人間の経済 (新潮新書)

著者 :
  • 新潮社 (2017年4月14日発売)
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『人間の経済』 宇沢弘文

最近、仕事でESGに関連するサービスのプロモーターを担うことになったため、ESGについて調べているが、どうも懐かしい感覚になる。その感覚を突き詰めると、学生時代に読んだ宇沢弘文氏の『社会的共通資本』に行き着くことがわかり、改めて宇沢氏の著作をもっと読んでみようと思い、本書を手に取った。
本書は、エッセー的な側面も強く、宇沢氏の過去の仕事や思想的な遍歴を追体験するような本である。宇沢氏は、稀代の経済学者であるとともにヒューマニストであった。なんでも計算範囲に含めようとするイメージの強い経済学者の中でもトップを走る宇沢氏が行き着いた結論が「大切なものは決してお金に換えてはいけない(p51)」ということであることは非常に興味深い。環境資本や、制度資本等の人間がこれまで社会で守り続けてきた社会的共通資本というものは、決してお金という単一の軸で推し量ってはならない。この一説を読んで、今同時進行で読んでいる内田樹氏の『レヴィナスの時間論』を想起した。レヴィナスのまた、なんでも一望できる光を当てて、統一的に物事を説明しようとする西洋哲学へのアンチテーゼともいう形で、他者論を展開した人物であるからである。敬虔なユダヤ教徒であるレヴィナスは、神の思考を人間が理解できるような尺度で推し量ることへの自制を求める。この世には我々の記号体系や言語が全く通じない他者があり、それらを他者のまま受け入れることの哲学を、レヴィナスは展開したのである。まさに、環境資本や制度資本などを、お金という統一的な尺度で推し量ることは、デカルトやベーコンにはじまる西洋の近代哲学の帰結であろう。そうした中で、我々の尺度では測れない社会的共通資本を、そのまま受け入れることを宇沢氏は我々に求めているように感じる。
しかしながら、全くの他者と言う形では、あさましい人間には対策をすることができない。環境への負荷を一定のレベルで資本主義の世界に落としこむ必要性もある。そんな中で、まさに2022年の現在、カーボンプライシングやカーボンニュートラルが叫ばれる30年以上前に、宇沢氏は炭素税のアイデアを世界に発信している。ただ、炭素税を課税することは産業構造の形もあるため、発展途上国に対しての平等に反するため、それぞれの国が持続的に発展できるよう係数をかけた「比例的炭素税」であるべきとも述べている。さらにその課税によって集まったお金を大気安定化国際基金として、一定の割合で発展途上国の熱帯雨林の維持、農村の維持、代替エネルギーの開発費用などに充てようというアイデアも展開している。この宇沢氏のアイデアは、エネルギー消費大国であるアメリカに否決され、排出権取引という形に変えられてしまう。排出権取引は、そもそもの排出権の割り当てに恣意性が働くゆえに、環境への対策とは異なる国力のある大国に有利に働いてしまうこともあり、根本的解決にはならないという点を宇沢氏は指摘している。現在のESGに関する動きとみると、よりミクロなビジネスの領域で、環境負荷という形で外部化されたコストをどのように価格に反映させるかという議論がさかんになっているところを見ると、宇沢氏の先見性には驚くばかりである。私はビジネスマンであるために、なんとかこのようなミクロなビジネスの枠組みの中で、環境負荷を価格に反映させる動きを加速させたいと考えているが、そのような思想的源流はやはり宇沢氏のアイデア(特に『自動車の社会的費用』)にあると思う。次回は、『環境問題を考える』と読もうと思う。巷のESG解説本も興味深いが、GWこそこのような骨太の本を読んでみたいと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年5月8日
読了日 : 2022年5月1日
本棚登録日 : 2022年5月1日

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