経覚・尋尊という奈良 興福寺の僧侶の眼を通しての、新しい「応仁の乱」像。
経覚の父は関白・九条経教、母は浄土真宗大谷本願寺の出身。尋尊の父は関白左大臣一条兼良、母は中御門宣俊の娘と言う、所謂良家の出家者。当時はこのように公卿からの出家者は、大きなお寺の今で言う貫主の地位につけたようだ。
さて新しい視点の「応仁の乱」と言っても、高校の授業で、恐らく教科書の数行程度の記述でしかなかったと思われ、自分にとっては新しいも古いもなく、そのまま素直に読解することを心がけた。
この時代、敵になったと思ったら寝返ったり、親子・兄弟の間でも敵味方になったりと、実にややこしい。で、なかなか読み進めることが出来ない。
自分にとっての発見は、この時代、新しい文化が武家の経済的支援によって花開いていったということ。
15世紀後半以降、在国するようになった守護・守護代は、国元に立派な館を築いている。
実際守護館(守護所)の遺跡は発掘調査によって全国各地で見つかっているが、そのほとんどが平地の、一辺が150~200mほどの方形館で、その敷地内には連歌や茶の湯を行う建物「会所」があった。主殿・常御殿・遠侍などの配置も判で押したようである。主家斯波氏に対する「下剋上」を果たした朝倉氏の居城として知られる越前一乗谷の朝倉氏館も例外ではなく、地域的な特色・個性は見られない。こうした守護館の構造は、「花の御所」(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだったらしい。
山ロも周防守護の大内氏によって、京都をモデルにした地方都市として整備された。しばしば「小京都」と呼ばれるこの都市の原型は、大内氏が抱いた京都文化への憧れによって生み出されたのであるとのこと。
一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。
と言うことだ。
京都のほとんどが焼けただけではなく、新しい芽が外に伝播して行ったのね。
- 感想投稿日 : 2024年2月28日
- 読了日 : 2024年2月28日
- 本棚登録日 : 2024年2月28日
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