鬼殺し(上) (EXLIBRIS)

  • 白水社 (2016年12月28日発売)
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大日本帝国統治下の台湾、山合いの小さな僻村に巨大な鉄の怪物がやってくる。それに立ちはだかるのは、小学生にして既に身の丈180センチの怪力の少年であった。往々にして、新しい世界の到来は、怪物然としている。しかし、少年は臆しなかった。それは、豪華客船にも見紛う、壮観にして精悍な汽車であり、やってきたのは日本陸軍の中佐であった。少年はその勇猛を買われ、中佐の養子となる。さて、少年の育ての親である祖父は、大陸から台湾に渡ってきた客家の子孫であった。また、かつて日本の台湾領有に抵抗した志士でもあった。ここに、長きにわたる孫と祖父の、愛憎の軌跡が始まる。皇民化運動、国家総動員、米軍の空襲、上陸、そして、国民党の台頭、二・二八事件。日本人になろうとした孫と、中国人であろうとした祖父の紆余曲折は、そのどちらをも承服しない台湾を浮かび上がらせる。

遡れば、1661年までスペイン、オランダの植民支配を受け、鄭氏政権の統治、清朝の支配、そして、日本の植民支配を経て、中華民国国民党政権下に入った台湾。現在、その人口の98パーセントを漢民族が占めるが、そのルーツはけして一様ではない。古くから中国南方より渡ってきた闘南語(台湾語)を話すホーロー人、清朝の時代にやってきた客家語を話す客家人、そして、国共内戦で追われてきた北京語(中国語)を話す外省人。忘れてならないのは、アミ、パイワン、タイヤル、サイシャットなどの先住民(政府から認定されたものだけで、16ある)の存在である。人口にして2パーセントに満たないが、先の漢民族の85パーセントが、すでに先住民との混血という調査結果もある。本書が詳らかにするのは、そんな複雑多岐で、多言語多民族の島としての台湾である。

筆者は1972年生まれ、父が客家人、母がホーロー人で、自身のアイデンティディは客家だという。幼少時は、北京語を標準とする政府の言語政策(日本語を駆逐するためでもある)で、方言を話すと罰せられるため、学校では北京語、家庭では客家後と闘南語を使い分けて育った。本書は構想から5年、筆者37歳で上梓されたが、途中、執筆に行き詰まり、当初の客家語主体で書く試みも断念せざるをえなくなったとされる。しかし、本書は一貫して「台湾という郷土に生きる多様な人々の言葉を取り戻す」ことが徹底されている。言葉を取り戻すとは、その言葉でしか表せない意味世界を取り戻すことでもある。その圧倒的な語彙力、描写力には感嘆させられるばかりだ。驚天動地、疾風怒濤の傑作。翻訳も素晴らしい。

「マジックリアリズムを駆使した、全華文小説における最高傑作だ。この鬼を満載した、創作の極致を窮めた小説は、まるであり得ない速さで走る鬼列車のようで、私は、その大型の高圧ボイラーのような創造力に、『自分なら限度オーバーでとっくに爆発してバラバラになっていたにちがいない』と、恐怖に身ぶるいするほどの感動を覚えた」駱以軍

「殺人は容易だが鬼殺しは難しい、これをやってのけたその文才には驚嘆するばかりだ。民国六○年代(一九七〇年代)生まれの昔日の青年が、今まばゆいばかりの文学の花を咲かせた」莫言

「繁茂する言葉が、霊魂=「鬼」たちを慰める呪文であるとしたら、この過剰さは台湾の受けた痛みの深さを示すものだ。怪力の帕はあらゆるものを背負い続ける。汽車、家、寝台、石碑・・・。しかし、彼がずっと背負っているものがあるとしたら、それは台湾の歴史そのものである。」小野正嗣

「甘耀明は二〇一四年九月に来日した際の講演の中で「鬼殺し』について「日本統治時期に生きた人々を、これまでの作品に見られるステレオタイプな台湾人像、日本人像ではなく、人間本来の姿に戻して捉え直したかった」と語っている。従来の「台湾と日本」という対立構図に、「人と鬼」の図式でゆさぶりをかけ、新たな座標軸を打ち立てようとする壮大な構想があったことがわかる。「鬼殺し」は、関牛奮という小さな山村に生きた人々の歴史記憶の再構築をとおして、台湾の主体性を回復する道を模索した台湾のポストコロニアル文学であり、台湾現代文学を代表する作品と言ってよいだろう。」白水紀子(訳者)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年4月19日
読了日 : 2020年4月19日
本棚登録日 : 2020年4月19日

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