三陸海岸大津波 (文春文庫)

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  • 文藝春秋 (2004年3月12日発売)
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明治29年、昭和8年、昭和35年の津波についての、残された資料の解読や体験者への聴き取りによる、津波前後の状況や被害の実態などの記録。

2011年の東日本大震災を含めると、平均して30年から50年間隔で大津波が起きていることになる。
初版は1970年。明治29年(1896)の津波を体験した生存者はわずかで、この年の津波については主に残された資料や被害の様子を絵画で表した「風俗画報」からまとめられている。当時三陸海岸の各村は交通網が未整備で救援が遅れたため、被災者の飢餓状態はひどかった。決して大げさな表現をしているわけではないが、その悲惨さは信じられないほどである。

昭和8年の津波は3月の夜明け前で、東北ではまだ気温が氷点下になるほどの寒い時期である。明治29年の津波を体験した者はかなりいたが、天候が晴れの日と冬には津波が来ない、という言い伝えが広く信じられていたため、地震の揺れを感じた後も再び布団に入り、逃げ遅れた者が大勢いたという。さらに津波から逃れても、氷点下の気温に濡れた体が耐えられず凍死するものも多かったようだ。当時の様子は地元の小学校が文集としてまとめており、幼い子供があるがままに記録した文章はリアリティがあって苦しくなる。

昭和35年の津波は、チリ沖で起こった地震の津波が時間をかけて到達したもので、日本列島に強い揺れが見られなかったため、気象庁も津波の警報の発信が遅れてしまった。津波がやってくるのを見た者は「海水がふくれ上って、のっこ、のっことやって来た」と表現しており、得体のしれない恐ろしさを感じる。

3度の津波は甚大な被害をもたらしたが、死者数、流失家屋数とも時代を経るごとに減少している。明治29年、昭和8年で最大の被害を受けた田老町は、被害防止のために、万里の長城にもなぞらえられるほどの大規模な防波堤や、高台へ避難する広い道路、避難設備などを整備し、定期的に避難訓練を行った結果、チリ沖地震の津波では死者も家屋被害もなかったという。
2011年の東日本大震災の際、田老町はどうだったのだろうと気になって調べてみたら、防波堤は一部が津波によって破壊され、166名が亡くなられていた。防波堤があるから、と避難せず自宅にとどまったり、いったん避難したものの再び引き返した方がいたとのことである。自然災害に万全の備えというものはないということを痛感する話であるが、それでも日ごろからの避難訓練が功を奏し、多くの住民の生命が救われた。

大きな恵みをもたらすと同時に、恐ろしいほどの力で多くのものを根こそぎ奪い取ってしまう海。日本という災害大国で暮らすためには、このような記録をきちんと残し、記憶に刻み付けて日ごろから備えていなければいけない、ということを改めて感じた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 災害
感想投稿日 : 2021年3月19日
読了日 : 2021年3月9日
本棚登録日 : 2021年3月9日

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