街場のメディア論 (光文社新書)

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  • 光文社 (2010年8月17日発売)
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 神戸女学院大学で2年生を対象に行われた「メディアと知」という連続入門講義を元にしたものだという。ゆえに、わかりやすい具体例がたくさん引かれたメディア論になっている。

 しかし、内容はたいへん深い。メディアの専門家が書くメディア論とは異なる、意表をつく論点が満載である。当然、過去の内田本と内容がかぶる面もあるのだが(著作権をめぐる論考など)、気にならない。

 とくに「目からウロコが落ちる」思いがしたのは、「第三講 メディアと『クレイマー』」「第四講 『正義』の暴走」「第五講 メディアと『変えないほうがよいもの』」というシークェンス。この部分はまさに傍目八目というか、メディア内部の者(大新聞の記者など)がけっして気づかない、いまのメディアの本質的弱点を鋭く衝いたものになっている。

 このうち第三講、第四講は、日本がクレイマー社会になってしまった責任の一端はメディアにある、という話。
 
《医療崩壊、教育崩壊という事実にマスメディアは深くコミットしていました。メディアはこの事実について重大な責任を負っていると僕は思います。》

 なぜ医療崩壊、教育崩壊にマスメディアが深く関与しているのか? 著者はその理由を、“とりあえず弱者の側に立つ”というメディアの「推定正義」の「暴走」に求める。

《裁判では「推定無罪」という法理があります。同じように、メディアは弱者と強者の利害対立に際しては、弱者に「推定正義」を適用する。これがメディアのルールです。(中略)個人が大企業を訴えたりする場合には、「理非の裁定がつくまで、メディアがとりあえず個人の側をサポートする」というのは社会的フェアネスを担保する上では絶対に必要なことです。でも、「推定無罪」が無罪そのものではないように、「推定正義」も正義そのものではありません。弱者に「推定正義」を認めるのは、あくまで「とりあえず」という限定を付けての話です。
(中略)
 しかし、メディアはいったんある立場を「推定正義」として仮定すると、それが「推定」にすぎないということをすぐに忘れてしまう。》

 「第五講 メディアと『変えないほうがよいもの』」は、マスメディアの世論誤導の責任を衝いたもの。なぜマスメディアは世論を誤った方向に導いてしまうのか? その根本原因を、著者は「変化するのは無条件によいことだ」という考え方に求める。

 「社会制度の変化はよいことであるということはメディアにとって譲ることのできぬ根本命題」である。なぜなら、「社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるから」。ゆえに、「劇的変化が、政治でも経済でも文化でも、どんな領域でもいいから、起こり続けること。メディアはそれを切望」する。それがよい変化であるか否かを、メディアは問わない。

 しかし、世の中には「変えないほうがよいもの」もたくさんある。メディアが「変化はよいこと」という基準を適用して煽ることによって、その領域にも劇的変化が強いられてしまう。そんな強いられた改革が、医療崩壊、教育崩壊に結びついている、というのが著者の見立てである。

 本書ではもっぱら医療崩壊、教育崩壊との関係が論じられるが、あらゆる分野の報道にあてはまる卓見だと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ジャーナリズム
感想投稿日 : 2018年11月12日
読了日 : 2011年2月9日
本棚登録日 : 2018年11月12日

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