ドキュメンタリーは嘘をつく

著者 :
  • 草思社 (2005年3月1日発売)
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感想 : 23
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“放送禁止歌”“と“職業欄はエスパー”を紹介したドキュメンタリー監督+作家の森達也さんの本。内容はズバリ『ドキュメンタリーって何?』。

私は今まで『ドキュメンタリー』=『ノンフィクション(嘘が無い)』だと思っていたけれど、この本のタイトル通り『ドキュメンタリーは嘘をつく』と著者は言う。ドキュメンタリー映画というものが生まれてから、現代までの数あるドキュメンタリーのなかで、演技をしたもの、シナリオが存在するもの、出演者全て役者で『存在しない家族』を撮ったもの、様々な作品があって、『ドキュメンタリー』=『ノンフィクション(嘘が無い)』という定義なのであれば、これらはいずれも『ドキュメンタリー映画』とは呼べない。リアルや真実を伝えるもの、がドキュメンタリーではないんだ?役者もシナリオもあるんだったら、フィクション映画とドキュメンタリーの差って何?

ドキュメンタリーは、『撮られる側』と『撮る側』の関係を撮るもの。と著者は言う。本のなかでいろんな表現があったけど、そうか、ドキュメンタリーって、瞬間、瞬間お互いが作用し変化していく『フリージャズ』みたいなものなのかな、と思った。映画をつくる人は『素材』を見つけて、この素材だったら、こんな演奏が出来るだろうと予測する。こんな仕掛けをしたら、もっと面白い演奏をしてれるんじゃないかと思う。演奏はナマモノで、内容は環境、その人の性格、内面、クセひとつひとつが滲み出てくる。それを撮る。素材はこういう演奏をするだろうと思っていたら、(撮る側を意識して)急に自分の想像を超える演奏をすることもある、すごくくだらない演奏をすることもある。それを撮る。撮る側はそんな演奏を聞きながら、びっくりしたり、混乱したり、喜んだり、絶望したり、自分の内面に気付いたり、変化したりする。あれはカメラアングルひとつ、編集ひとつに滲み出る。その間の、カメラを持つ『人間』と撮られる『人間』の関わり合い、それを『撮る側の意向』を元に作品としてまとめられた、手の加えられたもの、がドキュメンタリー映画なのかな。…とにかく、ドキュメンタリー作品というものが、すごく『超個人的視点のもの。クリエイティブなもの。偏ったもの』で『真実、中立、正義感的』なものからは遠いものである、ということはなんとなくわかったかな。だいぶ本の内容と違っているかもだけど、私がこの本を読んで感じた『ドキュメンタリー』ってこんなカンジ。

嫌なところも醜いところも、きれいなところも可愛いところも、嘘をついたところも、演技しているところも、すべてひっくるめてひとつの人間で、すごく曖昧なもの。とても“正義”“ラブ&ピース”“平等”なんて言葉で言い切れない。その曖昧な人間同士のリアルな作用する姿を、カメラはすごい細部まで記録する。頭のなかではキレイに蓋をしていることも、それは違うんだ、人間はもっと醜くて曖昧な生き物なんだ、ということをカメラは映す。それを『撮る側』の超個人的な“独断、偏見、意志”のもと、加工される。そう思うと、撮る側のエゴで、被写体(場合によっては一般人)というひとりのリアルな人間を材料に作品を表現する『ドキュメンタリー』って、かなり“グロい”作品だなあと思った。作品を絵画に例えると、絵の具が生身の(撮る側も含めた)人間なんだもんなあ。

わたしは今まで“正義や平等などの『きれいな言葉で物事の決着をつける世界』の住人”で、その人間の曖昧さと、曖昧同士の関係を、蓋をして、逃げて生きてきたんだ、改めてと気が付いた。ドキュメンタリー映画を鑑賞するのが正直恐い、と感じていた私は、そんな曖昧な自分と向き合うのが恐ろしかったんだと思う。とにかく観ないとそんな自分は変わらない、と思った。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション・学び系
感想投稿日 : 2011年10月6日
読了日 : 2005年11月6日
本棚登録日 : 2011年10月6日

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