吉田秀和賞受賞作にして、「新書大賞」で年間第3位にランクインした本。ムック『新書大賞2010』での紹介を読んで手を伸ばしてみた。
そうでなければ、私が読むことはなかっただろう。著者はクラシック畑の音楽学者だし、本書で俎上に載る音楽の大部分もクラシックなのだから(一部ジャズについても言及あり)。「あー、クラシックの本ね。オレには関係ないや」とスルーしてしまっていたはずだ。
でも、読んでよかった。これは、クラシックの知識がないとわからない本ではないから。
どんなジャンルであれ、音楽が好きで、音楽について語ることも好きな人なら、著者が言わんとすることが理解できるはずだ。「クラシックの専門用語はわからないけど、これはロックで言えばこういうことだな」などという類推によって。
タイトルの印象から、「音楽なんて、好きなものを好きなように聴けばよいのだ。聴き方の作法などあってたまるか」と反発を覚える向きもあろう。たしかに本書は「音楽の聴き方」について多角的に論じたものではあるのだが、ある一つの聴き方を「正しい作法」として押しつける内容ではない。
著者は、「音楽の聴き方」のありようを問い直すことによって、音楽をより深く味わうための方途を真摯に模索しているのだ。町山智浩に『〈映画の見方〉がわかる本』という名著があるが、本書はいわば『音楽の聴き方がわかる本』であり、『音楽の聴き方が変わる本』でもある。音楽好きなら読んで損はない。
ただし、『あなたのミュージックライフを10倍充実させる法』みたいなお手軽な実用性は、微塵もない。むしろ、薫り高い文章とあふれる教養によって、この本自体が音楽のようにゆったり味わうべき内容になっている。
「音楽の聴き方」なんてテーマで、これほど豊かな内容の本が書けるとは、私には思いもよらなかった。
著者は「音楽の聴き方」「音楽の論じ方」の変遷を歴史の中にたどるとともに、古今の音楽論を自在に引用して、音楽を聴くことの意味を考察していく。そしてそのことを通じて、「音楽とは何か?」「芸術とは何か?」という、より深い次元の問いにまで迫っている。本書は、すこぶる独創的な芸術論でもあるのだ。
以上のように紹介すると、堅苦しい難解な本だと思われてしまうかもしれない。が、そうではない。興味深いエピソードを随所にちりばめて、愉しい知的読み物にもなっているのだ。
著者は、音楽をより深く味わうためには言葉と知識が重要だと、くり返し強調する。音楽を語る言葉が豊かになるほど、味わい方も深まるのだ、と……。
《しばしば音楽の体験に対して言葉は、魔法のような作用を及ぼす。言葉一つ知るだけで、それまで知らなかった聴き方を知るようになる。微細な区別がつくようになる。想像力が広がる。》
《音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。》
そうした主張は、「音楽を味わうのに理屈はいらない」「音楽は言葉を超えたものだ」などという紋切り型の音楽観へのアンチテーゼでもある。
著者は、現代ならではのお手軽すぎる音楽消費に、一貫して批判的だ。
《私が何より問題だと思うのは、近年増加の一途を辿っているところの、音楽家の人生を感動物語に仕立てて商売にするやり方である。それはもはや音楽体験ではない。音楽は、あらかじめ脳髄に植えつけられた物語を大写しにする、音響スクリーンとして機能しているだけだ。何に対してどんな風に感動するか、どんなお話をそこに投影するか、すべて前もってセットされているのである。》
著者が音楽に対して真摯であるのはわかるが、その度がすぎて反発を覚える点もある。たとえば――。
《私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかどうかを測るサインは、最終的にこれ以外ないと思うのである。》
私は本書の内容におおむね共感するが、この記述だけは「やっぱクラシック畑の人だなあ」とついていけない気分になった。CDをかけたら必ず最後まで聴かなければ、音楽やアーティストに対する礼を失することになるのだろうか? んなアホな。
とはいえ、全編にあふれる著者の“音楽への愛”は胸を打つし、示唆に富む好著であることはまちがいない。
- 感想投稿日 : 2018年11月27日
- 読了日 : 2010年5月5日
- 本棚登録日 : 2018年11月27日
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