守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y 215)

著者 :
  • 洋泉社 (2009年5月2日発売)
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感想 : 3

景勝以外の記述はだいたい従来の通説に則っている感。関ヶ原前後の毛利輝元の行動が光成準治研究に拠ってるところが目にとまるぐらい(決戦に目を注ぐのではなく、大阪城に入って以降、西国支配に意欲を燃やし始めた)。景虎との跡目争いを勝ち抜き(景勝の扱いは臣下の第一人者だったが、景虎は常に謙信のそばに置かれ優遇されていたのでは、という指摘)、信長による包囲網で滅亡寸前に追い込まれながらも本能寺の変で息を吹き返し。紆余曲折を経て、天正14年の上洛で秀吉に従属する一大名に。1598年、越後91万石から、会津92、佐渡14、出羽庄内14の計120万石となった(とあるが、以前は、越後、佐渡、信州川中島だったような。)。会津への移封は国人領主を束ねる立場から近世大名に脱皮する契機でもあった。神指城は、敵を迎え撃つ意識が弱い、領国経営の中心となる意識が感じられ、それを謀反と称されるのは片腹痛かっただろう、と。上杉家への侮辱は、謙信への侮辱、この屈辱を晴らすため、傷つけられた誇りを取り戻すため、家康相手に上杉家の存続をかけても戦わねばならなかった。この「誇り」がこの本を貫くキーワード。革籠原で大規模な一戦を想定したと言う「北の関ヶ原論」には疑義。景勝が兼続に「武名の衰運今においては驚くべきに非ず」と語り、幸福。戦後は「律儀」を評価され、将軍家の深い信頼を得るまでに。「偉大な謙信の正統な後継者として、景勝はその誇りのままに最後の最後まで戦人として戦い抜いてきた。そこには己の生き方を貫いたという満足はあっても、少しの後悔もなかったはずである」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2016年8月22日
読了日 : 2018年5月26日
本棚登録日 : 2016年8月22日

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