歯車

著者 :
  • 2012年9月13日発売
3.61
  • (21)
  • (18)
  • (28)
  • (7)
  • (3)
本棚登録 : 271
感想 : 34
5


一・レエン・コオト
歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、——それはいつも同じことだつた。

ロツビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮かに映つてゐた。それは何か僕の心に平和な感じを与へるものだつた。

僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひつかけてゐた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけてゐる。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。どこかに鳥でも飼つてあるのかも知れない。

二・復讐
凝灰岩を四角に組んだ窓は雪のある庭に向つてゐた。僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。雪は莟を持つた沈丁花の下に都会の煤煙によごれてゐた。それは何か僕の心に傷ましさを与へる眺めだつた。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考へてゐた。妻のことを、子供たちのことを、就中姉の夫のことを。⋯⋯

僕はあらゆる罪悪を犯してゐることを信じてゐた。

「僕は芸術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神経だけである。」

ぢつと運転手の背中を眺めてゐた。そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、——いづれも皆かう云ふ僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかつた。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放つたりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかつた。

僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂欝にならずにはゐられなかつた。殊に往来の人々の罪などと云ふものを知らないやうに軽快に歩いてゐるのは不快だつた。

人ごみの中を歩いて行つた。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙つてゐる復讐の神を感じながら。⋯⋯

三・夜
僕はいつか憂欝の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂のやうにいろいろの本を開いて行つた。

「恐しい四つの敵、——疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。が、伝統的精神もやはり近代的精神のやうにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかつた。

僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらゐこの地球の小さいかと云ふことを、——従つてどのくらゐ僕自身の小さいかと云ふことを考へようとした。しかし昼間は晴れてゐた空もいつかもうすつかり曇つてゐた。

僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違ひなかつた。が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂欝にした。

四・まだ?
僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまはつた。僕の誇大妄想はかう云ふ時に最も著しかつた。僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云ふ気になつてゐた。

四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を覗かせてゐた。僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブツクや未完成の戯曲を思ひ出した。それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。

五・赤光
文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいづれも不幸だつた。

僕はかう云ふ彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはゐられなかつた。

彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が、暗のある以上は光もあると信じてゐた。僕等の論理の異るのは唯かう云ふ一点だけだつた。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違ひなかつた。⋯⋯

電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だつた。殊に知り人に遇ふことは到底堪へられないのに違ひなかつた。僕は努めて暗い往来を選び、盗人のやうに歩いて行つた。

夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。

六・飛行機
鳥は鳩や鴉の外に雀も縁側へ舞ひこんだりした。それも亦僕には愉快だつた。

徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪はうとした弁護士、——それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかつた。

「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。⋯⋯」それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だつた。——僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年2月20日
読了日 : 2022年2月20日
本棚登録日 : 2021年5月20日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする