「忘却の技術を学校で教われるものなら、それはどんな記憶術よりはるかに貴重な贈り物となるはずだ」
昔、本を読んでいて気に入った言葉に出くわすと、それをカードに書きためていたことがあった。今ならさしずめパソコンに打ち込んで自在に検索できるようにするところだろうが、そんな習慣は今はない。それでも、ああと思うような言葉に出会って忘れないように保存しておきたいという思いにかられることはある。
神様が人間をお造りになったときに、なぜdeleteキーをつけ忘れたのだろうと思う。忘れたいけど忘れられないことをボタン一発で記憶から抹消できたらどんなに人生は救われるだろう。でも、間違えてとっておきたい大切な記憶を消してしまったら。そう思えば、そんなあぶない装置を装備しておかなかったのは神様のやさしさなのだとも思う。
記憶というのは不思議なものだ。何を憶え何を忘れるか、ぼくらはどうやって選別しているのだろう。ずっと忘れていたことを何かの拍子に思い出すこともある。忘れるということは引き出しにしまわれているだけであり、無くなってしまっているわけではない、という説明もよく耳にする。パソコンのデータをdeleteしても、FATのインデクス情報が失われているだけで、内容はメモリにちゃんと残っている、ようなものだろうか。
忘れられない本当に大切なことは、ちゃんと憶えているものだ。もしそれを忘れてしまっているとしたら、それは実際はずっと憶えているに値しないことなのだ。そして悲しいことに、本当に忘れてしまいたい重大なことも、けっして忘れられないものだ。もし簡単に忘れられるとしたら、それもまた実際は大したことではないのだ。
記憶術の本はたくさんあるけれど、忘却術の本はない。憶えかただけ教わって忘れ方を教われないというのは、とんでもない悲劇ではないか。
マクロイを読んだのは2冊目。相変わらず細部にわたる文章、人間の造型はとてもうまい。冒頭のようなハッとする成句にも出会える。プロットと内容は瞠目するほどのものではないし、現実的といえるのかどうかも含めて、採点すれば星4個でもちょっと甘いかなというところだろう。だけど、50年以上も前の作品なのに古さをまったく感じさせず、「図書館は自伝をフィクションとして分類すべきだ」と始まってぐいぐいと読み手を引きこむ手腕の確かさには感服するよりない。
- 感想投稿日 : 2012年12月31日
- 読了日 : 2010年6月19日
- 本棚登録日 : 2012年12月31日
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