国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

  • 岩波書店 (1979年6月18日発売)
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感想 : 70
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下巻もサラッと読み終わる。翻訳は読みやすい。しかしきっと原著がまだるっこしい。
知的探索の方法としてプラトンが対話を選んだことには理解を示しつつ、それが上手く機能しているのか、というと、どうだろう。
1人に1つの役割、というプラトンの想定では、1人が自分の中で複数の意見を対立させる、ということが考えにくかったのか。
もしくは、自分の中で対話をするにも、その仮想の対話をシミュレーションするにはいくつかの人格を置く必要があり、自己のなかのそれぞれの立場にソクラテスやそれ以外の名をつけたのだろうか。
プラトンは実際には1人で本著を書いているわけだから、後者なのだろう。しかし、その前提になるのは前者、1人に1つの役割、という考えがあったのだろう。でなければ、自問自答でもこのように議論を進められるはずだ。

廣松渉の四肢的構造などを考えると、1人に1つの役割というプラトンの考え方がいかに素朴であるかは言うまでもないことだが、ではやはり完全に無視すべきか、というと、人にとってのアイデンティティは、究極にはやはり1つのものに結実する場合もあるだろう。特に男性はそうなりやすいのではないか。
女性は、よくいわれるように、女としての自分、母としての自分、妻としての自分と、いくつものペルソナを有することの自覚があると思う。男性は、割と、俺は俺だ、となりやすい。
これにはなんら裏付けはなく、個人的な感覚的な話だ。もちろん、今の社会では多くの場合、という程度の条件をつけての感覚だが。

というわけで、プラトンの考える方法が、まさにここで想定する「国家」の基本構造にもなっており、「正義」になっている。

大きな理想的な構造を個人が描くとそうならざるを得ないが、描かれるものは自然と自分の精神構造の相似形になる。

ホワイトヘッドが、「西洋哲学はすべてプラトンの注釈に過ぎない」というときには、(原文読んだことはない。引用で知ってるのみ。そのうち読む。)そういう、プラトンという1人の人間の相似形である構造が、そのまま1人の人間と人類一般との(西洋の)精神構造の相似形ともなるので、然るべくしてその注釈という形を持たざるを得なくなるのであろう。

逸れたが、本著でプラトンの言おうとしていることを把握するのは、この対話構造によって少しわかりにくくなる。対話のために必要な不要な文章が出てくるからだ。もちろん、それを不要とするかどうかは受取手の精神構造に由来するのであって、プラトンにしっかりそれを重ねることができる人には、必要なものなのだろう、が、僕はせっかちなのだ。「、、、っていう論理が成り立つと思うけど、どう?違う?」「いえ、まさしくその通りです」みたいなのは邪魔くさい。今日的合理主義なのだろうか、もう少し数論的に幾何学的に整えたくなる。でも、それがプラトンの論理方法なのだ。

で、それを気持ちよく整理してくれてるのがこの岩波文庫の解説等だ。すごくよくできてる。何が書いてあったのか、をまとめるには素晴らしい出来だと思う。
構造化してくれる。
まだるっこしかった気持ちをすっきり整理してくれた。

さて、次は、ティマイオスにいこうと思う。ティマイオスの始めが国家の一部要約のようなところから始まるのもいい。
プラトンを知るには国家は最適な主著のようだが、プラトンの与えた影響、新プラトン主義をみるには、国家よりもティマイオスなのだろう。哲学史で勉強する限りにおいては新プラトン主義のどの辺りが新プラトンなのかよくわからかかったけども、ティマイオスがそこをつないでくれると思ってる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2018年11月18日
読了日 : 2018年10月13日
本棚登録日 : 2018年11月18日

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