海と毒薬 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1960年7月15日発売)
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太平洋戦争末期、九州大学附属病院で行われた米軍捕虜の生体解剖事件をモチーフに、異常な環境における人間の本性について描いた作品。

本書の元となっているのは、九州大学医学部で1945年5月から6月にかけて8人の米軍捕虜に対し治療の必要のない臓器の切除、全摘を行うなどの生体実験を行った事件である。戦後戦犯裁判が行われ、首謀者とされた5名は死刑(その後再審査で減刑)を宣告された。

著者の遠藤周作氏は、この事件を知った当時、大きな衝撃を受けただろうと想像する。しかし彼は、事件の元凶を戦争だけに求めるのではなく、心の奥底にあるさまざまな感情を描くことで、人間の本性を掘り下げようとしているように感じる。

本書では、生体実験に関わった医局研究生の勝呂と戸田、看護婦の上田の視点を中心に描かれる。
勝呂は患者思いの医者だったが、医局の政治的な駆け引きに振り回され、思い入れのある最初の患者「おばはん」が死んでしまったのを機に、成り行きに任せて生体解剖に参加することを了承してしまう。

上田は、結婚し病院をやめるも、待望の子どもが死産してしまい、子を産めない体となった。長年浮気していた夫に捨てられ、再び大学付属病院に戻ったが、「おやじ」と呼ばれる第一外科のトップ、橋本教授の夫人であるヒルダから、医者の指示どおり患者を安楽死させようとしたことをとがめられ、停職となる。彼女が次に病院に呼ばれたのは、生体解剖の手術補助であった。

戸田は、子どものころから社会的に認められることを第一とし、そのためには他人を踏みにじることもいとわないドライな性格として描かれる。上司が危険な手術をしようとしていることを知りつつ、ある意味客観的に自分の気持ちを分析しながらそれを受け入れる。

舞台となる病院のそばには海があり、三人はしばしば黒いうねりと海鳴りを感じる。
それは非常に象徴的で、勝呂にとっては権力や運命といった抗えない力として、上田にとっては自分の中の黒い嫉妬とやり場のない怒りとして、戸田にとっては自分に対する神の罰として描かれているように感じた。

戦争という異常事態がなければ彼らは非道な手術に関わることはなかったのだろうが、果たして彼らが手術への参加に至った心情は戦争だけに起因するものであったのだろうか。
今、かろうじて平和に暮らしている現代の私たちは、彼らのような行動をとることは本当にないのだろうか。
人間の弱さ、恐ろしさを改めて考えさせられる小説である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本の現代小説
感想投稿日 : 2023年8月9日
読了日 : 2022年8月28日
本棚登録日 : 2023年8月9日

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