自転しながら公転する

著者 :
  • 新潮社 (2020年9月28日発売)
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『「私たちは自転しながら公転する地球の上に乗って、生活しているんだな」ー 知り合いが何気なく発した言葉からヒントを得て、この小説が生まれました』と語る山本文緒さん。

私などが改めて説明するまでもなく、この地球は24時間で自転し、365.25日で太陽の周りを公転しています。さらにはヘルクレス座の方向に秒速20kmというスピードで太陽系全体が移動していってもいます。もちろん、私たちは日常生活においてそんなことをいちいち考えたりはしません。朝が来て、昼になって、ああ、もう夜になってしまったか、そんな一日の中での時間の変化を漠然と感じるだけです。私たちの日常は何かと慌ただしく過ぎていきます。『仕事、恋愛、介護、職場の人間関係』と、私たちが立ち向かわなければならないことはあまりに多すぎます。では、そんな忙しい貴方を俯瞰した位置にいる神さま視点でそんな貴方を見たとしたら何が見えるでしょうか?そこには朝起きて夜眠るまでに、生きるために必要な事ごとをテキパキとこなしている貴方の懸命な姿が見えるでしょう。一方でそんな貴方も朝起きて”おはよう!”と家族に声をかけ、電車やバスに乗り、そして会社に着いて、”さあ、今日も頑張るぞ!”と気合いを入れる瞬間があります。自分の人生を懸命に生きながら、コミュニティへと一歩踏み出した瞬間に貴方は社会の一員として、それぞれのコミュニティの中でそれぞれの役割を果たしていきます。そんな貴方を神さまが見たら、貴方自身の世界を生きながら、社会というもっと大きなコミュニティの中でもそれぞれの役割を演じているという複数の動きを見せる貴方の姿が見えてくるはずです。

「自転しながら公転する」というなんとも大きな世界観を思わせる書名のこの作品。それは、地球が自転をしながら太陽の周りを回り続けるのと同じように、自分の人生を回しながら、コミュニティの一員として社会を回していく私たちの人生を通じて、人の幸せとは何かを考えていく物語です。

『今日私は結婚する。書類上ではまだ煩雑な手続きが残っているが、今日これから結婚式を挙げ、今夜から彼の部屋で暮らすことになる』という『私』。『これは本当に現実なのか実感がいまひとつ湧いてこない』中で『三日前に両親と共に日本を発ち』、今、式を前に、ウェディングドレスを着付け中の『私』。そして、メイクルームでひとりになった『私』は、『自分の姿を見つめ』ながら、『ベトナムの恋人と結婚を決めてから、慌ただしく大騒ぎ』したここまでの日々を振り返ります。『日本で働いていた彼と出会って、いつの間にか付き合いだした』という『私』。『彼の帰省に合わせて初めてこの国に遊びにきたとき、私は彼のバイクの後ろに乗って田舎道を走った』というあの日。『大きなスクーターにふたりで乗って、風を切り、焼けるような熱い空気の中を走った』というあの日。『湿気と濃い酸素。生まれて育った関東平野の乾ききった空気と全然違った』というホーチミン郊外。『ものすごく美味しいんだと連れて行かれた店は、バラックと見紛うような小屋』。そして出された『盛り付けも何もないような、ただ皿に入れただけのような青菜の炒め物』。しかし『鼻孔をくすぐるハーブの匂いに暴力的な食欲が込み上げた』という『私』は、『大きな口を開け、がつがつとそれを掻っ込んだ』彼に『つられるように口に入れると、うま味が口の中で弾けた』という展開。『夢中で何皿も注文して食べた』二人。『働いているのは意外にも若い人ばかりだった』という店内。『皆、さっぱりした身なりをして、フランクな接客をしている』という従業員たち。『それを見ながら私は経験したことのなかった感覚に体中がしびれて放心し』たというその瞬間。『ここで暮らせたら、という思いが湧き上がった』その瞬間の『私』。『お洒落なんかしないで、化粧なんかしないで、こういうところで働いて、こういうものを食べて日々暮らしたい』と思った『私』。今までも漠然と『外国で暮らすことについては考えたことはあった』という『私』。しかし『そんな漠然とした思いとはまったく違う熱望と言っていい気持ちが込み上げた』その瞬間。そして『結婚の話が出るまで時間はかからなかった』という展開の先に今日を迎えた『私』。『古いホテルの中の教会は、小さいけれどおごそかだった』と始まった式場の中で『最前列に座っていた母と目があった。母は涙ぐんでいた』という光景を見て、『最近までこの結婚に反対し続けていた』過去を踏まえ『何の涙だろうか』と思う『私』。一方で『反対するだろうと思っていた』父は『おめでとう』と笑っただけだったという報告の日。そして『私は夫になったばかりの恋人の腕につかまり、リストのピアノ曲が流れる中、バージンロードを歩き出した』という礼拝堂の今。『あのドアを開ければ、そこには喧騒の街がひろがっている』というその向こうへと歩き出す二人…という物語の〈プロローグ〉。そんな〈プロローグ〉の瞬間に至るまでの主人公・与野都(よの みやこ)が、『自転しながら公転』する、その苦悩の日々を描く物語が始まりました。

2021年の本屋大賞にノミネートされたこの作品。地方のアウトレット内のアパレルショップで契約社員としてはたらく33歳の与野都が主人公となって物語は展開していきます。そんなこの作品は元々は「小説新潮」に連載されたものを改稿の上、〈プロローグ〉と〈エピローグ〉を追加して刊行されたという経緯を辿ります。上記したベトナムで結婚式を挙げるというとても印象的な場面が綴られる〈プロローグ〉。活き活きと華やいだ雰囲気の中に描かれるベトナムの日常の中へ『私はそこに飛び込むのだ』と前向きな感情に満たされた〈プロローグ〉。しかし、それに続く本編は、『毎朝都は牛久大仏を眺める』という一文から始まり、様々な事ごとにぐるぐると思い悩む主人公・都の鬱屈とした物語です。このなんとも言えないその落差に大きな衝撃を受けるこの作品。そんな〈プロローグ〉には、『私』の他に、父親、母親が登場します。特に母親についてはこの結婚に直前まで反対であったことが明確に語られる一方で、式典の各所へのこだわりを見せる姿も描かれます。そして式中に流した涙に『何の涙だろうか』と思う『私』。そんな『私』は、母親の胸に去来するものについて『喜びだろうか、悲しみだろうか、怒りだろうか。嬉しいのか、嫉妬しているのか、母の胸の内が本当にわからなかった』と語ります。〈プロローグ〉の華やいだ場面の中ではどうしても読み飛ばし気味になるこの母親の描写。そんな描写の数々を必ず読み返したくなる読後が読者を待つこの作品。ブクログのレビューでも賛否分かれるこの〈プロローグ〉について、『単行本にする際に付け加えるべきかどうか悩みました』と語る山本さん。確かにこれらがあるのとないのとでは、読後は全く別物に感じるであろう内容がそこには描かれています。しかし、私はこれらがあってこそのこの物語なんだと思います。それはこの作品が読者に問いかける『幸せ』とは何かという命題への山本さんなりの答えを〈プロローグ〉と〈エピローグ〉を通して垣間見ることができるからです。これから読まれる方には、この〈プロローグ〉を、さらっと流すのではなく、是非じっくりと味わいながら、特に母親の描写には意を払って読んでいただきたいと思います。その先にはきっと、単行本480ページにも及ぶこの長編を”読んでよかった!”という読後が待っていると思います。

そんな〈プロローグ〉に続く12章からなる本編では、二人の人物の視点がランダムに切り替わっていきます。その一人は主人公である都、もう一人は『更年期障害』に苦しむ母親の桃枝です。『病気で別人になってしまった』という重い症状に苦しめられる桃枝。そんな二人がお互いを見やる場面で興味深い対となる表現が登場します。『母のおなかから生まれた自分は母とこの世の中で一番他人ではない間柄だったはずなのに、いつそんなに遠く離れてしまったのだろうと愕然とした』という都の母に対する想い。一方で『かつて自分のおなかの中にいて、生まれてからは涎だって排泄物だって直に触ってきた。しかし逆はどうなのだろう。自分がもっと老いて認知症や寝たきりになったりしたら、娘は母のそれを汚いと思わないで世話してくれるのだろうか』という桃枝の都に対する想い。『おなか』から生まれた側と『おなか』から産んだ側のそれぞれが、『おなか』を通じてそれぞれを強く意識し合いながらも気持ちが次第に離れていく不安感を上手く対比させたその表現。母と娘がそれぞれの人生を、それぞれの境遇を思い悩み、一方で付かず離れずに関わっていくその展開。視点の切り替えによってお互いの気持ちがよく見えてくる中で、読者の年齢、立場によってもどちらに共感できるかが変わってくるこの二人の巧みな描写は、それぞれ公転する中で微細な重力によってお互いの軌道に影響を与え合う惑星のように、この「自転しながら公転する」という作品を読む上での一つのキーになっていると思いました。

そんな「自転しながら公転する」というとても印象的な書名のこの作品。私たちが毎日を生きるということは、それぞれの生活を送るのにプラスして社会の中で何らかの役割を同時に果たすことでもあります。人によってそんな社会との関わりの幅に差はあれど、何かしら社会の動きの中で私たちが生きていることに違いはありません。地球の公転とは違って、私たちが日々を生きる中では、突然、新たな動きの中に組み込まれることもありえます。『家族が病気になるということがどんなことか都はまったく知らなかった』という主人公の都。母の介護という動きに突然に組み込まれ『それは去らない台風の中に突然放り込まれたような出来事』と感じる都は『母が昔の母に戻って、都が自分のことだけを考えていい日々を取り戻せるのはどのくらい先なのだろう』と思い悩みます。それは貫一に『家事をやりつつ、家族の体調も見つつ、仕事も全開で頑張るなんて、そんな器用なこと私にはできそうもない』と自信を失った姿を見せる場面に繋がっていきます。しかし、そんな状況も母親の桃枝視点に切り替わると『家族から離れてひとりになりたい、と桃枝は思った。夫や娘からの心配が、かえって重圧だった』と全く違う世界がそこには見えてきます。この作品では他に都の父親、恋人の貫一、そしてベトナム人のニャンなど男性も登場しますが彼らに視点が切り替わることはありません。しかし、彼らだってそのそれぞれに思い悩みながらも、それぞれの世界の役割の中で生きています。それぞれの視点では決して見えない神さま視点で見た時には、それぞれの悩み、苦しみなんて大したことはないのかもしれません。それは、全体から見ればちっぽけな惑星に過ぎないからです。でも大切なことは、そのちっぽけな惑星それぞれがそれぞれに「自転しながら公転している」ということです。『自転しながら公転』する、そのそれぞれがお互いを尊重すること。重力によってお互いが引かれ合いつつも絶妙な均衡の中に美しく回り続ける世界。そして、それぞれの軌道を尊重し、それぞれが幸せにその軌道を回り続けることを見る神さま視点に立った時、〈エピローグ〉の私が両親に問いかけるシーンに光が当たります。『ママはパパと結婚して幸せだった?』というその問いかけ。それに対して『別にそんなに幸せになろうとしなくていいのよ。幸せにならなきゃって思い詰めると、ちょっとの不幸が許せなくなる。少しくらい不幸でいい。思い通りにはならないものよ』という母親の答え。それは、思い通りにならない自転と公転の中に、それぞれの生き方を、それぞれの幸せを見出していくものなのだと思います。そして、都、桃枝、そして貫一らが描くそれぞれの自転と公転を決して否定することなく、肯定していく、そんな優しい神さま視点に世界を見る物語は、この〈エピローグ〉のあたたかい感情に溢れた描写あってのことだと思いました。

『都と桃枝、ほかにも必死に自転公転している登場人物たちの誰かしらには、感情移入できる点があるのではないでしょうか』と山本さんがおっしゃる通り、この作品には国籍を超え、多種多様な立場の人物が登場しました。そんな中でもアラサーという立場の主人公・都は、会社に、恋愛に、介護にと同時に押し寄せる様々な悩みの中でもがき苦しみながらも前を向いて進んでいきました。そこに描かれるリアルさは決して小説の中だけのものではありません。山本さんがおっしゃる通り感情移入してしまうリアルさをそこに感じる方もいらっしゃると思います。それは、私たち自身も「自転しながら公転する」、そんな毎日を送っているからなのだと思います。私たちは、他の軌道を回る人を見ながら、そこに色んなことを思いながらも、そんな他の人の軌道に移ることはできません。私たちは私たちそれぞれの軌道を「自転しながら公転する」しかないからです。そんな私たちそれぞれの自転と公転の人生に幸あれ!そんな風に感じた読み応え十分の素晴らしい作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 山本文緒さん
感想投稿日 : 2021年2月20日
読了日 : 2021年2月2日
本棚登録日 : 2021年2月20日

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コメント 4件

yyさんのコメント
2021/02/20

さてさてさんの このレビュー、心に染みるものがありました。個と個、個と社会が優しくゆるやかに繋がることができる世の中になるといいなと感じました。

さてさてさんのコメント
2021/02/20

yyさん、コメントありがとうございました。山本文緒さんの作品は初めて読みましたが、女性の内面をとても丁寧に描かれていて、すっかり魅せられてしまいました。元々わたしのレビューは長いのですが、さらに長くなってしまいましたが、それだけ深く心に響いてきた作品でした。

naonaonao16gさんのコメント
2021/02/20

さてさてさん

こんにちは!
またまた素敵なレビューありがとうございます!!
この作品、わたしも気になっており、次に読もうと先日購入。しかし次に読むのは「薄闇シルエット」になりそうです(笑)

本屋大賞ノミネートがきっかけで気になったのですが、かなりの分厚さでびっくりしました!
レビュー拝見しさらにまた読みたくなりましたー!ありがとうございます!

さてさてさんのコメント
2021/02/20

naonaonao16gさん、いつもありがとうございます。
とても心に響いた作品でした。

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