日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

著者 :
  • 岩波書店 (1981年8月16日発売)
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感想 : 59
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 「火」を読み始めた時はあまりピンと来なかったけれど、「笑われた子」はテーマが分かりやすく、「蝿」は評判通り衝撃的で、「御身」で横光先生の描く素朴な風景に魅力を感じ、「赤い着物」の展開に驚いて、「ナポレオンと田虫」のおかしみにクスッと笑い、「春は馬車に乗って」まで読んだところでこの世にこんなにも美しい文字の並びがあるものかと溜息をついて一晩悶えた。「花園の思想」は「春は〜」同様、横光先生の最初の妻の死をテーマにした話だけれど、より地に足がついて現実的に感じられる「春は〜」に対して、花園と肺病院にどこか天国のような雰囲気が感じられ、不思議な浮遊感がある。「機械」は改行も句読点も極端に少なくて読みづらいかと思えば意外にすらすらと読めるし、殴られているのに他人事のように語るのがぬるま湯に浸っているようで気持ち悪いが、その気持ち悪さが最高。「日輪」は卑弥呼の時代の話なのでとにかく見慣れない語彙が多くて、そういう意味で一番読みづらかったが、慣れてくると続きが気になって読み止められなかった。寝る前に少しと思って読み始め、読みと終わると明け方だった。卑弥呼の最後の台詞が実に見事だと思う。
 この一冊を読む間に、横光先生に関するエピソードを検索したり、論文をいくつか読んだりしたが、軽く背景を知るだけでも面白さが倍増する。横光先生の生い立ちや家族構成然り、横光先生の最初の妻であったキミさんのこと然り。「機械」に出てくる製造所の主人は菊池寛先生、屋敷という従業員は川端康成先生がモデルだと言われていることも、知っているとなるほどと思える箇所があり大変面白い。
 平成と令和を生きる私からしてみれば、舞台はほとんど全く知らない風景の連続であるはずなのに、まるで映像を見ているかのように情景が目に浮かんできた。字面が多少古くとも、内容はあまり古臭さを感じさせず、今でも瑞々しく生きているように思う。流石に「文学の神様」と呼ばれただけのことはある。巻末の保昌先生による「作品に即して」に書いてある菊池先生の「映画劇としての面白さは日本では、ちょっと類例のないもの」という評価は全く的を射ていると思う。
 また、川端先生がことあるごとに横光先生に関して言及した仏心や素朴さといったものも各所に滲み出ている。ただし、優しいだけでない、綺麗事ばかりではない部分も表現されているのが実に人間らしく、一たびそれを作品から感じ取ってしまったら、果たして横光先生のファンにならずにいられるものかと思う。当時横光先生を支持した若者たちもこういう気持ちだったのかもしれない。脳裏に映像を喚起させる美しく巧みな表現、類例のない新しいジャンルの先頭を走り続ける姿、尊敬に値する人格、その奥に見え隠れする激しさ……といったものへの信仰に近い気持ちだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: その他
感想投稿日 : 2020年5月21日
読了日 : 2020年5月21日
本棚登録日 : 2020年5月9日

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