円卓

著者 :
  • 文藝春秋 (2011年3月5日発売)
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「円卓」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?

かつてそれは「アーサー王物語」における上座下座のない円卓を囲む騎士たちの呼称”円卓の騎士”という答えが多かったのかもしれません。しかし現在多くの人の頭に思い浮かぶのは、恐らく中華料理店で仲間と囲む丸いテーブルでの食事の光景ではないかと思います。中国伝来と思われがちなその円卓。1932年に東京・目黒雅叙園で生まれたという実は身近な円卓の起源。見るだけでなんだか気持ちが高揚し、会話も食欲も増しそうな赤の丸いテーブル。そんな円卓をなんと自宅の居間に設置した家庭があります。『とても大きいから、居間のほとんどを、占拠している』というその円卓。『とんでもない存在感、深紅だ』というその円卓。『卵焼きも野菜炒めもそうめんの薬味も、円卓をくるくる回り、家族に届けられる』というそんな円卓を囲む渦原家の人たち。この作品は、そんな家族の中で愛され、日々成長していく小学三年生・こっこの物語です。

『香田めぐみさんが、眼帯をして登校してきた』という『三年二組』のある朝。『どうしたんそれ、取ってみて』と騒ぐ皆に『うん、ものもらい』、『さわったら、うつるんよ』と大人な態度で席に着いた めぐみ。『学級の中でも背がうんと高』いこともあって『自分たちより自動的に大人に近い』と見られる めぐみ。そんな めぐみに『モアッとした「憧れ」を、一番、胸に秘めている』のが主人公の渦原琴子。『ことこ、が言いにくいので、こっこ』と呼ばれる小学三年生。そんな こっこは『ジャポニカの「じゆうちょう」に「ものもらい」』と書きながら『ものもらいという病気を患ったら、あの、白くて格好のいい「がんたい」を目に装着することができる』と考えます。『わたくしにちかづいたら、うつるのよ。どうか、ひとりにして』と言いたいと思う こっこ。『それによって得られる孤独を思って、うっとりする』こっこ。『香田は眼帯が取れるまで、体育休みやから』と担任教諭であるジビキが言うのを聞いて『そ、そ、そそれは、ええ、え、えらいこっちゃ、なぁ!』と興奮して、リズムに拍車がかかるのは、吃音の男子児童で幼馴染のぽっさん。『あそこに座りたい。みんなと私は違うのだということを噛みしめながら、片方の目だけで、みんなを見つめていたい』と思う こっこ。『好きな言葉、八歳にして、「孤独」だ』という こっこ。そんな彼女の家庭は『六十八歳の祖父と、七十二歳の祖母、三十五歳の父と、三十九歳の母と、十四歳の三つ子の姉』という八人の大家族。『青い屋根と波打った白い外壁』の公団住宅の三階に暮らす渦原家。そんな こっこに『「孤独」は訪れない』と三つ子の姉と六畳の部屋を共にしています。『あの三つ子の妹』とずっと言われてきたことを大嫌いだと思う こっこ。『姉らを「こっこの姉の三つ子」と呼べ、と思う』こっこ。そんな 渦原家の居間のテーブルは『潰れた駅前の中華料理屋、「大陸」からもらってきた、円卓』、それは『とんでもない存在感、深紅』というその『円卓』を囲む八人の家族。そんな家族の中の一番年下としてみんなに可愛がられる こっこの成長の物語が描かれていきます。

『こっこ』というあだ名で呼ばれる小学三年生・渦原琴子の数ヶ月の日常を切り取ったこの作品。解説の津村記久子さんが『何かが起こるようで起こらないことと、何かが起こらないようで起こるという状況を絶えず行き来している』と書かれる通り、大人の目からすると、事件が起こりそうに見えて何も起こらない一方で、小学三年生の こっこの目からは日々大きな変化が起こり、また起ころうとしている、そんな視点のギャップを上手く整理しながら物語は進んでいきます。そんなこの作品の一番の魅力は、”言葉のシャワー”の中に こっこと共に飛び込むということだと思います。学習指導要領によると小学校三年までに習う漢字の数は1年(80字)、2年(160字)、そして3年(200字)。この作品で描かれる夏休み前後の時期であれば、まだその総数は300数十字程度に過ぎません。私たち大人は、知らない言葉、初めて聞いた言葉であっても、まずは知っている漢字を組み合わせて理解しようとします。日本語はその方が理解しやすい言語だからです。しかし、知っている漢字の総数が少ない小学三年生は、そのまま平仮名で理解する他ありません。『がんたい』、『ふせいみゃく』、そして『こどく』と言葉を平仮名のまま自身の中に吸収していく こっこ。そして、次にその意味合いを辞書からの知識ではなく、自身の経験によって理解していく こっこ。そこには、この年代ならではの”言葉を知る”ことへの貪欲な姿と、”言葉を知って”成長していく一人の人間の姿を見ることができます。そして、そんな こっこを見守る読者は、知らないうちにそんな”言葉”の持つ魅力を再認識する、そんな機会を与えてくれる、そんな作品でもあるのだと思いました。

そんなこの作品の中で、こっこの一つの転機となるのが作品後半に登場する『鼠人間』だと思います。この作品は解説の津村さんが書かれる通り『まずは、登場人物たちのとんでもない個性に心を奪われ』ます。小学三年生の こっこ視点で描かれるこの作品では、学校のクラスメイトも、渦原家の面々も多種多様な個性あふれる人物揃いです。『こっこの好きな言葉、八歳にして、「孤独」だ』という こっこがごく普通の小学三年生に感じられる位に多彩な人々に囲まれるその物語。そんな物語を読んでいると、どこか自身の感覚も麻痺してしまって、『鼠人間』という三文字が出てきても違和感を感じられなくなってしまいます。『こっこはひとりで遊んでいた』というある日。『ひとりで遊んではるのん』と声をかけるのは『暑いさなか、長袖鼠色のつなぎを着、肩ほどまでの脂ぎった髪を、真ん中でぴたりと分けた』といういかにも怪しい人物、それが『鼠人間』。改めて読むと違和感満載のこの人物に『お名前、なんて言いはるのん。』と『大人の対応』をする こっこ。そんな こっこが『鼠人間』のなんたるかを”言葉”をもって知るのはしばらく経ってからのことです。そんなしばらく経ってからの こっこは、『鼠人間』のなんたるかを知らなかった少し前の こっことすでに同じではありません。”言葉”を知ることによって、短い間に、どんどん成長を見せていく こっこ。無垢な子供が大人になるということを感じさせる一つのエピソード、それが『鼠人間』の登場なのだと思いました。

そんな こっこ視点で展開するこの作品ですが、視点が担任のジビキに移動する瞬間が一箇所存在します。『夏休みを過ぎると、教室には、すっかり様変わりした児童らがいる』という大人視点の登場。『夏の一ヶ月半が、子供を劇的に変えるのだ。だがその変化に、本人は気付かない。気付くのは、いつも成人である』というその視点が見るもの。そのあまりの変化に『自分だけが取り残されているような気分だ』とさえ感じるジビキ。『この子らの延長に、自分のような人間がいるのか。では自分も過去、こんなに眩しかったのだろうか』と過去の自分を重ね合わせるジビキ。自分の一番古い記憶は何なのか?時々そんなことを考えることがあります。この作品の主人公・こっこと同じ年代に自分は何を思い、何を考えていたのか?今となっては、はっきりしたことは思い出せません。しかし、一つ言えるのは、そんな時代の自分も こっこと同じように日々、刻々、新しい”言葉”に出会い、それを経験とともに身につけていく、そういったことの繰り返しをしてきたということです。そして、今の自分は間違いなくその延長線上にいる存在だということ。あの時代、その時代は誰にでも一度きりのものです。そんな時代をとうに過ぎ去った人間から見ると、眩しい時代を過ごす彼らと過去の自身を重ね合わせるのは難しいかもしれません。しかし、そんな大人にも同じような時代は、確かにあった、だからこそ、そんな彼らを眩しいと、今、感じることができるのではないか、そんな風に感じました。

『こっこの前で、円卓がくるくると回る。麻婆春雨茄子豆腐も、残りわずか。なんたる健やかで、デリカシーのない食べ物であろうか』という渦原家の幸せそうな団欒の場が繰り返し登場するこの作品。それを『大家族の幸せそのものではないか。なにがおもろいねん』と冷めて見つめる こっこの日常が描かれるこの作品。それは『新しい単語に、皆また夢中になる』と日々、刻々、新しい言葉を身につけていく、そんな今を生きる こっこの成長を垣間見るものでした。

活き活きとした”こてこての大阪弁”の魅力と、それを使う個性あふれる登場人物の魅力、そしてその中で少しづつ成長を見せていく こっこの魅力をたっぷり感じさせてくれるこの作品。これぞまさしく西加奈子ワールド!、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 西加奈子さん
感想投稿日 : 2021年2月27日
読了日 : 2020年12月12日
本棚登録日 : 2021年2月27日

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