みなそこ

著者 :
  • 新潮社 (2014年10月31日発売)
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本棚登録 : 228
感想 : 52
3

『橋、沈んでも大丈夫なの?』
『大丈夫よ』
『よく壊れないね』
『沈ませるための橋やもん』

川の向こう側へと渡る時に使うもの、それが『橋』です。ここで私が強調するまでもありません。そんな『橋』は、人々の生活を支えてくれる大切な存在でもあります。『橋』が一本かかっただけで、それまで繋がりのなかった人と人が新たに結びつき、新たな関係が築かれていきます。”友情の架け橋”、”世界を繋ぐ橋”、そして”明日に架ける橋”と、『橋』がつく表現はどこか前向きな印象を与えてくれるものばかりです。

しかし、そんな『橋』を維持管理するのも大変です。和歌山市の紀の川にかかる水道橋が崩落して大きな問題になったニュースも2021年にありました。川の流れに抗していかなければ崩れてしまう『橋』。しかし、古来より人は、そんな自然の力に負けないように知恵を振り絞ってきました。その一つが『沈下橋』です。“洪水時には橋面が水面下になる”と、自然の力に逆らわないでその存在を維持しようとする人々の知恵の結晶。沈まないように作るのではなく『沈ませるための橋』というその考え方。

そんな『沈下橋』のある風景を舞台にした作品がここにあります。『ひかげは中でも小さな部落だった。沈下橋がなかったら辿りつけない、いきどまりの部落』という人々が暮らす『橋』の向こうの土地。この作品はそんな『ひかげ』へと帰省した一人の女性の物語。そんな『ひかげ』で過ごした過去の記憶を呼び覚ましながら一夏をそこで過ごす女性の物語。そしてそれは、そんな女性が一人の中学生の男の子のことを想い『あたしは知った。もう、あたしたちが取り返しのつかないところまで来てしまった』と二人の危うい一夏を描く物語です。

『窓の外に、くもが巣を張っていた』という音楽室でショパンを弾くのは主人公の佐和子。そこに『さわ、もう練習すんだ?』『すんだがやったら、一緒に帰る?』と男の子を連れてやったきた ひかる。『あのころのあたしは、ピアノと本から知ったことだけで生きていた』という十三歳のそんな夏を思い出す佐和子は、『あれからもう、二十年以上たった』と『明日から、夏休みが始まる』娘の みやびのことを思います。ちょうど学校から帰ってきた みやびに『ママ、ひかげ行くの?』と訊かれ頷いた佐和子。『パパも行くの?』と訊かれ『パパは、夏休みもプール指導があるからね、お休み取れないんだって』と二人だけの旅となることを説明します。そして、『空港を出ると、いつも日射しに目が眩む』と、佐和子の実家のある『ひかげ』へと向かう二人。『レンタカーを借り』て向かう『ひかげ』は『沈下橋がなかったら辿りつけない』場所にありました。『車一台がやっと通れるくらいに細い道』という『沈下橋』は、『欄干がないので、車で渡ると橋の両側は見えなくなる』『五〇mほどの長さの細い橋』でした。そんな時、『橋を渡っていく人がいた』ので『ゆっくりと追い越そうと』すると、振り返ったその人に『さわさん?』と声をかけられます。『あたしのことをこう呼ぶ人は、ひとりしかいない』と思い、『りょう?』と声をかけると『頰をあからめた』りょう。初めてそんな『りょうに出会ったのは、りょうが小学生になったばかりのころだった』と振り返る佐和子は、幼なじみのひかるの息子であるりょうとの出会いのことを思います。そして、実家へと着いた佐和子は部屋の中を見回し『えらいすっきりしたやんか』と母親に語りかけます。『ひかげ、出ることにしたけん』『町へ出ろうかと思うてね』と、『スーパーも病院もない』という『ひかげ』の不便さもあって町に出来た団地へと引っ越すと説明する母親。翌夕、みやびと共に水着に着替えた佐和子は『沈下橋のたもとから川原へ下り』、『川へ入』り『なんべんももぐ』ります。そして、『川から顔を出』すと、『橋の上にりょうがい』るのに気付きました。『みやび、泳ぐが上手うなったねや』と声をかけるりょうに『もう飛びこめるんだよ。ねえ、りょうくん、見てて!』とまた川にもぐる みやび。そんな みやびが浮かんでくるまで『りょうはあたしを見てい』ます。『橋の上と下で、あたしとりょうはみつめあった』というひと時。『首筋に、肩に、時々川面から出る腕に』りょうの視線を感じる佐和子。そんな二人が、”お互いの衝動をさぐる甘く危うい夏”の情景が描かれていきます。

「みなそこ」という何を意味しているのか今一つピンとこない不思議な書名のこの作品。そんな書名同様に、その内容も一体何が描かれた作品なのか、極めて独特な作品世界がそこには存在します。そして、その一方で読者の賛否両論が巻き起こりそうな作品世界も同時に存在します。この両面を順に見ていきたいと思います。

まずは、この作品の魅力とも言える点を二つ挙げたいと思います。まずは、この作品を読む読者が間違いなく魅かれる『沈下橋』です。”洪水時には橋面が水面下になる”という『沈下橋』は、四国の四万十川がロケ地に選ばれる旅番組では必ずといっていいほど紹介されてもいます。『雨がたくさん降ったら、沈下橋は川に沈む。橋が沈んだら、渡ることも戻ることもできなくなる』というその橋の存在は、そんな橋を必ず渡らないと辿り着けない主人公・佐和子の実家へと続く道に存在します。この作品ではそんな橋の存在が極めて象徴的に物語の舞台として登場します。『沈下橋を渡るのも一年ぶりだった』と久しぶりの帰郷で橋を渡る佐和子。そんな時『綱渡りみたいだね』と夫のともくんが初めて渡った時に言った言葉を思い出す佐和子。そんな久しぶりの帰郷で象徴的に登場する橋を渡る佐和子の目に飛び込んできたのが『うすやみに夏服の白いシャツが浮かびあがる。男の子』という りょうの姿でした。そして、物語は りょうと佐和子の関係を描く危うい場面が何度も登場しますが、そんな場面にも『沈下橋』が舞台に登場します。この作品で間違いなく読者の心を捉えるこの『沈下橋』という存在。そんな橋の存在を りょうへの思いに絡めて描かれるその作品世界はとても印象的なものでした。

一方で、ピアノを弾く佐和子と共にこれも幾シーンにもわたって登場するのがクラシック音楽に関する描写です。中でもかつて佐和子が幼き日々に師事したピアノの先生との会話は印象的です。『久しぶりに、さわちゃんのピアノが聞きたい』という先生の希望で佐和子が弾いたのはラヴェルの『水の戯れ』でした。『久しぶりやろうに、よう弾いたね』と言う先生に『パヴァーヌとはやっぱり全然ちがいますね』と答える佐和子。そんな佐和子に先生は『ラヴェルはあきらめたがよね』とその理由を答えます。それが『パヴァーヌまでは、自分でピアノを弾きもって書きよる。水の戯れからは、ピアノを弾かんなった』という通り自分が弾ける前提で作曲した前者と、『自分の実力にむきあえるようにな』り、『自分のピアノの実力から離れて自由になっ』て作曲した後者という違いがあると説明する先生。ラヴェルのピアノ曲は私も大好きなので、こんなクラッシック音楽の解説のようなお話が登場するのは非常に興味深いものを感じます。その一方で、いきなりこんなクラシックの雑学的内容が展開する違和感も感じました。

そんな作品世界の魅力の一方で、難ありと思える部分が目立つのもこの作品の特徴です。その一つが『登場人物たちは私の故郷、高知県西部の幡多弁を使っています』と中脇さんが説明される、全編にわたってこれでもかと登場する『幡多弁』による表現の数々です。あなたは次のような会話文を読んでその意味が理解できるでしょうか?

①『水子が口を開けて待ちよるけん、ご先祖さんにあげたお水は雨だれ落ちにあまさんといかん』

②『やって、これが一番大きいがやもん。大きいがにしちょいたら、いつまでやち使えるろ』

③『蚊がすごいけん来んちかまん』

④『あれはねえ、しんもうばたいうがよ』

⑤『言うちょらんかったかねえ。金田のおばあちゃんがみてたがよ』

さて、どうでしょう?例えば”③”であれば、文字通り蚊がたくさんやってくるというような意味なのかなと、まだ推測できます。しかし、”⑤”の『みてたがよ』は難解です。何かを”見ていた”と言っているのかな?と考えるのが普通だと思います。しかし、その後の会話でこの言葉がなんと『死んだ』ことを意味することがわかります。『幡多弁』を知らない人にとってはこれはもう全くもって意味不明です。また、上記で挙げた会話文をあなたはどのくらいの時間で読めたでしょうか?スラスラとは読めませんよね。日本語なんだけど日本語でないようなこの方言を読むには実際物凄く時間がかかります。その数が少なければ流し読みをするという手もあるでしょうが、会話文は全編に渡って全てこの調子で続くため、流し読みは作品全体の流し読みになってしまうというなんとも悩ましい状況があります。これは、他の方のレビューを見ても同じ印象なようで、とにかくこんなにも読書にストレスを感じた作品はない!と言い切れるほどに、方言に手こずった、もしくは正直なところ辟易させられました。恐らく時が経ってこの作品の内容を忘れる時が来ても「みなそこ」=”方言に辟易した”という印象だけは強く残り続けるだろうなと思いました。

そして、この作品の一番の問題点。それが、皆さんのレビューの中に嫌悪感さえもよおすと書かれる、三十代の女性であり、小学四年生の娘の母親である主人公の佐和子が、幼なじみの ひかるの長男、中学生の りょうに想いを深めていくという非常に危うい世界を描く物語です。『あたしはいっぺんに二人も三人も愛せない。ひとりしか愛せない』という佐和子。そんな佐和子が運転する車の『空いた助手席に、ジャージに着替えたりょうが乗りこんできた。長い腕があたしの肘にあたりそうなほど近い』というその場面。『りょうがあたしをじっと見ているのがわかる』と彼のことを意識する佐和子。『どうしても胸をひろげて見せるかたちになる。もうおわんをふせたようではなくなった乳房』と唐突に男と女の世界を意識させるこのシーン。また別のシーンでは『あたしの口のそばに、もちを差しだしてきた』りょう。『もち粉で真っ白くなった指が、あたしの唇に触れる』ことを意識する佐和子は『まちがいなくあたしの唇に触れた、りょうの指を食べたように思う』と感じます。そして、そんな佐和子は、『あたしの唇に触れた指をねぶった』というりょうの仕草の一つひとつをも意識します。読めば読むほどに少し怖くもなってくる佐和子の りょうに対する眼差し。そんな場面が、物語に点々と、かつ唐突に登場し、佐和子の想いが一過性のものでないものであることがわかります。『りょうは天井を見上げていたあたしに手をのばした。あたしたちは二人で床に倒れこんだ』と描かれていく極めて危うい二人の関係。年の離れた男の子と大人の女性の危うい関係が描かれた作品というと、山本文緒さん「眠れるラプンツェル」が強く印象に残っています。しかし、その関係の危うさがある意味自然に現れた同作と異なり、この作品は上記したような『沈下橋』の絵になる情景やクラシック音楽に対する描写など落ち着いた世界が描かれる作品です。その中にこの佐和子の感情が唐突な違和感の中に描写されます。しかもその関係性を読者に納得させる説得力のある描写はなく、そこにあるのはただただ違和感のみ。これでは背徳感だけが刺激される展開としか言えないようにも思います。『いけないことだと分かっていても読んでいるうちにドキドキして、自分にもそういう気持ちがあるんだと気づいて、後ろめたくなった』という感想を読者からいただいて『すごく嬉しい』とおっしゃる中脇さん。そんな中脇さんは、この作品のことを『書いていてすごく楽しかった』ともおっしゃいます。作者の中脇さんがそう思っていらっしゃる以上、一読者がどうこう言える立場にはないのかも知れませんが、間違いなく好き嫌い、そして嫌いという方には嫌悪感さえ生まれる作品であることには違いないと思いました。

『りょうの細くて長い手足にからめとられることを、あたしは選んだ』という三十代の女性である佐和子が、幼なじみの長男・りょうへの危うい想いに囚われる感情が綴られたこの作品。『沈下橋』という日本の原風景が描かれたような素晴らしい情景描写の数々の一方で『高知県西部の幡多弁』の魅力というよりは極めて難解な方言を読み解いていくことに強いストレスも感じるこの作品。

・この作品世界で中脇さんは何を伝えられたかったのだろうか?

クラシック音楽への想いの変化、夫への愛情の変化、そして変わっていく故郷を静かに見据える想いの一方で、その主題を読み解くのを邪魔するかのように描かれる主人公・佐和子の中学生との危うい関係と、物語への理解を拒むかのように立ちはだかる難解な方言の数々がせめぎ合いを見せるこの作品。ただただ困惑だけが残ってしまった、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 中脇初枝さん
感想投稿日 : 2022年2月2日
読了日 : 2021年11月13日
本棚登録日 : 2022年2月2日

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