる全く新しいお仕事小説!!”と内容紹介にうたわれるこの作品。昨今”働き方改革”が叫ばれるこの国にあって、『残業、徹夜、全部オッケー』を美徳とするような働き方は明確に否定されてきています。実際、かつて残業当たり前の象徴とも言われてきた大手金融機関で大胆な”働き方改革”の動きがあることも報道されてもいます。とは言え、この国の働く環境の隅々までそんな”働き方改革”の動きが浸透したかというと疑問符のつく現実が浮かび上がりもします。そんなこの国の労働環境に向けて朱野帰子さんが突き付けるのが「わたし、定時で帰ります。」と会社員にはなかなか口にできない一言を書名に冠したこの作品です。

そんな作品では、『定時で帰る』といういわば当たり前のことができない今の日本社会の現状を三つの側面を用いて炙り出していきます。まず一つには『インパール作戦に投じられた兵士は約十万人。そのうち三万人以上が死んだという』第二次世界大戦末期に日本軍がとった作戦行動に現代の労働環境を重ねる視点です。『補給なき作戦は未開のジャングル内で兵士を殺すようなもの』という主張が消極的とされ、そんな主張をした人物が更迭されてしまったという当時の作戦経緯。『さすが戦時中。おそろしいまでの精神論』と過去を見る一方で、現代の労働環境が、『残業で休日も返上』ということに異を唱えられない状況にあること、有給を取ることを悪と見る目、そして『過労死』という言葉が存在してしまうこと。70年以上前のこの国の精神論が形を変え今も日本人の心に根付いていることを浮かび上がらせていきます。

次に二つ目は、自分の親世代はどうだったのだろうという視点です。『モーレツ社員』と呼ばれた祖父の子として生まれた結衣の父親。そんな父親は『祖父に輪をかけた仕事人間に成長し』ました。そんな父親は『お父さんのいた会社で定年退職者の追跡調査をしたらな、定年してすぐ亡くなった人が結講いる』『豊かな日本を造るために身を削ったせいだ』と話す父親。そんな父親は結衣にこんなことを語ります。

『日本人っていうのはクソまじめなの。仕事があれば家に帰れない民族なの。そういう国にお前は生まれたの』。

日本人というものはとにかく『まじめ』である。これはよく言われることです。家庭より仕事を優先する、それを美徳とする、そしてその行き着く先にある『過労死』をどこか美化しかねないこの国のおかしな空気感というものを改めて浮かび上がらせていきます。

そして、三つ目には単に問題の潜在を提起するだけでなく、その解決手法について主人公・結衣の思い、行動、そしてその先に続く結果をもって、どうしたら良いのかという朱野さんなりの方向性をうたっていくところです。結衣のこんな一言にそれを見ることができます。

『制度だけを整えてもダメなんじゃないでしょうか』。

国の”働き方改革”の動きは確かに何もないよりは良いに決まっています。それは、それぞれの会社の内部を動かしていくための後押しになっていることは間違いありません。しかし、『まじめ』な日本人は『隠れてまで残業』するなど、どうしても『自分から長時間労働へと向かって』しまうところがあります。なかなかに一朝一夕には解決への道筋は見えてきません。この作品が刊行されたのは2019年2月のことです。わずか4年ほど前のことではありますが、それから労働環境は大きく変化しました。そう、コロナ禍における”リモートワーク”の一般化です。家に仕事を持ち帰るどころか、家が仕事をする場に変貌したというこの大きな変化は、『定時』という概念さえ変化させつつあります。時間外の線引きどころか、休日の線引きさえ曖昧になって、一年中ずっと仕事に追いかけられている、そんな環境になってしまっていることを、私自身ひしひしと感じもします。この作品はシリーズ化されているようでもありますので、今後是非この新しい問題にも斬り込んでいただきたい、そんな風にも思いました。

そんなこの作品は、『ネットヒーローズ株式会社』という『よその会社のウェブサイトを』つくる会社の『制作部』で働く三十二歳の東山結衣を主人公とする”お仕事小説”でもあります。この世には数多の”お仕事小説”があり、”お仕事”のどこに着目するかでその読み味も大きく変化します。この作品では、上記してきた通りこの国の労働環境のあり方に光を当てていきます。そのため結衣の実際の仕事内容はざっくりとしたイメージ止まり、一方で他の”お仕事小説”にはないリアルな仕事の現場を垣間見る表現を登場させます。一つには、『外注に出さずにさ、自分とこで全部やれば安くなる』という考え方の先にコスト圧縮のために『チーム全員でちょっとずつ残業』して解決しようとする視点です。”企業努力によりコスト削減に努めてまいりました”という美しい響きの言葉の裏にある人件費の削減とそれに伴う一人ひとりの社員への負荷の増大。これは、あなたが会社員であれば極めてよくある光景の一つだと思います。そしてもう一つの斬り込み先が、『管理職の彼に許された残業時間は無制限』という視点です。”名ばかり管理職”という言い方で問題にされる話題だけでなく、普通の管理職であっても、残業代が不要という視点から一介の社員として労働力の中に組み込まれていく現実の存在、それはどんな統計調査にも表に出ないものであるが故に、状況は相当に深刻だと思います。『まじめ』な日本人、そんな中で管理職として『まじめ』に今この瞬間も記録に残ることなく働き続けている人がいるというこの国の決して表からは見えない劣悪な労働環境の潜在。

『会社のために自分があるんじゃない、自分のために会社があるんです』。

そして、

『どうやったら、みんなが定時に帰れるようになるだろうか?』

この国に暮らし、この国で働く私たちは、それぞれが働く環境に今も存在し続けるさまざまな問題の数々に目をそらすことなく問題視し続けていかなければならないと思います。それは、他の人だけでなくあなた自身の命を守るための一歩でもあるからです。

『入社以来、どんなに繁忙期でも必ず定時に帰ることにしている』という主人公の結衣。そんな結衣がこだわる『定時に帰る』という本来当たり前のことに光を当てていくこの作品。そんな作品では、この国の労働環境に潜在するさまざまな問題にわかりやすく光が当てられていました。『会社は仕事ができるようになりたいと思う奴ばかりじゃない』という中に、『他の人を、定時に帰すって、難しいね』と人を管理する視点からも問題を見ていくこの作品。『真に恐ろしいのは敵にあらず。無能な上司なり』という他の”お仕事小説”には見られない視点も描かれるこの作品。

簡単な言葉なのに、なかなか口にすること自体憚られる「わたし、定時で帰ります。」という言葉。この書名に少しでも心が動かされたあなたにこそ是非手にしていただきたい、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 朱野帰子さん
感想投稿日 : 2022年12月17日
読了日 : 2022年9月24日
本棚登録日 : 2022年12月17日

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コメント 2件

bmakiさんのコメント
2022/12/20

さてさてさん

こんばんは(^-^)
朱野帰子さん、読んで下さったのですねー(*´∇`*)
めっちゃ嬉しいです。
そして、この感想!!本当にさてさてさんの熱量は凄いし、ここまで本を読み解ける能力も羨ましいです!
これだけの長文で表現できるのも本当に素晴らしい!

質問にお答えしますと、私は毎日17時1分打刻です(笑)
会社では主任とか、係長クラスの立場なのですが、部下もおりませんので、とにかく自分の仕事さえすれば帰宅出来るということで、どうにかこうにか工夫し、毎日定時で帰って晩酌を楽しんでおります(^_^)


有給休暇は、毎年20日前後取得しています(笑)
毎月一回は計画的に。そして会社にも一斉有給の制度もあり、取得しやすい環境になりました。


私はかなり恵まれている方ですが、この主人公の女性にはかなり感情移入できた記憶があります(^o^)

定時で帰って、好きなつまみを作って、思いっきり晩酌、これが毎日の生きる喜びです(^-^)

さてさてさんのコメント
2022/12/20

bmakiさん、こんにちは!
朱野帰子さんの作品とても良かったです。特にこの作品は、名前だけは以前から知っていましたが、そもそも作者が誰かということ、そして、名前は知っても朱野帰子さんってどう読むの?ということからの出発でしたが、作品の内容は非常に興味深く読むことができました。
なるほど、bmakiさんの環境とても恵まれていらっしゃるように思います。終業時間は私も随分と早くなった昨今ですが、有給休暇は、う〜ん、一桁ですね。二桁になかなか乗らないです。
また、昨今それ以上に憂鬱なのが、レビューにも触れましたが、昼夜、そして休日を問わずメールが当たり前のように届くことです。今、このコメントを書いている間にもメールが届いて内容確認のために中断しました。以前ももちろんなくはなかったのですが、在宅勤務という概念が入ってから、仕事と私生活の境が極めて曖昧になったように感じています。これが、一番ストレスです。旅先でもこれが続くかと思うと憂鬱で旅行に行く気になれないかもしれない…。悩ましいです。
この辺り、朱野帰子さん流でスカッとさせていただきたいなあと。
いずれにしても作家さん選択の幅が広がるのは幸せです。

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