黒船の来航から、激動の近代を迎える日本。時代の波に呑まれたのは、なにも人だけではなかった。かねてから人の身近にあった犬たちもまた、激流の只中に投げ込まれた。洋犬の移入に、狂犬病の蔓延、そして、戦争。今も身近にある犬たちだが、振り返ってみれば、もともと日本にいた犬の、そのほとんどが、すでに姿を消してしまっているという。いったい、何が起きたのか。あらためて、犬たちの辿った明治維新を追ってみたい。

近代になるまで、日本に「飼い犬」はいなかったという。そこかしこの犬は、村の犬、町の犬であり、誰か決まった「飼い主」がいたわけではなかった。もし「飼い主」がいたとしても、放し飼いであったから、他の犬と大差は無かったという。犬たちは、長屋の軒下や、神社の床下に住み着いて餌をもらい、代わりに不審者を吠え立て、子供たちの遊び相手をした。犬たちは「飼う」ものではなく、「共に生きる」ものたちであった。

そこへ、開国から多くの欧米人と共に、洋犬がやってくる。人の顔を舐め、芸をこなすその愛想は、当時の日本人をひどく驚かせたという。ましてや、一匹一匹、犬に値段があるなど、とても考えられないことだった。犬は誰かの所有物ではなかったし、お金で交換するような価値ではなかった。(例外として座敷犬「狆」がいる。これは贈答用で、ペリーにも贈られた)。欧米化の盛り上がりで、洋犬を「飼う」ことがステイタスになると、もといた和犬は、心ならずも軽んじられるようになった。

また、船に乗ってやってきたのは人と犬だけではなかった。すでにそれ以前より、狂犬病の侵入はあったが、開国による往来の増加が、さらなる感染の拡大と、被害の深刻を招いた。効果的な予防法が無い当時にあって、犬の管理を急いだ政府は、明治6年、「畜犬規則」を定めた。これは、市中の犬を「飼い犬」と「無主の犬」に分け、後者を殺処分する決定であった。和犬は為す術もなく、たまたま「飼い犬」になれたものの他は、「無主の犬」として追われることとなった。

この「畜犬規則」は、狂犬病対策というより、人と犬の関係を欧米化するのに決定的な役割を果たした。犬には「飼い主」が必要となり、人と犬の関係は、「飼い主」と「飼い犬」という、「個」と「個」の関係になった。象徴的なこととして、犬の名前の変化があげられる。それまで、シロ、クロ、デカ、チビなど、毛色や見た目で分かる共通のものだったのが、ポチ、マル、ジョン、ベスなど、個別のものになった。本書の副題「ポチの誕生」とは、人と犬の近代化のことであった。

さて、新しく日本人に連れ添った洋犬だったが、その後蜜月が過ぎたわけではなかった。高価で買い求められた洋犬も、相変わらずの放し飼いであった。狂犬病の流行は続き、殺処分されるものが後を絶たなかった。また、洋犬、和犬問わず混血し、雑種化が進んだが、そうなるともう、かつての純血の洋犬のようには持て囃されなくなった。そのまま「無主の犬」化(人々はそれを野良犬と呼んだ。)するものも少なくなく、明治の終わりには、日本に住む犬たちのほとんどが和洋雑種になったという。まことに人の勝手であった。

犬たちの受難の最もたるは、戦争の激化による供出であった。物資の不足するにつれ、兵士の毛皮にするため、全国から犬が集められた。昭和になって国の天然記念物に指定された6犬種(秋田犬、甲斐犬、紀州犬、柴犬、四国犬、北海道犬)以外は、洋犬、雑種、根こそぎであったという。わずかに残っていた他の和犬も、それで失われたとされる。(上野の西郷像が連れているのは薩摩犬だが、おそらくこれもその一例であった。)さらには、集められた犬たちの、殺されるだけで、毛皮にもならなかったのが大多数であったという。飼い犬に手を噛まれるとは、いったいどちらの言い草であったか。

「ポチ ハ ス...

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江戸時代も後期、文化の中心がいよいよ上方から、江戸に移ろうという頃、犬が突然、伊勢参りを始めたという。人が連れて行くわけではない。犬が単独で歩いて行くのである。最初の記録は明和8年(1771年)4月16日午の刻(正午前後)、山城国、現在の京都宇治市の犬であった。それから、およそ100年、伊勢神宮には、はるばる参詣する犬が度々現れることになった。

江戸時代、ほとんどの人は「一生に一度はお伊勢参りに行きたい」と願っていたという。当時、まだ自由な旅行ができなった庶民にとって、伊勢参りはそれが許される一大事であった。子供や、奉公人が申し出れば、親も、主人もそれを止めてはならないとされた。もし、無断で参詣に出た場合でも、証拠の品物(お守り、お札等)を持ち帰れば、咎めてはならないとされていたのである(お土産の発祥ともいわれる)。

そういうわけで、江戸時代の伊勢参りは、親や仕事を放り出した者たちによる「抜け参り」を多発した。また、「抜け参り」が「抜け参り」を呼ぶ連鎖で、およそ60年周期の「大規模な抜け参り」=「お蔭参り」を発生した。その規模は、実に数百万人にも及んだといわれる。当時の日本の人口が3,000万人程度だったことを考えると、その盛り上がりは驚異的ですらある。(国によって「抜け参り」の自粛要請も出た。)

そう、実は冒頭の犬の伊勢参りも、そんな「明和のお蔭参り」の、最中であった。犬は、参詣の隊列にまぎれて、伊勢に辿り着いたのである。「人が連れて行くわけではない。犬が単独で歩いて行く」というのは、確かに誇張といえる。しかし、成り行きで辿り着いたとはいえ、自ずと外宮、内宮を参詣し、その振る舞いの神妙であったことを、伊勢神宮は公式の記録として残した。伊勢神宮がむしろそれまで、犬を穢れとして寄せつけなかったことからも、極めて異例なことであったという。

この話が、瞬く間に全国に広がって、伊勢に参詣する犬が続くようになった。病身や老身などで参詣を諦めていた人たちが、犬を代参に立てたのである。首から下げた札に、住所と、代参の旨を書いておけば、あとはもう「これは殊勝な犬だ」と、人から人に、飯や銭の施しを受け、伊勢まで導かれていった。帰りは帰りで、「これは御神徳のある犬だ」「たいした犬だ」と沿道の人から贈り物までもらっていたという。持ちきれないものは、また別の人が付き添って運んでくれたというから、至れり尽せりである。

そんな調子であったから、初めの犬よろしく、たまたまそこにいた犬も「これも伊勢参りの犬では」となった。たまたま誰かがそう思って、首に木札を下げたり、旅銭をくくってやれば、それはもう立派の参詣犬となって、伊勢にいざなわれたのである。日本における犬の長距離単独(?)旅行記録は、津軽~伊勢を往復した(2400キロ)犬であるが、これもそうやって期せずして伊勢に参詣したうちの一匹であるという。人も人なら、犬も犬である。(ちなみに、犬が行くならと、豚や牛を送り出した記録もある。猫は無い。)

さて、時代を降って現在、伊勢神宮のお土産に「おかげ犬」というのはあるが、実際に伊勢に参詣する犬は、明治7年の記録を最後に途絶えて久しい。伊勢神宮が、より厳粛な聖域となったということもあるが、なにより大きかったのは、人と犬の関係が劇的に変化したことであった。詳しくは同著者の『犬たちの明治維新 ポチの誕生』に譲る。ここでは、最後の犬の伊勢参り、その顛末について、本書引用の明治7年12月18日「横浜毎日新聞」コラムを孫引して、犬たちの労を讃えたい。

「犬の伊勢宮に参る事は古くより多くいい伝えたるが、この頃聞きしは最珍しき者というべし。東京新泉町(新和泉町)七番地に古道具屋渡世、角田嘉七という者あり去る九月中、府令ありて、無主の犬は打殺さるゝ、事有...

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大日本帝国統治下の台湾、山合いの小さな僻村に巨大な鉄の怪物がやってくる。それに立ちはだかるのは、小学生にして既に身の丈180センチの怪力の少年であった。往々にして、新しい世界の到来は、怪物然としている。しかし、少年は臆しなかった。それは、豪華客船にも見紛う、壮観にして精悍な汽車であり、やってきたのは日本陸軍の中佐であった。少年はその勇猛を買われ、中佐の養子となる。さて、少年の育ての親である祖父は、大陸から台湾に渡ってきた客家の子孫であった。また、かつて日本の台湾領有に抵抗した志士でもあった。ここに、長きにわたる孫と祖父の、愛憎の軌跡が始まる。皇民化運動、国家総動員、米軍の空襲、上陸、そして、国民党の台頭、二・二八事件。日本人になろうとした孫と、中国人であろうとした祖父の紆余曲折は、そのどちらをも承服しない台湾を浮かび上がらせる。

遡れば、1661年までスペイン、オランダの植民支配を受け、鄭氏政権の統治、清朝の支配、そして、日本の植民支配を経て、中華民国国民党政権下に入った台湾。現在、その人口の98パーセントを漢民族が占めるが、そのルーツはけして一様ではない。古くから中国南方より渡ってきた闘南語(台湾語)を話すホーロー人、清朝の時代にやってきた客家語を話す客家人、そして、国共内戦で追われてきた北京語(中国語)を話す外省人。忘れてならないのは、アミ、パイワン、タイヤル、サイシャットなどの先住民(政府から認定されたものだけで、16ある)の存在である。人口にして2パーセントに満たないが、先の漢民族の85パーセントが、すでに先住民との混血という調査結果もある。本書が詳らかにするのは、そんな複雑多岐で、多言語多民族の島としての台湾である。

筆者は1972年生まれ、父が客家人、母がホーロー人で、自身のアイデンティディは客家だという。幼少時は、北京語を標準とする政府の言語政策(日本語を駆逐するためでもある)で、方言を話すと罰せられるため、学校では北京語、家庭では客家後と闘南語を使い分けて育った。本書は構想から5年、筆者37歳で上梓されたが、途中、執筆に行き詰まり、当初の客家語主体で書く試みも断念せざるをえなくなったとされる。しかし、本書は一貫して「台湾という郷土に生きる多様な人々の言葉を取り戻す」ことが徹底されている。言葉を取り戻すとは、その言葉でしか表せない意味世界を取り戻すことでもある。その圧倒的な語彙力、描写力には感嘆させられるばかりだ。驚天動地、疾風怒濤の傑作。翻訳も素晴らしい。

「マジックリアリズムを駆使した、全華文小説における最高傑作だ。この鬼を満載した、創作の極致を窮めた小説は、まるであり得ない速さで走る鬼列車のようで、私は、その大型の高圧ボイラーのような創造力に、『自分なら限度オーバーでとっくに爆発してバラバラになっていたにちがいない』と、恐怖に身ぶるいするほどの感動を覚えた」駱以軍

「殺人は容易だが鬼殺しは難しい、これをやってのけたその文才には驚嘆するばかりだ。民国六○年代(一九七〇年代)生まれの昔日の青年が、今まばゆいばかりの文学の花を咲かせた」莫言

「繁茂する言葉が、霊魂=「鬼」たちを慰める呪文であるとしたら、この過剰さは台湾の受けた痛みの深さを示すものだ。怪力の帕はあらゆるものを背負い続ける。汽車、家、寝台、石碑・・・。しかし、彼がずっと背負っているものがあるとしたら、それは台湾の歴史そのものである。」小野正嗣

「甘耀明は二〇一四年九月に来日した際の講演の中で「鬼殺し』について「日本統治時期に生きた人々を、これまでの作品に見られるステレオタイプな台湾人像、日本人像ではなく、人間本来の姿に戻して捉え直したかった」と語っている。従来の「台湾と日本」という対立構図に、「人と鬼」の図式でゆさぶりをかけ、新た...

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2020年4月19日

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大日本帝国統治下の台湾、山合いの小さな僻村に巨大な鉄の怪物がやってくる。それに立ちはだかるのは、小学生にして既に身の丈180センチの怪力の少年であった。往々にして、新しい世界の到来は、怪物然としている。しかし、少年は臆しなかった。それは、豪華客船にも見紛う、壮観にして精悍な汽車であり、やってきたのは日本陸軍の中佐であった。少年はその勇猛を買われ、中佐の養子となる。さて、少年の育ての親である祖父は、大陸から台湾に渡ってきた客家の子孫であった。また、かつて日本の台湾領有に抵抗した志士でもあった。ここに、長きにわたる孫と祖父の、愛憎の軌跡が始まる。皇民化運動、国家総動員、米軍の空襲、上陸、そして、国民党の台頭、二・二八事件。日本人になろうとした孫と、中国人であろうとした祖父の紆余曲折は、そのどちらをも承服しない台湾を浮かび上がらせる。

遡れば、1661年までスペイン、オランダの植民支配を受け、鄭氏政権の統治、清朝の支配、そして、日本の植民支配を経て、中華民国国民党政権下に入った台湾。現在、その人口の98パーセントを漢民族が占めるが、そのルーツはけして一様ではない。古くから中国南方より渡ってきた闘南語(台湾語)を話すホーロー人、清朝の時代にやってきた客家語を話す客家人、そして、国共内戦で追われてきた北京語(中国語)を話す外省人。忘れてならないのは、アミ、パイワン、タイヤル、サイシャットなどの先住民(政府から認定されたものだけで、16ある)の存在である。人口にして2パーセントに満たないが、先の漢民族の85パーセントが、すでに先住民との混血という調査結果もある。本書が詳らかにするのは、そんな複雑多岐で、多言語多民族の島としての台湾である。

筆者は1972年生まれ、父が客家人、母がホーロー人で、自身のアイデンティディは客家だという。幼少時は、北京語を標準とする政府の言語政策(日本語を駆逐するためでもある)で、方言を話すと罰せられるため、学校では北京語、家庭では客家後と闘南語を使い分けて育った。本書は構想から5年、筆者37歳で上梓されたが、途中、執筆に行き詰まり、当初の客家語主体で書く試みも断念せざるをえなくなったとされる。しかし、本書は一貫して「台湾という郷土に生きる多様な人々の言葉を取り戻す」ことが徹底されている。言葉を取り戻すとは、その言葉でしか表せない意味世界を取り戻すことでもある。その圧倒的な語彙力、描写力には感嘆させられるばかりだ。驚天動地、疾風怒濤の傑作。翻訳も素晴らしい。

「マジックリアリズムを駆使した、全華文小説における最高傑作だ。この鬼を満載した、創作の極致を窮めた小説は、まるであり得ない速さで走る鬼列車のようで、私は、その大型の高圧ボイラーのような創造力に、『自分なら限度オーバーでとっくに爆発してバラバラになっていたにちがいない』と、恐怖に身ぶるいするほどの感動を覚えた」駱以軍

「殺人は容易だが鬼殺しは難しい、これをやってのけたその文才には驚嘆するばかりだ。民国六○年代(一九七〇年代)生まれの昔日の青年が、今まばゆいばかりの文学の花を咲かせた」莫言

「繁茂する言葉が、霊魂=「鬼」たちを慰める呪文であるとしたら、この過剰さは台湾の受けた痛みの深さを示すものだ。怪力の帕はあらゆるものを背負い続ける。汽車、家、寝台、石碑・・・。しかし、彼がずっと背負っているものがあるとしたら、それは台湾の歴史そのものである。」小野正嗣

「甘耀明は二〇一四年九月に来日した際の講演の中で「鬼殺し』について「日本統治時期に生きた人々を、これまでの作品に見られるステレオタイプな台湾人像、日本人像ではなく、人間本来の姿に戻して捉え直したかった」と語っている。従来の「台湾と日本」という対立構図に、「人と鬼」の図式でゆさぶりをかけ、新た...

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2020年4月19日

読書状況 読み終わった [2020年4月19日]

文化大革命とは、中国で1966年から、およそ10年も続いた革命運動である。正確には「無産階級文化大革命」といい、旧来の思想、文化、風俗、習慣を打破することで、新しいそれを打ち立てようとした社会運動であった。ただ、その実態は、産業改革「大躍進政策」に行き詰まって失脚した毛沢東の、名誉回復を狙った政治的な宣伝、プロパガンダであった。氏は自らの失敗を、旧来の思想、文化、風俗、習慣に責任転嫁したのである。つまり、文化大革命とは、先進的な階級闘争などではなく、ただの内向的な権力闘争であった。しかし、一度火のついた革命は、氏の手の内を離れて、中国全土、そして世界全体に広がった。数えきれないほどの文化財、宗教施設が破壊され、計り知れないほどの虐殺と弾圧が行われたとされる。いったい、その被害と、犠牲とは、今もってなお、その全容を知れるところではない。

さて、本書はそんな時代にあって、やはり革命を邁進した男の、最後処刑台から語る独白である。旧態依然の閉鎖的な村に生まれ、膨れあがる自意識を耐え難くしていた男の、これもまた才能を持て余し、旧家の令室に甘んじていた女と辿る、「エロ、革命、血笑記」。本書の殊勝であるのは、これがべつに革命の懺悔でもなければ、恋愛の礼賛でもないところにある。革命における理想と現実、恋愛における嘘と誠のような葛藤は微塵もない。むしろそれらは徹頭徹尾、渾然一体のものであり、ただのありのまま生として、そして、ただのあっけない死としてある。そう、たしかに、その生真面目さ、もとい滑稽さにこそ、文化大革命の真実があったかも知れないのである。

「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯……革命の歌に乗って二人の欲望が炸裂する。」

筆者は、実際に中国の貧しい農村に生まれ、文化大革命を目の当たりにした当事者。生活苦から中国人民解放軍に入隊し、その創作を始めた。本作に先んじて邦訳第一作となった『人民に奉仕する』(『為人民服務』2005)は、その過激な内容から、中国本土では発禁処分となった。本作(『堅硬如水』2001)も発表当初は発禁を免れたものの、現在は増刷も、再版も許されていないという。とはいえ、その後も精力的に活動中。おそらく日本では、本作より『炸裂志』(『炸裂志』2013)のよく知られるところだろう。

「文化大革命の嵐が吹き荒れるなか、血気盛んな人民解放軍の若者・高愛軍は、故郷の貧村・程崗鎮に復員し、美しき人妻・夏紅梅とともに革命を志す。中国古来の価値観が残る村は、対日抗戦の殊勲者たる名家の人々が支配していたが、現状に不満を抱く若者たちを煽動して革命委員会を樹立し、村幹部を追放し実権を掌握していく。アメリカ帝国主義、ソ連修正主義に囲まれ、世界的な反中国の逆流のなか、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東ら、革命の聖人たちを奉じ、愛情の力で邁進する二人。やがて二人は愛軍が掘った「愛のトンネル」を通って夜な夜な逢瀬を重ねることとなる。近年ノーベル文学賞の候補と目される最重要作家による、セックスと革命、血と涙と笑いが交錯するドタバタ狂想讃歌!! 」

2020年4月12日

読書状況 読み終わった [2020年4月12日]

ながらく人々は、農地に堆肥などの有機物を与えることでその肥沃さを保ってきた。しかし近年、その有機物の栄養が、実は作物の成長にあまり寄与していないことが分かった。そこで代わりに与えられるようになったのが、化学肥料であった。作物の成長に必要な栄養を直接まく効果は絶大であり、収穫量は増大した。ところが、それは一時的だった。やがて、作物は病気や害虫に悩まされることになったのだ。あらためて分かったのは、堆肥の有機物の栄養は、農地に住む小動物、微生物の栄養となっていたことだった。そして、その小動物、微生物が、作物の栄養の吸収を助け、病気の発症や害虫の繁殖を防いでいたのだった。また、作物の方も、光合成した炭水化物を、そんな小動物、微生物に与えていた。植物はただ土壌から、直接に栄養や水を吸収していたのではなかったのだ。植物と土壌との間には、これまで知られていなかった生態系「根圏」が存在していたのである。さて、実はそれと同じものが人間の内側にもあるという。植物の根の外側を内側にひっくり返してやると、それは人間の腸に対応する。人間の細胞の数は、およそ37兆だが、人間の身体に棲む微生物の数はゆうに100兆を越える。とくに、大腸はその多様性のもっとも豊かであるという。「根圏」がそうであったように、人間の腸内細菌叢「マイクロバイオーム」もまた、自分たちの消化吸収を助け、免疫に多大な影響を与えている。いや、それだけではない。今日では、そんな腸内微生物のバランス異常が、増加している生活習慣病、肥満、糖尿病他、アレルギー、うつや自閉症などにも影響している可能性が示されているという。筆者は、昨今の人間の食生活の変化をあげたうえで、自分たちもそろそろ微生物の恩恵に与るだけでなく、その声に耳を傾ける必要性を説く。自分たちは一個の人間であるまえに、幾多の生態系の寄せ集めでしかない。食べることとは、己が腹を満たすことよりも、自らを耕して微生物とともにある営みなのだ。

「微生物の目から見れば、私は生きている丈夫な格子垣――が裏返しになったもの――で、そこに無数の微生物がからみつき、はい上がり、成長する。細胞の一つひとつに、少なくとも三個の最近細胞が棲んでいる。それは私の身体の内外いたるところ——皮膚、肺、膣、爪先、ひじ、耳、目、腸――にいる。私は彼らの故国だ。」

「私は自分で思っていたようなものではなかった。読者もそうだ。私たちはみんな、別の生物の生態系の寄せ集めなのだ。しかし、私たちの身体に加わるのは微生物そのものだけではない。微生物は人間の遺伝子レパートリーを増やしているのだ。細菌だけで約二〇〇万個の遺伝子を人間の体内に持ち込んでいる。ヒトゲノムにあるおよそ二万のタンパク質コード遺伝子の一〇〇倍だ。マイクロバイオームのほかの構成品――ウイルス、古細菌、菌類――のゲノムを合わせると、私たちの体内にある微生物の遺伝子は六〇〇万にものぼる。たいていの場合これはいいことだ。微生物の遺伝子のおかげで、人間は免疫、消化、神経系の健康に重要な何十種類もの必須栄養を吸収できるのだ。」

「私たちの身体にあるすべての生物生息地で、量と多様性においてもっとも豊かなのは、長さ七メートルの消化管だ。特に最後の一.五メートル――大腸――には、腸内マイクロバイオームの四分の三、何兆個もの住人が入っている。腸の最下部に棲む顕微鏡サイズの生物が、地球そのものの目に見える生物多様性に匹敵するなどと誰が思うだろう?
さらに驚くべきことに、私たちの腸内に棲む微生物の大多数は、培養されたことがない。人間の身体の外では生きられないのだ。」

「免疫系の約八〇パーセントは腸、特に大腸に関係していることを知って、私はやはり驚いた。免疫学者は免疫系のもっとも大きな部分に、あまり面白みのない名前――「腸管関連...

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地球史上もっとも大きな生物というと、シロナガスクジラ(33メートル、200トン)がよくあげられる。しかし、同一菌床のキノコを一体の生物とみなすなら、オニナラタケ(890万平方メートル!、600トン)の方がさらに※大きいという。キノコが菌類であり、正確には微生物であることを考えると、その大きさにはアンビバレントな驚きがある。そもそも、その小ささゆえに、地球の生物の中で、最後に発見されたのが微生物であった。しかし、本書によれば、そんな微生物こそが、種の数、そして量においても、最大であるというのだ。その活動量は地球規模で元素の循環に大きな影響をおよぼしているという。また、今日の自分たちの生活は、かなりの部分で、微生物の活動を利用している。それは発酵(酒、チーズ、チョコレート、洗剤等)や、病気の治療(ワクチン、抗生物質、抗がん剤等)にとどまらず、汚水の処理、金属の精錬(銅は全体の20~25%がバクテリアリーチングである)、人工降雪機の氷核活性など多岐に渡るという。微生物は、ただ多種多量なだけでなく、とんでもなく多才でもあるのだ。その活動域は地球深部の極限環境にまでも広がっているという。はたして、そんな微生物とはいったい何ものなのか。筆者はその一端を「共生」で説明する。実は、微生物は、その多くが、それぞれ単一種では生存できないという(シャーレで単離培養できる微生物は全体の1%にも満たない)。そのため微生物は、異種の微生物だけでなく、自分たちの様な非微生物との間にも広範なネットワークを広げることで、互いに必要なものを交換している。そしてなんと、そのネットワークで遺伝子まで共有(微生物は他種の遺伝子を自らに継ぎ接ぎできる=遺伝子の水平伝達)することで、多様多才な進化適応を可能にしているというのだ。いわば、そのネットワーク=「共生」こそが、系統分類できない雑多な生物の集まりとしての「微生物」そのものともいえる。さらにいえば、この地球にあまねくひしめく微生物は、共生体として地球大の巨人といってもいいのかも知れない。そう、微生物はその極小さゆえに、発見が遅れたのではない。むしろその巨大さゆえに、目に入らなかったのだ。

※同様の条件であれば、パンドと呼ばれるポプラの林が43万平方メートル、6600トン!でもっとも重い。

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1997年のノーベル生理学・医学賞は「感染症の新たな生物学的原理の発見」に与えられた。プリオン(タンパク質性感染因子)である。それまで感染症の病原体といえば、ウイルス、バクテリアなどの生物(DNAもしくは、RNAを持ち、自らを複製するもの)であったが、プリオンはただのタンパク質、非生物であった。プリオンは、プリオンタンパクが、誤って折り畳まれたもの(タンパク質はアミノ酸を並べて折り畳んだもの)で、その誤りを正常なタンパク質に感化(配座感化)させることで増えていく。そして、これによって発症するのが、スクレイピー(ヒツジ)、BSE(ウシ)、クロイツフェルト=ヤコブ病(ヒト)などのプリオン病である。プリオン病は、プリオンタンパク遺伝子の変異で発症(遺伝型)するだけでなく、プリオンとの接触(上記疾病を発症した動物の危険部位を食す等)で※感染(変異型)するとされる。また、それらとは別に原因不明の発症(散発型)もあるが、「変異型」と「散発型」の線引きは非常に難しく、慎重な診断が求められる。
(プリオンのもっとも大きな特徴として、その不活化が難しいことがある。ウイルス、バクテリアであれば、そのDNA、RNAを破壊するような熱処理、紫外線処理で不活化できるが、プリオンは繊維性のタンパク質であり、熱、紫外線ともに強く、灰になっても感染力がある。)
未だに謎の多いプリオン、その異常は治療法の早期発見が待たれる。とはいえ、実はそもそも、正常なプリオンタンパクが、自分たちの体内でどんな役割を担っているのかが、まだ分っていない(プリオンタンパクを欠損したマウスはまったく異常なく生きる)。あらゆる哺乳類が持つプリオンタンパク、これはミステリーである。
※「感染」より「伝達」の方が適当といわれる。

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1848年、ヨーロッパに革命の風が吹いた。そしてそれはオーストリア帝国のウィーンにも届いた。ただ、ウィーンの市民にとって、革命はまだ一つの流行でしかなく、それにのるものらぬも、その人のウィーン気質とされた。だから、その3月のデモも平和的だった。そして、平和のうちに終わるはずだった。暴動が起こって革命が本当になってしまうなど、おそらく誰も思っていなかったのだ。さても、宰相に続き、皇帝まで逃げ出してしまったウィーンで、浮足立った市民の乱痴気がはじまる。めいめい勝手な請願を出しあい、気に入らない者あらば、反革命的だと囃し立てた。街中でドラムやトランペット、しまいには鍋やフライパンが打ち鳴らされた。しかし、目標のない革命の音頭に行く当てはない。革命は次第に、圧政と自由の対決ではなく、中産階級と下層労働者の確執へと変調していく。もとい、そもそもウィーンの抱えていた問題はそれだったのだ。増え続ける異郷からの出稼ぎ労働者と、膨らみ続ける相互不信、不平不満。やがて10月には皇帝が凱旋し、ウィーンはすっかり元の鞘に戻るのだが、市外には多くの「歴史なき民」が打ち捨てられたままとなった。著者は、日本の社会史研究に先鞭をつけた社会思想史家。それまでの歴史学が、偉人を通してみた「上からの歴史」であったのに対し、「歴史なき民」=名もなき民衆を通してみる「下からの歴史」を拓いた。1848年の革命も、一般には失敗したとしか伝えられないが、著者は、当時の民衆の生活を通して、その後の社会変動の契機を照らし出してみせた。まるでその場に行って書き留めてきたかのような筆致は、人々の談笑や噂話が聞こえてくるよう。本書が著者の絶筆となったことが非常に惜しまれる。

「だれが指示したわけでもないだろうに、男たちの黒い群がいつとはなしに流れはじめた。ともかくも午前中の仕事を終えて工場から出てきたそのままの姿なのだろうか。汗と脂にまみれたよれよれの服を身にまとい、潰れかけた帽子をかぶり、なかには作業用の前掛けをしたままの者もいる。ほとんどの者がすすけた顔に無精髭を長く伸ばしている。ともかくも戦うのだと、だれと、何のために、そんなことはわかりはしない、何はともあれ手に手に得物をひっさげ、あるいは肩に担いで彼らは歩き出したのだ。得物といっても銃や刃を持つ者はなく、鉄棒や棍棒、ハンマー、まさかり、スコップ、つるはしなど、作業場から手当り次第に武器になりそうなものを持ち出してきたのだ。」

「革命にシャリヴァリはつきものである。ドイツ語ではカッツェンムジーク、猫の音楽とか猫ばやしという。要するに、気に入らぬ者のところへ押しかけ、笛やドラム、鍋やフライパンを叩いて「民衆的制裁」を加えることである。四月一日、テアター・アン・デア・ヴィーン(ウィーン河畔劇場)で上演されたある芝居で、このシャリヴァリが演じられ、またたく間にウィーンの街に流行する。最初は革命派が反革命派にたいしていやがらせを行う、いわば政治的シャリヴァリが主体であり、それをタイトルとする新聞さえ現れる。」

「――まず鋭い口笛が鳴る。それが合図で無数の笛の合奏が始まる。コンサートの開始である。何百もの音楽が一斉に奏で始める。指揮者もいなければ聴衆もいない。だれもかれもが演奏家なのだから。ドラムだのトランペットだの笛だのガラガラ玩具だのを持ち出して、不協和音を響かせる。笛を持っていない者は人差し指と中指を口に当てて、ピーピーピーと口笛を吹きならす。女たちは鍋やフライパンを持ち出して、ガチャガチャと叩きまくる。たらいの底をしゃもじで叩いてドラム代りにする。」

「シャリヴァリはやがてウィーンの市民層から下層民、「プロレタリアート」や「ゲジンデル」へと広がる。彼らは高価な楽器など持ち合わせていないから、指笛をならし、桶やフライパンを...

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2018年8月17日

読書状況 読み終わった [2018年8月17日]

19世紀のフランス、パリの市門の外には「関の酒場」が広がっていた。平日こそ人はまばらだったが、日曜日にもなれば、一週間の仕事を終えた労働者が大挙して集い、遅くまで酒を酌み交わした。そして、それは月曜日までも続いたのである。労働者にとって、日曜日が家族のための休日であれば、月曜日は自分のための、仲間のための祭日であった。市外の酒場で労働者が酔いや唄えやする「聖月曜日」、市中の工場では空しく始業ベルが鳴った。かといって、労働者が、火曜から土曜日まで、勤勉だったかというと、それもまた違った。市中にもたくさんの酒場があり、労働者は始業前と後とに関わらず、酒を酌み交わした。雇主をはじめとする資本家は、そんな労働者のモラルを嘆いたが、労働者はお構いなしだった。それが「日々の労働によって成り立つ生活に埋没することをいさぎよしとしない労働者の気質」であり、「日々の労働を、自らの生活リズムに即して実現していこうという」労働者の自律的な在り方なのであった。また、劣悪な生活環境にあって、当時のパリは衛生、医療、教育などの社会制度が未発達で、労働者は自分たちより他に頼るものがなかった。酒場は、労働者の連帯と結束の場であり、酒を酌み交わすことは政治そのものであったのである。こうしてみると、資本家と労働者の関係が、貧富の差こそあれど、支配被支配ではなく、実は対等なものであったことがわかる。労働者は資本家におもねることがなく、資本家は労働者を規律付けることができなかった。むしろ、その後、労働者に様々な諸権利が付与され、法的保護が実現されていくことで、労働者は個人に分断され、その自律的生活圏を弱体化させていく。無法な労働運動が、合法的な組合運動になり、そうやって一つの社会規範に受容包摂されることによって、労働者は支配被支配の関係の中に組み込まれていったのである。実際、労働者の生活は大きく改善されたわけだが、「労働者の市民化」は、かつてあった「聖月曜日」=労働者の自律性が失われることで達成されたのである。

『聖月曜日―それは祭りと騒乱の日々であった。ミゼラブルな生活のなかでも、人びとは仲間同志の絆を結んだ。病気のときは助け合い、また日曜を『家族の日』、月曜を『仲間の日』と呼んで仕事を休み、市外の『関の酒場』にくり出して、お祭り騒ぎを楽しんだ。当時の民衆騒乱は必ず月曜日、『関の酒場』から起こったという。』

「日曜日がミサの日として予定されるということはなくなっているとしても、労働者にとって少なくともそれは家族の日とみなされている。日曜日の一部を家族のために予定しておくことに、労働者は喜んで同意する。夕方、彼らは妻や子供を外に連れていくのである。しかしこうしたからには、他の一日は自分自身の気晴らしと楽しみの日とする権利があると労働者は考える。かくて月曜日は仲間の日となり、ひどく金を使う。」

「労働者の労働は厳しく疲労のともなうものであるから、力を回復する仕組みがなくてはならないことになる。この仕組みは実質のある食物をとるよりも、混り物のない自然のぶどう酒を適度にとることから成り立つ。酒は誰よりも労働者にとってまずもって必要なものなのだ。それは労働で失われた力を回復する効力があり、労働者の精神を元気づけ苦労をやわらげる」

「当時の史料にしばしば出てくることなのだが、労働者たちは仕事にはいる前に居酒屋に行き、仕事を始めてからも一回二回とこれをくり返し、昼食時に一リットル、二時と四時にまた同じことをやって、帰路にまた居酒屋に寄るということがある。このようなことはフレジエやパリ商工会議所の目からみると、労働者を酔いどれにしてしまう悪習として指弾されてしかるべきことになるのだが、労働者からすると、仕事を自分たちの集団的で自律的なリズムに従ってやっているまでのことにすぎないのである。...

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2018年7月30日

読書状況 読み終わった [2018年7月30日]

自分たちのいるこの世界はどのようにしてあるのか。ヒトもモノも、すべては素粒子でできており、その素粒子に働く力もまた素粒子である。かつて、ニュートンは「万有引力」を発見したが、離れた物体同士が、どうやって引力=重力を伝えているのかは分からなかった。やがて、ファラデーが「力線」を発見して、離れた物体同士の間に「場」という実体があることが分かった。今日ではその「場」も素粒子でできていることが一部分かっている。例えば、電磁「場」なら、それは光子の「場」となる。通信が通じるのも、磁石が引き合うのも、離れた物体同士の間で、光子がやり取りされるからである(なお、光子の「場」の振動が電磁波であり、その一部波長が可視光となる)。つまり、物質も、力も、すべては素粒子なのである。また、再びさかのぼって、ニュートンは「運動方程式」を発見したが、その際、「空間」と「時間」が、本当に絶対的であるのかは分からなかった。やがて、アインシュタインが「特殊相対性理論」を発見して、「空間」と「時間」が、実際には相対的であることが分かった(地球の今この瞬間が、火星では15分相当である)。そして、今日では「一般相対性理論」によって、「時間」と「空間」が、重力の「場」であることが示されている(=ループ量子重力理論)。残念ながら、重力「場」をつくるとされる素粒子「重力子」はまだ発見されていない。が、このことは、もしかすると「空間」と「時間」もまた、素粒子のような実体であり、粒の集まりなのかも知れないということである。いわれてみれば、これまで自分たちが「何も無い空間が有る」という不自然を、当たり前に信じてきたことに気付かされる。「連続的」ではなく「離散的」な「空間」の衝撃。原題は『現実は目に映る姿とは異なる』。筆者は元ヒッピーという異色の物理学者。より易しく書かれた本『世の中ががらりと変わって見える物理の本』が世界的ベストセラーとなった。

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自分たちのいるこの世界はどのようにしてあるのか。ヒトもモノも、すべては原子でできており、それは電子と原子核、さらには陽子と中性子でできてている。そしてそれらもまた、さらに小さないくつかの素粒子でできている。例えば、陽子なら、クオークと呼ばれる素粒子3つでできている。これが、現在分かっている世界の最小スケールである。しかし、分かっていないこともある。先のクオーク3つの重さを合わせても、実際の陽子の重さの1%にしかならない。いったい陽子の重さの99%はどこにあるのか。これの計算は非常に複雑であり、式はあってもまだ誰にも解けていない。試みに著者はここで「異次元」を導入してみせる。3次元空間で静止しているように見える陽子でも、異次元方向に激しく運動していれば、その分だけ重く見える(運動エネルギーと質量は等価)のではないか。「異次元」と聞くと、突飛な発想だと思われるかも知れない。しかし、理論上は、「異次元」があるとすると、先にあげた陽子の重さだけでなく、いろいろな複雑なことを、うまく説明できるようになるとされる。自分たちには「異次元」が見えないので、そんな世界はかえって複雑だと感じられるかも知れない。しかし、そんな「異次元」が見せてくれる世界は、いたってシンプルなのかも知れないのだ。つきつめれば、すべては「ひも」であるという「超ひも理論」。天才物理学者浪速阪教授の関西弁「異次元」案内。なお、続編『「宇宙のすべてを支配する数式」をパパに習ってみた』も、おもろい。

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「どんなものを食べているか言ってくれたまえ。君の人となりを、言い当ててみせよう」有名なブリア・サヴァランの言葉を引いて始まる本書。歴史に名を残した著名な人物や芸術家たちがいったい何を好んで食べてきたかを調べあげ、その料理を再現してみせる。そして、それを舌に乗せ、その人の「人となり」を噛みしめる。作家、思想家、芸術家、天皇、女王、あげくに魔女まで、その味わいは古今東西多岐にわたって飽きさせない。また、著名人たちの嗜好を探ることは、著者自身のそれを明らかにすることでもある。あとがきで、品書きの豚料理ばかりになりそうだったことが反芻されていて(豚は反芻しないが)面白い。もちろん読者も、自らの嗜好を確かめずにはいられないだろう。

「歴史を振り返ってみるなら、多くの芸術家は食いしん坊だった。それは単に食欲の問題である以上に、彼らが生来的に抱いていた、世界に対する貪欲な好奇心に見合っていた。ある者たちは優れたレシピ集を残し、別の者たちは後世の伝記を通して、その健啖ぶりを伝えられた。」

「食べ物について語ることの半分は、目の前に置かれ湯気を立てている料理についてではなく、遠い昔の記憶を呼び覚まして、喪われたものについて語ることであるとは、よくいわれるところだ。フーリエが人類の未来をお菓子のヴィジョンで埋め尽くしたとすれば、プルーストは逆に過去のいっさいがマドレーヌの記憶に喚起され、お菓子を分光器として語られるものであるという立場を選んだ。二人ともに、料理について書こうとする者たちを見守る偉大な守護聖人であるといえる。人間にとって幸福とは、目に見えるもののことごとくを自在に口に運ぶことにあるとはプラトンの『パイドロス』が冒頭で語っていることであるが、彼らは幼少期にわれわれが喪失して久しいこの幸福を、まさにプラトン的に想起することができた、幸福な人種ではないだろうか。」

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ソ連からアメリカに亡命したロシア人批評家二人によるロシア料理指南書。レシピの分量は大雑把であるが、調理の心構えは大真面目である。なぜなら、それこそが彼らの望郷であり、文明批判だからである。進歩的な食事の制限や、栄養の管理を嘆き、伝統的な食欲の回復と美徳の復権を説く。ここで紹介される料理の数々は、もはや手に入らない食材に想いを馳せつつ、あるもので間に合わされた「亡命ロシア料理」である。そのナイーブで、センチメンタルな口当たりは、ロシア料理を近づける外連味であると同時に、求める本物のロシア料理をかえって遠ざけてしまうような、自虐味と、滑稽味でもある。なお、随所にみられるロシア人のキノコへの思い入れが非常に印象的であった。亡命ロシア人の文明批評の妙味、たんとご賞味あれ。

「ヤマドリタケはずんぐりして善良な魂をもっているし、アンズタケはコケティッシュでせっかちな魂を、アミガサタケはしわくちゃの魂を、カラハツタケはスラブ派の魂を持っている(たぶん、古きよきロシアを愛する農村派作家のウラジミール・ソロウーヒンは、前世ではカラハツタケだったのだろう)。魂なしで生えているのはマッシュルームだけである。」

「いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたま(必ず木製のでなければならない!)を持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と闘う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ・・・。」

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賛否両論の一冊。環境保護において、外来種の侵入といえば、悪い印象を持たれることがほとんどである。しかし、著者は、はたして本当にそうなのかと疑問を投げかける。まず、在来種に重大な影響を与える外来種があるのは事実だが、それは、たくさんの外来種のうちの一部であるという。例えばハワイ諸島では、花を咲かせる植物1500種のうち、1000種を越えるものが外来種であり、絶滅が確認された在来種は71種だとされる。つまり、絶滅した在来種を越える数の外来種が侵入することで、その環境の生物種はむしろ増えているというのである。続いて、在来種が外来種に追いやられたように見える事例でも、実はすでに環境が悪化して在来種が少なくなっており、そこに外来種が適応しただけという場合があるという。アフリカのヴィクトリア湖では、外来魚ナイルパーチにより、在来魚シクリッド500種の半分が絶滅させられたといわれる。しかし、もしかすると最大の原因は水質汚染の方だった可能性がある。むしろ外来種は、アメリカのエリー湖に侵入したイガイのように水質向上に資することもあるというのだ。著者の主張はいたって明快である。外来種の侵入はなんら不自然なことではない。いっそ外来種の絶え間ない侵入こそが自然なのである。「大きな時間の流れのなかでは、そもそも在来種が存在しない。」太古の自然、手つかずの無垢な自然など現在の幻想でしかない。「自然はぜったいに後戻りしない。前進するのみ。たえず更新される自然に、外来種はいちはやく乗り込み、定着する。彼らの侵入は私たちにとって不都合なこともあるが、自然はそうやって再野生化を進行させている。」著者は多くの事例をあげて、自分たちがもつ、受け身でかよわいものとしての「オールド・ワイルド」な自然観を、ダイナミックでやる気満々な「ニュー・ワイルド」へ転換する必要を説く。無批判に信じられてきた自然観に一石を投じる一冊。ただし、すでに多くの識者が批判しているよう、本書には致命的な誤解も多いとされる。下記の書評が非常に参考になるので、合わせて一読を勧めたい。

『この著者は「そもそも生き物がそんなに好きではないのでは?」』
湿地帯中毒(http://d.hatena.ne.jp/OIKAWAMARU/20160919/p1

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一般に生態系の破壊というとき、著者の前作にある「頂点捕食者の不在」よりは、本作にある「外来種の侵入」の方がよく知られるところだろう。ネズミ、ネコ、イタチ、キツネ、ヤギ、様々な動物が、人間とともに世界へと広がり、人間とともに少なくない影響を与えてきた。なかでも特に、島に与えたそれは甚大であったといえる。これまで島は、大陸から大洋で隔てられ、固有の進化を育んできた。島の面積こそ、地球の陸地の5%を占めるに過ぎないが、陸生の種の実に20%は島で生まれたのである。にもかかわらず、絶滅の大半も島で起きており、これは人間も含めた外来種によるところが大きい。例えばオセアニアでは、この3000年間、初期の移住民とネズミの侵入に始まって、現在までおよそ8000種もの動物がいなくなったとされる。島は外来種に対して、あまりに不用心なのである。しかしながら、どんなにその影響が大きいことが分っても、すでに定住してしまった外来種に、退去をお願いすることは非常に難しい。とりわけネズミは賢く、敵対的な罠や毒はすぐに学習してしまって効果が出ない。仮にうまくいったとしても、服毒したネズミを他の動物が食べてしまうことで思わぬ被害が出ることもある。また、そもそも、ネズミをはじめ外来種たちには、悪意がないのである。その駆除が非倫理的に感じられれば、批判の声が上がることもある。(日本でも最近、奄美大島のノネコ駆除反対に5万人の署名が集まった。)環境保護と、動物愛護はけして同じ立場にはない。守るべき自然の在り方が、同じ人間の間でも、まるで一致していないのである。ただそれでも、少なくとも自分は、本書の原題「RAT ILAND」ことアリューシャン諸島ハワダスク島のネズミ(侵入させたのは1780年に座礁した日本の漁船)を根絶したことは偉業であると思うし、ニュージーランドでわずか一桁まで減ったカカポ(フクロウオウム)が、現在100羽を数えられるまで回復したことは、とても嬉しく思うのである。

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生物多様性を束ねる食物連鎖、そのピラミッドはいかにして安定しているのか。頂点捕食者トッププレデターの不在でさらけ出す、その不安定の数々。ヒトデのいなくなった湾では、特定の貝が大発生して、他の種を追いやり、ラッコのいなくなった岸では、ウニが大増殖して、ケルプを食い尽くす。いくつもの事例をあげて、著者らが明らかにするのは、食物連鎖のピラミッドが、実は下位によって生物量を基底されるだけでなく、上位によって多様性をコントロールされているということである。「その地域の種の多様性は、環境の主な要素がひとつの種に独占されるのを、捕食者がうまく防いでいるかどうかで決まる。」そして、そのタガが外れると、ピラミッドは、いとも容易く瓦解してしまう。次点の捕食者を頂点として、同じピラミッドを維持することはできないのである。また、一度、崩れてしまったピラミッドを元に戻すのは並大抵のことではない。近年、アメリカのイエローストーン公園では、非常に注目される実験が行われている。ここでは、オオカミがいなくなったことで、シカが大繁殖し木々を根こそぎにしてしまった。そして、それでも増え続けるシカに打つ手は無く、政府はついに、カナダから代わりのオオカミを連れ込んだのである。結果は劇的であった。シカが減って、植生が戻り、動物相も豊かになったのだ。ただし、今のところはである。この実験の成否を、現時点ではまだ評価できない。生物多様性や、食物連鎖のピラミッドは、けして安定的なものではなく、むしろ壊れやすく移ろいやすい。そもそも、ありうべき自然状態を、人間に決められるのかという問題もある。ただ、今この瞬間も、地球上で多くの頂点捕食者が絶滅に瀕しているに際し、彼らへの敬意と畏怖をあらたにするものである。なお、サルの話が印象的だったので最後に引いておく。

「恐ろしい捕食者(ジャガー、ピューマ引用者注)から解放され――しかし、空腹に悩まされ――グリ湖のアカホエザルはもはや群れを作らなくなり、別々の木々で眠るようになっていた。接触がないため、毛づくろいもめったにしない。珍しく一緒にいると思えば、激しい喧嘩をして傷つけあう。赤ん坊ザルはまったく遊ぼうとしない。サルたちは日に日に痩せていく。子殺しが頻発する。そしてグリ湖のアカホエザルは、もはや吠えなくなっていた。」「ホエザルのお気に入りの木々さえも、サルたちに復讐しはじめていた。葉という葉を食べつくされた木が新たに出す芽には、苦くて吐き気を催させる毒素が多く含まれるようになった。朝食は服毒の時間となり、サルたちは哀れにもがつがつと新芽をむさぼっては、決まってそれを吐き出すのだった。表向きは捕食者によるトップダウンの支配から解放された彼らだったが、植物によるボトムアップの調整というはるかに残酷な時代に踏み込んでいた。」

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アウトサイダー・アートとは、美術教育を受けていない人々が制作した作品で、アートとして扱われるものを指す。日本では、知的、精神障害者あるいは、精神病患者のアートと思われることも多いが、アウトサイドとは、あくまで既存のアートの外側であって、心身の非定型ではない。だから、自分をはじめとした誰もが、アウトサイダー・アーティストになれる可能性をもっているといえる。とはいえ、よく知られた「シュヴァルの理想宮」のフェルディナン・シュヴァルや、「非現実の王国で」のヘンリー・ダーガーなど、突き抜けた個性があるのも、また事実である。そして、本書で紹介されている18人も、けして負けずとも劣らない個性の持ち主ばかりだ。その作品はどれも「極めて個人的な動機」で制作され、『見るものに「なぜ」「何のために」という思考さえ停止させてしまうほど解釈不能な独特な世界観』で構成される。はっきりいって、本人以外にその価値、意味を見出すことは難しい。しかし、その「制作にかけられた膨大な時間や尋常ならざるエネルギーの過剰さ」には敬服させられてしまう。そして同時に、羨ましく、また、心強くもなるのである。ためらうことなどない、自分たちも、もっと個性的であっていいのだと。アウトサイダー・キュレーター櫛野展正と歩く、アウトサイド探訪。「こんな生き方があったのか!」

(アウトサイダー・アートは、その制作者の生き様そのものである。ゆえに、その制作者たちと分ち難く結びついているのであり、インサイダー、いわゆる既存のアートが、ただの高額商品として、いっそ没個性的に扱われるのとも対照的であるかも知れない。)

「アウトサイダー・アーティストは自分の作品を他人に見られることを望んでいないのではないか?」「アウトサイダー・アーティストは見られることを欲している。ただし、特定の方法で。」「大英博物館やルーブル美術館に訪れて、その収奪の激しさに驚いたことがある方は少なくないだろう。植民地にあった巨大な列柱など、どうやって移動したのかすら分からない物体が「作品」として陳列されている。このように、アートヒストリーは略奪によって形成されてきた。おそらく、同様の事態がアール・ブリュットを巡って発生している。アウトサイダー・アーティストの作品を公共的な場に移動し、その行動自体を善行として誇ること。正義のアート。無謬のアート。残念ながら、略奪は進行中である。櫛野が行政の使用するアール・ブリュットという言葉ではなく、あくまでアウトサイダー・アートという言葉にこだわるのは、この略奪に抵抗するためだ。そのために、彼はクシノテラスという場のあり方を発明した。権力の名のもとに行われる略奪と暴力に満ち溢れた公共空間ではなく、アーティストの家の敷地内にありながら、可視化された場。半・公共的でありながら、半・私的でもある場。権力を否定するでもなく、私的空間に閉じこもるでもなく、両者の共存を可能にする実践の場。それがクシノテラスだ。」
解説=花房太一『世界を治癒する者』

https://togetter.com/li/1133189

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30年の長きに渡って贋作を描き続けた男の自伝。贋作といっても、すでに知られた作品を模造するのではない。あったであろう「埋もれた作品」を創造するのである。男は、ピカソ、ダリ、シャガール、名だたる巨匠を徹底的に調べ上げ、それになりきる。男の贋作は、ただ巨匠の筆致を再現するのではない。その精神の再来させるのである。実際、シャガールの娘に「これは本物に間違いありません。私は父がこのグワッシュを描いているのを見たのを覚えています」と言わせたほどである。男の贋作は、紛れもない傑作だったのだ。しかし、今日のアート市場において、その作品の価値は、なにより、ピカソ、ダリ、シャガールの名前にある。そして、それを権威づけるのは、画商や、鑑定家たちだ。そこに、ピカソ、ダリ、シャガールの精神は不在である。男は、自らがピカソ、ダリ、シャガールとしてあること、また、その作品がピカソ、ダリ、シャガールから離れてあることの、二重の疎外に自失する。2005年、ついに逮捕された男が抱いたのは、恐怖や怒りではなく、まず安堵であったという。魑魅魍魎のアート市場を駆け抜けた、波瀾万丈の一代記。

『俺の手や目は、ピカソやルノワール、マティス、さらにはダリの手であり目だった。みんなとっくに死んだあとだ。俺は彼らのように描くことを身につけ、そうして自分自身の絵を忘れ、贋作の迷宮にはまり込んで、自分を見失うほどになった。俺はもう自分が誰だかわからなくなっていた。しかし、ついに自分自身に戻れるのだった。偉大な巨匠の高みを忘れ、自分の足でうまく切り抜けられるようになるのだった。逮捕された日、俺は本当の画家になった。』

『俺は同じ贋作でも、何から何まで模倣したものと、「~風」の絵には大きな違いがあると思っている。正確な意味での模倣は、死んだものを生き返らせるのに近く、ほとんど病的な面がある。一つの絵には、その絵にしかない感情があり、それを再び作り出そうとするのは論理的に言っても不可能だ。同じイメージは再現できても、しかし魂、内面の力強さの再現は無理だろう。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」をもう一度作って、どんな意味があるだろう?巨匠風の絵を作るより、その絵を一線一線複写する方が、思い上がりもいいところだ。俺も模倣はしたことがあるが、俺が模倣で非難するのは、画家のオリジナルな作品と、私的な面を愚弄するものだからだ。その点、新しい作品を作れば、画家から奪うものは何もない。』

『司法は俺の贋作の一部を押収したが、しかし現在でもなお、「ラ・ガゼット・ドゥルオー」に俺の絵が載っているのを目にする。俺のアートはいたるところにあるのに、誰もそれを知らない。いまだから、言わせて欲しい。たぶん、少し誇張があるだろうが、俺はルノワール、ピカソ、マティス、ダリ、シャガール、モディリアーニ、フジタ、ヴラマンク、その他大勢の巨匠たちの作とされる、膨大な作品を制作した。しかし、そんなことは誰にもわからないだろう。それもそのはず、これらの絵はすべてもう贋作ではなく、本物になっているからだ。それらはいまや、俺が模倣した画家たちの作品になりきっている。これらの絵で俺ができる唯一の展覧会は、俺の頭のなか。そこでの俺はたったひとりの主催者であると同時に、たったひとりの訪問者、たったひとりの批評家なのだ。』

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イスラエル建国後、多くのパレスチナ人が難民となったが、国内に留まった人々も少なくない。また、この小説の主人公のように、近隣諸国に逃れた後、密入国して故郷に戻った人々もいる。しかし、パレスチナの地にあっても、イスラエル建国以前と同じ生活が送れるわけではない。主人公は、土地を追われ、家族を殺され、恋人を奪われながら、諜報機関の協力者としてイスラエルに仕える。あらゆる辛酸を甘んじて受けながら、それでもまだマシだったと、浅笑い軽口をたたく。「よかったよ、違うふうにならなくて!」祖国にあって、祖国を失った人々の暮らしを、ブラックユーモアで辿る悲楽観屋の半生。しかし、いくらあっけらかんと生きても、止むことのない矛盾と、果てしのない不条理は、とうてい人間一人の中に溜め込むことはできない。ついに主人公は、無辺の宇宙から飛来したという友に出会い、我々の頭上はるかへと旅立ってしまった。

『手を打ち鳴らし、歌い、歓喜の雄叫びを上げたい荒々しい衝動に駆られた。大声を張り上げて胸に積もった服従や恥辱、困窮や沈黙をすべて吹き飛ばしたい!「承知で、閣下」「ご立派で、閣下」「合点で、閣下」はもうたくさんだ。その時、わが心はこの胸から解き放たれ、鷲の群れが飛び交う高みを自由に飛ぶだろう。』

著者のハビービーは、ハイファに生まれ、イスラエル建国後も同地に留まったイスラエル国籍のアラブ人である。パレスチナ共産党員として国会議員も務めた。また、その墓標には「ハイファに残る」と刻まれているという。『ハイファに戻って』のカナファーニーが、イスラエルの外のパレスチナ人であったのとは対照的。本作は、同じく外のパレスチナ人である批評家エドワード・サイードに「パレスチナ文学の最高傑作」と激賞された。

『九三年のオスロ合意の後、訳者がナザレで会見した折にハビービーが、二国家共存を当初から唱えていた自分たちの主張が正しいとようやくPLOも理解したと言っていたのを思い出す。その時ハビービーは次の様に語ってくれた。「われわれパレスチナの共産主義者は当初から、イスラエルの存在は、そのあらゆる犯罪行為にもかかわらず、取り消せないと考えてきた。われわれは民主主義が他の民族の抹殺に走るような時代に生きているのではない。マムルークが十字軍を撃滅した時代、またアングルスでアラブ人が抹殺された時代に生きているわけではないし、アメリカでインディアンに対してとられたような問題の解決は不可能だ。われわれは民族の抹殺ではなく民族解放の時代に生きているのだ。われわれは理性的に、イスラエルは存続するのであり、仮にイスラエルの抹殺がわれわれの義務であるとしても、それは不可能であると考えて来た。そしてイスラエルの抹殺が可能だと信じたアラブ人たちは、われわれは二百年も三百年も待たねばならないと言ってきた。しかし民衆は待てない。人生はそういうものではない。パレスチナから離れたところにいる統治者たちには待つことも出来よう。しかしわれわれパレスチナ人は今日を生きたいのだ、明日だけでなく。」(訳者および岡田剛士氏による一九九四年一月のインタビューより)。』

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1948年2月、パレスチナのデイル・ヤシーン村で、ユダヤ人テロ組織による住民の虐殺事件が発生。これに端を発して、著者を含む多くのパレスチナ人たちが、近隣諸国へと逃れることとなった。パレスチナ人たちは、すぐに帰れるつもりであったが、同年5月、イスラエルが建国されると、パレスチナの8割が占領されるに至った。それから今日まで70年、イスラエルはパレスチナ人たちの一切の帰還を禁じている。表題作『ハイファに戻って』は、そんな最中にあって、1967年、ある政治的な思惑から帰還の叶った夫婦の物語である。20年を経た祖国の街はすでによそよそしく、かつての自宅には入植したユダヤ人夫婦が住んでいた。そして、なにより夫婦を突き放したのは、探し求めてきたはずの、生き別れの愛息であった。そう、彼はいたって立派なイスラエル人の青年となっていたのである。

「私達は、あなたを捜し当てられるという期待を持っていたのです。たとえそれが二十年後であったとしても。しかし、そうはいきませんでした。私達はあなたを見つけられなかった。将来捜しあてられるとも思いません。」

「あなた方はハイファを出るべきではなかった。もしそれができなかったのなら、いかなる代価を支払おうとも、乳呑児をベッドに置き去りにすべきではなかった。そしてもしこれもまた不可能であったというのなら、おめおめとハイファに帰ってくるべきではなかった。20年が過ぎたのですよ。その間あなたの息子を取り返すために何をしたのですか?もし私があなたの立場にあったら、わたしはそのために武器をとったでしょう。武力に勝る手段がありますか。なんて無力な人たちなんだ!20年間、ただ泣いていたのですか!涙では失ったものを取り返せないし、奇跡を起こすこともできないのです。」

著者ガッサーン・カナファーニーは、小説を執筆する一方、パレスチナ解放人民戦線のスポークスマンを務めた活動家。1972年、車に仕掛けられた爆弾により、暗殺された。享年36歳。

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1994年3月、37日間におよぶ漂流から「軌跡の生還」を果たした男がいた。しかし、その8年後、男は再び漂流し、今日まで還っていない。そして、その生に引き込まれるようにして始まる著者の彷徨。沖縄、グアム、フィリピン、寄せては返す波に、ほとんどおぼろげな足跡が見せるのは、その男の生ではなく、その島の性であり、その民の歴史であった。漂流を祖に持ち、漂流を伝統とする海の民と、南洋マグロ、カツオ漁の栄枯盛衰。二度漂流した男、本村実はいかにして、どのようにしてあったのか。「海という世界がもつ底暗い闇の奥深さ」に触れる、誰も知らない、知られようともしないの民の歴史の断片。探検家、角幡唯介の新境地。

「私が終止いだいていたのは、本村実は行方不明者となることで佐良浜という土地と海の倫理を貫徹することになったのではないかという思いだった。」

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セクシー登山部の、舐め太郎。「山ヤ」として相当の力量(日本で15番目くらい?)を持ちながら、あえて格下とされる「沢ヤ」を標榜する数奇者。しかし、それは「山ヤ」が「沢ヤ」より偉いのかという反骨精神の表れでもある。かつて、登攀とは、その頂きの天辺を踏むことにあった。しかし、より高く、より困難な(単独、無酸素等)それは、今日日もう無いのではないか。舐め太郎に言わせれば『企業のロゴ入りの服を着て登るなんてダサいことはやれない。重役風の男と握手をする写真をブログに載せ「登山家」「冒険家」なる職業を名乗っている男など100パーセント、パチモン』なのである。より高く、より困難な登攀など、もはや「山ヤ」の郷愁でしかない。舐め太郎が外道であることは、いっそ道を外れることで、世界にまだまだ、より面白く、より刺激的な登攀が残されていること、それを示すことにあるのだ。

巻末の角幡唯介の解説がとてもよい。
http://honz.jp/articles/-/42617
「どんなに行儀の良さを装ったところで、登山をはじめとする冒険行為一般は、反社会的であることから免れることはできない。」

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「生命とは何か」と問う時、「死」はけして切り離せない主題である。しかし、それはあくまで、生命はすべて「死」ぬということにおいてである。まさか、生命が「死」なないということから考えるとは思いもよるまい。「最強生物」と名高いクマムシ、そして実はそれより強いとされるネムリユスリカの乾燥幼虫の存在。他、摂氏122度の超高温、2万気圧の超高圧(地球上に存在しない)、濃度10%を越える高塩分(海水は3.5%)、毎時6000万シーベルトの強放射線(人間の法令で定められている上限は5万シーベルト)、40万Gの強重力(人間の上限は9G)、およそ信じ難い極限環境を、すまし顔でのさばる紛うことなき生命たち。著者の巻末見解、生命がエントロピー増大法則の中で、散逸構造をとりつつ、その増大を加速しているというのは慧眼。あらためて自己組織化の意味に思い馳せる。

2013年12月21日

読書状況 読み終わった [2013年12月21日]
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