私はなぜイスラーム教徒になったのか

著者 :
  • 太田出版 (2015年5月19日発売)
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国とは? 西洋から来た領域国民国家システム
自由とは?
法律とは?いろんなことを疑い、根本や本質を問うきっかけになった。

イスラームの心の救いや、癒しを目的とはせず、それらは、不随してくることではあるが、本質的なことではない。根本的に重要なのは、生活のすべてを神に従って生きるということ、イスラームとは、人間側の態度を表している。

中田さん曰く、非ムスリムとムスリムでイスラームを勉強すること、イスラームについて知ることと、ムスリムに「なる」こととの間には途方もない違いがある。
アッラーにとって、この世が存在しようが、しまいが、たかが一被造物にすぎない人間がどうなろうと一向にかまわない。しかし、万物が存在しているというのは、アッラーが慈悲をかけてくれたからである、とイスラームでは考える。存在しているとは、それだけでアッラーに慈悲をかけられている。逆に言えば、存在するものは、動物にせよ、植物にせよ、存在することによって、アッラーを賛美している。これがイスラームの基本的世界観。(よく意味が分からない、、、、)
 

原理主義とはイスラームの根本であるクルアーンとハディースの根本的なところを忠実に大事にするという態度。
中田さん曰く、しょうゆの微量のアルコールや、形式にこだわるのは、個人の裁量でやればよいし、そんな厳密にこだわることは重要ではない。

自由について
現実的にみても、人間が生きる上で必ず制約は存在する。心臓は、自由に止められないし、関節をどの方向にも自由に動かせるわけではない。こうした物理的制約の上に、社会的、経済的、政治的、法的など、様々な制約がある。
自由とは、ドーナツの穴のようです。ドーナツ本体は法あるいは制約を表し、それがないところを自由と呼んでいる。存在するのはドーナツであって、穴が存在しているわけではない。
「この国には自由がある」「この国には自由がない」といういい方には意味がない。自由がある、ないの問題ではなく。国によってドーナツの形が違うというだけのこと。この国では、穴にあたる部分が、ほかの国ではドーナツで占められている。その国に自由がないのではなく、制約の範囲がちがうだけ。

西洋的な意味での、自由という穴の範囲が普遍的である、とする考え方をほかの価値観を持った人たちにも押し付けることによって、問題が生じている。


あるものはどんどん回せ!という考え方は気に入った。

人の内心に干渉しない。イスラームでは人の内心を知るのは神だけ。クルアーンにも詮索してはならないと書いてある。内心の自由は尊重される。

中田さん曰く、日本の神はイスラーム的にイラーハではない。どちらかというと、ジンに近い存在と考えたほうがいい。なのでイスラーム的には、否定の対象にはならない。

自分がどの枠組みから世界を見ているのかを、何かを学ぶ上で、しっかり認識する必要がある。イスラームを学ぶ上で、もし西洋的視点から見ていたら、先入観や偏見が混じって、イスラームの本質、核を見出すことができない。
総じて、イスラームだけでなく、すべての学問や情報を見、考えるときにおいて、自分がどの立場から、どの世界観、価値観、枠組みから、その物事を認識しているか、理解しているかを、顧みることが大切。顧みることで、それらの対象に対して先入観なしに、純粋な状態、本質的な状態から物事をを見れたら良いと思った。

中田さん曰く、イスラーム学はイスラームを知るため学問ではない。イスラームは自分を知る学問。テキストに接することで、どれだけ自分と違うものを見出しうるか、それを知るのがイスラーム学の意味。
だから、イスラームがつまらないとしたら、イスラームがつまらないのではなくて、それを書いているイスラーム学者の中身がつまらないんだそうw

自分と異なるものを学問において見出すことによって、自分の文化、価値観、認識の枠組みを認識、そして、また見方を変える、また異なるものを見出す、、、その繰り返しによって、新たな見方、世界観が、きっと自分の中に現れてくるんだと思う。その過程の中で、自分の物事の認識の仕方や、思考回路、癖、文化や価値観を深く知り、自分のことをよく知ることができるようになるんだと思う。

ハディースに「自分を知る者は神を知る」という一節がある。神を知ることと、自分を知ることは一つ。(意味がわからない、、、)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年8月22日
読了日 : 2022年7月14日
本棚登録日 : 2022年7月13日

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