ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析 (文春文庫 う 19-10)

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  • 文藝春秋 (2011年4月8日発売)
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映画の構造分析

内田樹13作目
映画について話す前に、人は物語を作る動物であるということを述べる。あらゆることは物語として語られる。ニュースも物語であり、知るということも自分が納得できるような物語を作ることともいえる。
知るということは今まで今がわからなかったことの意味が分かるということであり、意味が分かるということは、断片的なものがある物語の文脈に収まったということである。物語抜きの知は存在しないのである。
そして、人間が作る物語には一定の構造がある。例えば、良い人を語るには悪い人(心のささやき)を語らなければならないということは構造的に不可避である。よって、人は限られた構造の中でしか思考することができないということである。
映画についてバルトのテクスト論を援用すると、映画とは唯一の意味を発する語の連鎖ではなく、多次元的な無数の文化の発信地からなる引用の織物なのである。つまり、映画とは監督が解釈の正解を持っている固定化されたものではなく、観客の様々な解釈の中で生成されていく活動的なものなのである。解釈という作業の中で、作中で提示される意味は重要である。意味には二種類あり、「明確な意味」と「不明確な意味」がある。「明確な意味」は解釈可能性が低く、監督によって提示される解釈と観客による解釈が一致しやすいもの。「不明確な意味」は解釈可能性が無数にあるとともに、解釈可能性がない。どうも腑に落ちない意味である。文脈から明らかに孤立した意味にたいして、観客はうまく解釈することができないものである。バルトは、この「不明確な意味」の中に、一種の開放性と生産性を見出した。それはエンドマークに向かって直線的に収斂していく中央集権的、中枢的、予定調和的な物語の進行に混ざりこみ、それを挫折させようとする脱―中心的、非中枢的なものである。そして、バルトはむしろこの脱中心的なものに対して映画の本質を見出した。ヒッチコックのマクガフィンというものはそれに近い。マクガフィンとは、映画の中で、それが存在すること、それがなんであるかという同定を忌避することで物語の中枢を占め、物語を支配しているものである。マクガフィンは物語の中心ですべての登場人物を強力にコントロールする種は威力を持ちながら、それがなんであるかはわからない、むしろわかることに意味はないという機能する無意味なのである。まさしく「桐島、部活やめるってよ」の桐島はマクガフィンの典型であり、桐島は登場人物を支配しながら、最後まで姿を現さない中心的な無意味なのである。

上記のことが印象に残った。

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感想投稿日 : 2016年4月25日
読了日 : 2016年4月25日
本棚登録日 : 2016年4月25日

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