うつくしが丘の不幸の家

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  • 東京創元社 (2019年11月20日発売)
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あなたは、引っ越した先で

 『ここが「不幸の家」って呼ばれているのを知っていて買われたの?』

と、通りすがりの人に言われたとしたらどう感じるでしょうか?

引っ越しとは何か目的があって行うものです。結婚したので、会社の転勤の都合で、そして、お店を始めるため等々、人によってその理由は様々です。そして、『結婚式の費用も、全部使った』というように、その費用も馬鹿になりません。当然に慎重に下調べもするでしょう。それにも関わらず、引っ越した後で、その家が『不幸の家』と呼ばれているなんて知った暁には目も当てられません。しかし、よくよく考えると、この考え方にはおかしなところがあります。目も当てられないと感じたあなたは『不幸』という言葉に引っかかりを感じてそのような感情を抱いたのだと思います。ただ、そもそも『不幸』とは何なのでしょうか?私たちは、それぞれに感情を持った生き物・人間です。その感情は決して一様ではありません。ある人が『不幸』だと感じている状況が、必ずしも万人にとって『不幸』とは言い切れない、そんなことはよくあることです。そして、『不幸』の対になる言葉は『しあわせ』です。つまり、『しあわせ』というものにも絶対的なものなどなく、人によって感じるところは異なるとも言えると思います。

さて、ここに、引っ越した先が『不幸の家』と呼ばれていたことを知ったという女性が主人公となる物語があります。その物語は、そんな女性が暮らす家に、かつて同じように暮らしていた人たちの日常を遡る物語。そんな家で暮らした人たちが、『わたしは、しあわせになれるのだろうか』と思い悩んでいた様を見る物語。そして、それは私たちそれぞれが、自分にとっての『しあわせ』とは何かを考えることになる物語です。

『わたしのしあわせは、いつだって誰かにミソをつけられる』と、『泣き出しそうになるのを堪え』るのは、最初の短編の主人公・美保里。『二日後にオープンを控えた「髪工房つむぐ」』のチェアに腰をかけ今朝かかってきた電話のことを思い出します。『あれじゃ使い物にならない。今日は予約が多くて店を閉めるわけにはいかないんだ』と言うのは義父の勇一。『義弟の嫁が夫婦喧嘩の末に家を出て行』き、争いの中で『義弟は右手の甲を骨折した』という展開。『今すぐ手伝いに来い』と横柄な態度の勇一に、『今回だけ』と言って出かけた夫の譲を『馬鹿じゃないの』と思う美保里。そんな譲は『一人前になったら店を譲るという父の言葉を信じ』て、『理容学校を卒業して十年』『実家の理容店で働』いていました。しかし、突然『弟の衛に店を継がせると言いだした』勇一。同じく理容学校を卒業したものの『何年も行方知れずだった』衛が『女を孕ませて帰ってきた』のを『お前は本当に、親がいないと何にもできないな』と迎え入れ『あっさりと譲を追い出』した勇一。そして、『退職金はおろか労いの言葉ひとつ』もらわず実家を後にした譲。そして、『付き合いは八年に及ぶ』という美保里は、『譲のため、ひいてはふたりのしあわせのため』と思い、『二十四歳で美容学校』に遅くして入学し免許を取得しました。そして、『ここは自分にとって夢としあわせの象徴だった』と思っていた家の中を見据えます。『築二十五年の三階建て一軒家を買って、リフォームした』という店舗兼自宅は、『「うつくしが丘」と呼ばれる住宅地』にありました。『二十五年ほど前』に、『新興住宅地として開発された』その地域は、『どういうわけか理美容室がとても少な』い状況であることから選んだという美保里。そして、そんな家の裏庭にある『枇杷の木は縁起が悪い』から切りましょうかと、リフォーム業者に言われたことを思い出す美保里。そんな美保里はふと思い立ち『あの木を切らなければいけない』と『大きなノコギリ』を買ってきました。しかし、『ノコギリは重たいし、枝はなかなか切れない』と作業は捗りません。一方で、『通りがかった女性に言われた』言葉を思い出す美保里。『ここが「不幸の家」って呼ばれているのを知っていて買われたの?』というその言葉。そんな時『あらあら、枝を切ってらっしゃるの?』と声をかけられて驚く美保里。『隣家の庭先で小さな老女が美保理を見上げていた』というきっかけのその先に、『しあわせなんて人から貰ったり人から汚されたりするものじゃないわよ』という話を聞いて『しあわせ』とは何かを考えていく美保里の物語が始まりました…という最初の短編〈おわりの家〉。物語の冒頭から一気に作品世界に没入させてくれる絶品でした。

五つの短編と〈エピローグ〉から構成されたこの作品。町田さんお得意の連作短編の形式をとっています。その共通項は、物語の舞台となる『うつくしが丘』という新興住宅街にある『三階建ての真っ白な壁の家』です。そんな家は、最初の短編〈おわりの家〉では、『築二十五年の三階建て一軒家』、『どうしてもデザインの古さや劣化は否めない』と紹介されますが、二編目の〈ままごとの家〉では、『築十九年の家は多少古さが目立つけれど、部屋数が多く』、『中古物件とはいえ値段が高く』と章を追うごとに過去に遡っていきます。そうです。この作品はこの家が建ってから25年後の今の住人で理容室を営む譲と美保里の日常が描かれる一編目から、短編を読み進めるたびに、築後19年、11年、6年、という時点の住人たちの日常、そして、最後の短編〈しあわせの家〉では、新築物件で購入した住人の日常が描かれるというように、現代から過去へと遡りながら物語は進んでいきます。同じように過去へと遡る形式の作品で私が読んだものには、桜木紫乃さん「ホテルローヤル」と、青山美智子さん「鎌倉うずまき案内所」があります。いずれも絶品であり、私の中に強く印象に残り続ける傑作です。私たちは当然に、過去から未来に向かう時間軸の中で生きています。結婚して、子供ができて、その子供が学校時代を経て大人になって、就職して、結婚して、子供が産まれて…と単純化するとそんな人の一生というものがあります。今、私が書いたように時間軸に沿って物事を説明するのは容易です。しかし、これを、逆に説明するとなるとそう簡単にはいきません。そして、それを小説として書き上げるには高度な技術力が必要となります。結末が最初に分かっている小説を読む人なんていませんし、小説を読む醍醐味となる”伏線”にしても時間軸が過去から現在に向かっているが故に成り立つものでもあります。それを、逆行させるには緻密な計算が必要になってきます。この町田さんの作品では、桜木さんの「ホテルローヤル」同様に、一つの建物を共通項として現在から過去へと時間軸を遡らせる方法をとっています。桜木さんの作品では、「ホテルローヤル」は築年数を経て廃墟の状態から過去へと遡りました。この町田さんの作品でも『築二十五年』と古くなって、そこかしこに痛みの目立つ家の状態が最初に描かれます。そして、この古くなる、傷むという点を町田さんは逆手に取られます。私たちは日常生活を送る中で、家に予期せぬ傷をつけてしまったということがあります。結果論としてそれを知っている私たちは、その原因もわかります。しかし、原因を知らない他人が見れば、その傷に色んな類推をしてしまうことだって起こり得ます。この作品では、そんな原因不明の結果論がまず提示されて、後の短編でそのまさかの原因が明かされるという、”逆伏線”が緻密に張り巡らせられています。これが読者に”ページをめくる手が止まらなくなる”という読書を提供してくれます。本当はネタバレ扱いにしてその分析を細かく書きたいくらいに見事な”逆伏線”の数々が張られたこの作品。これから読まれる方には、是非この”逆伏線”を知らない状態でその味わいを堪能いただきたいと思います。そのためには、一編目から建物に対する一見何気ない描写についてもしっかり頭に入れながら読み進めていくことをお勧めします。

さて、そんな技術的に非常に面白い試みをされているこの作品は、なんと言っても町田そのこさんの作品です。代表作でもある「52ヘルツのクジラたち」で、『声なき声』に光を当てるなど、人の心の奥深くの繊細な部分をあたたかい視点で描き出す作風は魅力たっぷりです。そんな町田さんがこの作品でテーマとされたのは、『わたしは、しあわせになれるのだろうか』という主人公たちの心の叫びでした。書名にもある通り、五つの短編で舞台となるのは、時が変わっても『うつくしが丘』に建つ三階建の家です。最初の短編の主人公・美保里は、通りがかりの人から、『ここが「不幸の家」って呼ばれているのを知っていて買われたの?』という衝撃的な問いかけを受けました。あなたが引っ越したばかりの家について、その家が『不幸の家』などと呼ばれていると知ったとしたらどう思うでしょうか?そんな言葉を笑い飛ばせる強い精神力がなければ、それからの日々は恐らく日常生活の中で起こる不運な出来事に全て結びつけていく毎日にも繋がりかねません。しかし、私たちは何をもってしあわせなのか、そうでないのかを区分けするのでしょうか?この作品に登場する五つの短編の主人公たちは、それぞれに何かしらの試練に立たされていました。〈ままごとの家〉の主人公・多賀子は、息子の『遅れてやって来た反抗期』に悩む中、夫に寄り添い『穏やかに微笑』んでいる女性が写ったまさかの写真を見せられ思い悩みます。〈夢喰いの家〉の主人公・忠清は、『男性不妊』という現実を前に『子どもさえ授かれば、苦労も思い出に変わるのかもしれない』という厳しい日々に『幸せのしっぺ返しが』きたと感じています。

では、『しあわせ』とはなんなのでしょうか?どうすれば私たちは『しあわせ』になれるのでしょうか?私たちは思った以上にその言葉を心の中に思い浮かべることがあるように思います。特にそれは、自分自身がそうでないと思う場面、つまり今が『不幸』であると感じている時ほど、『しあわせ』になりたいとその言葉が登場する機会が増えます。逆に言えば、その言葉が登場しない時こそが『しあわせ』を実感している時、そんな風にも考えることができると思います。この作品では、書名の『不幸』と対になるかのように『しあわせ』という言葉が数多く登場し、その中で数多くの問いかけがなされていきます。

まずは、『しあわせ』とはどのように手に入れるのか、という視点からこんな表現が登場します。

『しあわせなんて人から貰ったり人から汚されたりするものじゃないわよ。自分で作りあげたものを壊すのも汚すのも、いつだって自分にしかできないの』。

と、隣家の老女が『しあわせ』とは何なのかを説くこの言葉にはハッとさせられるものがあります。そう、私たちは自分が”しあわせ”と感じているかどうかはわかりますが、自分以外の人間、それは身近な人であってもその人が本当はどう感じているのかを知る術がありません。『しあわせ』というものは、あくまで自分が感じる思いの一つである、そのことを強く感じさせる一節です。また、こんな視点もあります。

『今は不幸の中にいるのではない。しあわせになるための途中に過ぎないのだ』。

『しあわせ』というものが自分自身にしか知り得ないものであるなら、今自分自身が置かれている状態が『しあわせ』なのか、そうでないのかは自分の気持ち次第だとも言えます。

『悩みなんて、見方を変えればしあわせに変わる』。

とも書く町田さん。そう、私たちは、どんな時だって何かしらの『しあわせ』を感じられる状況にいて、それはあくまで見方次第であるということ。そうであるなら、自分を『しあわせ』にできるのは、もしくは自分が『しあわせ』だと思えるかどうかは全て自分次第とも言えるのかもしれません。最初から最後まで『しあわせ』について読者に問いかけ続けるこの作品。これからこの作品を読まれる方は、読む前と読んだ後で『しあわせ』というものに対する捉え方がきっと変化するのではないかと思います。

襲い来る試練を乗り越えて、次の人生へと向かって力強い一歩を踏み出していく五つの短編の主人公たち。思い悩んだ分だけ、清々しさの残る、それでいて確かな一歩を歩んでいく主人公たちの姿。人は長い人生を生きていると『わたしの人生、どこで間違ったんだろうなあ』と思う瞬間も必ず訪れます。”人生、山あり谷あり”と言うように、私たちの人生は起伏に満ちているものでもあります。そして、谷にいる時ほど、山の上にいる時の『しあわせ』を逆に強く感じることもあるのだと思います。しかし、それは私たちが『しあわせ』を意識する生き物であるが故のある意味での試練でもあります。そう、そんな風に『しあわせ』とは何かを考えさせてくれるこの作品。最後まで読んだ読者へのご褒美のごとく用意された〈エピローグ〉が爽やかな余韻を残すこの作品。町田さんの高い構成力に裏打ちされた緻密な物語の土台の上に、繊細な人の心の機微を見事までに描き上げた傑作だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 町田そのこさん
感想投稿日 : 2021年10月27日
読了日 : 2021年10月2日
本棚登録日 : 2021年10月27日

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