パンとスープとネコ日和 (ハルキ文庫 む 2-4)

著者 :
  • 角川春樹事務所 (2013年7月13日発売)
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あなたは、イヌとネコのどちらが好きですか?

はい、これはよくある質問ですね。イヌ派とネコ派と呼ばれるくらいにどちらが好きかはハッキリ分かれると思います。2021年の統計では、イヌの飼育頭数が約710万頭に対して、ネコは894万頭と、なんとネコの方が多く飼育されているというのがこの国の現状のようです。この数には予想外という方もいらっしゃるかもしれませんが、基本、家の中からあまり出ることのないネコが実はたくさん愛でられている現実があることを改めて思い知らせてもくれます。

私はイヌもネコも飼育したことはありませんが、それらが嫌いというわけではありません。人から聞く飼育の様子、『抱っこして体を撫でてやると、素直に体をあずけて、「くおおお、くおおお」とうれしそうに小さな声で鳴く』といった人と動物との間に交わされる心の有り様に微笑ましい感情を抱きもします。愛し、愛されるという感情は生物の種の垣根を超えていくものである、そんな風にも思います。

さてここに、主人公が食堂を『開店した直後、店の横の隙間にうずくまっていた』というネコを『招きネコ』だと思う中に飼育を始めた主人公の日常を描いた物語があります。『素材の味のみで勝負』する主人公の料理への思いにハッとさせられるこの作品。全編に渡るネコの描写にネコ好きには至福の時間を味わえるこの作品。そしてそれは、『五十三歳のアキコの身内は、三歳のたろしかいない』という主人公の日常をほっこりと描く物語です。

『お父さんは、お坊さんだよ』、『あっちにはちゃんと奥さんがいたからね』と中学の『入学式の直後に』母親のカヨの説明に驚くのは主人公のアキコ。『そのときの母は三十三歳』にして『父は六十三歳。立派なじいさんではないか』とその年齢差を聞いてさらに驚きます。そんなカヨに『お父さんって、生きてるの?』と訊くアキコに『二年前に心臓発作で亡くなったんだって。お母さんも知らなかったんだよね』と母は涙を拭きます。『自分の名前をつけた「お食事処 カヨ」という食堂を経営』するカヨから、『いつ帰ったか知りたいから』と『店の入り口から出入り』するようアキコは指示を受けていますが、『昼も夜も入り浸』る『酒が入った常連のおじさんたち』に囲まれ『左手に煙草を持ったまま、母が酒を飲んではしゃぐ姿を見るの』が大嫌いでした。そんな母の姿は『アキコが大学生になっても』変わらないどころか、今度は『ボーイフレンドについても、ものすごくうるさくな』ります。『自分に男の子を会わせてから、デートに行け』と言う母と喧嘩するようになったアキコは、『母のいうなりにはならず、七時の門限も無視』するようになります。そして、出版社に就職したアキコは、『料理はね、何時間、何分っていう時間では測れないの』と語る『料理専門学校を経営している先生』と出会い料理本を担当します。『自分が試しに作ってみたのと、同じ材料を使っても、味に雲泥の差があるのにも驚』き、『本作りの面白さと同時に、料理の面白さにも惹かれてい』くアキコ。そんな『アキコが家で料理を作るのを、母は嫌が』ります。『味が濃すぎる』『母の食堂の料理は、家庭料理の延長ではないか』と思う『アキコの舌には』母の料理は次第に合わなくなっていきました。一方で、『あっという間に四十五歳になっていた』というある日、『会社で仕事をしていたアキコは』母が倒れたとの連絡を受け病院に駆けつけるもそのまま亡くなってしまいます。そんな母の遺品の整理を進める中で『お父さんよりアキコへ』という通帳を見つけたアキコは、『父から渡された通帳を、母が引き継いで残高を増やしてくれたのだろう』と『まじまじと眺め』ます。一方で、『食堂は閉めたまま』になっていることが気がかりでもあるアキコは先生に相談しました。それに『あなたがやればいいじゃないの』、『あなたはセンスがあるし、食べ物の大切さをわかってくれる人だと思うの』と語る先生の言葉に、『お世辞でいってくれたのだろうけれど、自分にはできそうにない』と思うアキコ。そんな半年後、人事異動で『なんと経理部に異動に』なってしまったアキコは、『再び編集部に戻れるチャンスは皆無』だと認識する中に退職を決意します。そして、『私は私のやりたい店をやるだけなのだ』と決意し、自分の店を開く準備をスタートします。そして、『すっきりとシンプルにというアキコの要望』通りに出来上がった食堂で働くアキコと、二階で飼う『グレーのキジトラ柄のネコ』『たろ』との日常が穏やかに描かれていきます。

“唯一の身内である母を突然亡くしたアキコは、長年勤めていた出版社を辞め、母親がやっていた食堂を改装し再オープンさせた…安心できる食材で手間ひまをかける。それがアキコのこだわりだ。そんな彼女の元に、ネコのたろがやって来た ー 。泣いたり笑ったり…アキコの愛おしい日々を描く傑作長編”という内容紹介が、如何にもほっこりとした物語を予想させるこの作品。そんな内容紹介通りの穏やかな物語が展開していきます。

作者の群ようこさんと言えば映画化もされた代表作「かもめ食堂」が有名です。「かもめ食堂」は、フィンランドを舞台とした物語なのに対して、この作品の舞台は『狭い店舗が建ち並ぶ商店街』というだけで場所こそはっきりしませんが、間違いなく国内の下町っぽい場所です。とは言え、それまで会社員だった一人の女性がゼロから食堂を開いていくという展開が共通することもあって、どことなく「かもめ食堂」の雰囲気感に近いものも感じます。一方でこの作品ならではの色合いを出す存在があります。それこそが「パンとスープとネコ日和」という書名にも登場し、表紙にもその四分の一ほどの大きさをもって描かれているネコです。『グレーのキジトラ柄のネコ』は名前が『たろ』であることが冒頭に紹介されるなど間違いなくこの作品の準主役といって良いほどの存在感をもって登場します。このレビューを読んでくださっている方の中にもネコが好きという方は多々いらっしゃると思います。小説家さんの中にもネコがお好きな方は多々いらっしゃいます。そして、ネコを最前面に出された小説群もあります。すぐに思い浮かぶのは有川ひろさん「旅猫レポート」でしょうか?ネコ視点の描写も登場し、ネコ自身も活躍を見せる同作に対して、この群さんの作品は、ネコの可愛さに”でれでれ”な主人公が描かれるという違いがあります。ネコ好きな方には、そんなネコの描写を読むだけで幸せになれるのではないか?それくらいネコを愛でる表現に満ち溢れています。二つほどご紹介しておきましょう。まずは、アキコがこれから出かけようという場面です。

・『忙しい朝、たろはアキコに甘えたい気持ちをぐっと抑えているように見える』という『たろ』が『ぶつぶつと文句をいいながら、室内をぐるぐると回っている』様を見るアキコ
→ 『抱っこして体を撫でてやると、素直に体をあずけて、「くおおお、くおおお」とうれしそうに小さな声で鳴く。しばらくすると自分から、たっと床に飛び降り、アキコの顔を見上げて、「にゃあ」と鳴く』
→ 『アキコにはそれが、たろが、「もういいから、いってらっしゃい」といっているように思える。たろも我慢してくれているのだ』
→ 『そんなたろがとてもいじらしくなって、アキコは、部屋に戻ると、「たろちゃーん」といいながら、頰ずりをする』

仕事もあれば学校もあるという私たちの日常においては、愛でる存在であるネコと離れ離れになることは避けられません。そんなネコとの感情の交流を見る一コマです。どうでしょう。ネコ好きなあなたにはたまらない描写ではないでしょうか?次は、『掃除機をかける』という場面です。

・『掃除機の音が大嫌いなたろは、掃除機を出したとたんに、ぴゅーっとすっとんでいき、室内でいちばん安心できる、クローゼットの奥の奥に避難した』
→ 『「ちょっと我慢しててね」と声をかけた』アキコに、『「にい~」たろは情けない小さな声で返事をして、横を向』きます
→ 『掃除機をかけ終わると雑巾で床を拭いた。音がしなくなったので、たろが出てきて』、『「わああ、わああ」と何やら訴えはじめ』ます。『お掃除をしてるからね。これが終わったら遊ぼうね』と言う『アキコの手元をじーっと見』る『たろ』は、『ぱっと雑巾にとびつ』きます。
→ 『こら、邪魔しないの』とアキコが言うも『尻尾をぱたぱた振って』『雑巾を両手でしっかりと押さえ』ています。それに『しょうがないわねえ』と『先に毛皮のついたネコじゃらしを出して』、『たろをじゃれさせながら、拭き掃除をするはめになった』アキコ

アキコと『たろ』のなんとも微笑ましい場面です。掃除をしたいアキコと遊んで欲しい『たろ』。そんな『たろ』を叱らないで『たろ』との時間も大切にするアキコの幸せそうな顔が目に浮かびます。とは言え、私はネコを飼ったことがないのでその本当の喜びは残念ながらわかりません。恐らくこれは読み味にも響いてくるのだとも思います。そういう意味でも”ネコ好き!”な方には是非ともお勧めしたい作品だと改めて思います。そして、ネタバレになるので書くことは控えますが物語後半に向かってアキコが『たろ』のことを深く思う展開が繰り広げられていきます。この辺りネコ好きな方には深く感情移入ができる物語だと思います。一方で”ネコ嫌い!”の方にはページを捲ることさえ嫌になるのではないか、それくらいにネコの描写に満ち溢れた作品だという言い方でもお伝えしておきたいと思います。

さて、そんなこの作品のもう一つの読みどころが、主人公アキコが営みを始めた食堂です。母が経営していた酒と煙草の匂いに満ち溢れた『お食事処 カヨ』。そんな店にアキコはこんな思いを抱いています。

『私は、母のあの茶の間のような店を受け継ぎたくはなかったんです』

そして、『すっきりとシンプルに』という方針のもとに店を作っていくアキコは、『食器も乳白色や淡いベージュに揃えて、生花以外の無駄な飾りは一切なし』と店のイメージを作り上げいきます。そんなお店のメニューをアキコは以下のように決めます。

『お食事 千円(税込み) ◎サンドイッチ、スープ、サラダ、小さなフルーツ(パンは全粒粉か天然酵母。二種類から選べます)』

アキコは、店の準備が進むにつれてこんな思いも抱いていきます。

『人が口にするものを作るのは、大変な責任がある。それを考えると、自分などがそのような仕事に手を出していいのかという、怖れもわいてきた』。

この作品では店を開店させるまでの日々にも十分なページ数を割いた物語展開がなされていきます。私はお店を持ったことはありませんが、そんな私にもお店を持つ、食べ物を提供する店を持つということの意味合いがひしひしと伝わってきます。書名前半の『パンとスープ』という部分に深い読み味を感じさせてくれるこの作品。この辺りはネコにはあまり興味がないという方にも十分楽しめる物語になっていると思います。

そんな物語は、母親が死んでしまったことで、この世に一人ぼっちになってしまった五十代を生きるアキコという一人の女性が人生を諦観する物語としての魅力も秘めています。

『アキコは父の顔を知らない』。

という中に母親に育てられてきたアキコ。ある日突然に、『お父さんは、お坊さんだよ』と母親に言われたものの、唯一の写真も『引っ越しのときにゴミにまぎれれ捨てちゃったようだ』いう説明に納得できるようなできないようなモヤモヤとした思いを抱いていくアキコは、物語後半になってそんな父親への興味も抱いていきます。上記した『たろ』への深い思いが描かれていく物語後半には、この父親への想いを描く部分、そしてもう一つ物語の根幹に触れていく部分がしっとりと描かれてもいきます。それこそがアキコのこんな想いに集約されるものです。

『いったい自分はどういう店を作りたかったのだろうか』。

母親への反発もあって『茶の間のような店』の対極にあるような店作りを心がけてきたアキコ。しかし、店の客層の偏りに気づくようになったアキコ。

『あんなに毎日がただ同じことの繰り返しと呆れていた母の店のほうが、自分の店よりも客層が豊かなのだった』。

そんな現状に動揺もするアキコ。そんなアキコにさまざまな迷いも生じます。しかし、

『いちばん大事なのは、自分がぶれないこと』。

そんな言葉を改めて噛み締める中にアキコは、迷いを振り切ってもいきます。とは言え、物語が深刻になりすぎることはなく、あくまでも「パンとスープとネコ日和」という書名のほっこり感が失われることはありません。そして、そんな物語の結末には、その先へと当たり前のように続いていく日常を思わせながら穏やかに結ばれる物語の姿がありました。

『お腹がふくれて目が半開きになった、たろを抱っこして、ぼんやりするのが、アキコの至福の時間なのである』。

『アキコは父の顔を知らない』という先に、『たった一人の身内だった母』も亡くし、『三歳のたろ』と暮らしつつ、『すっきりとシンプル』にこだわる食堂を切り盛りしていく主人公・アキコの日常が描かれたこの作品。そこには、「パンとスープとネコ日和」という書名そのもののほっこりとした世界観に包まれた物語が描かれていました。『素材の味で十分』と繰り返し語られる物語の中に、料理に対する見方が変わるのを感じるこの作品。そんな料理を提供する食堂にもう一人の店員として働く しまちゃんの存在にも魅せられるこの作品。

日常を丁寧に描写していく群さんの一貫した筆致に、どこまでもほっこりとした気持ちにさせてくれる、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 群ようこさん
感想投稿日 : 2023年12月18日
読了日 : 2023年8月22日
本棚登録日 : 2023年12月18日

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