本当の翻訳の話をしよう

制作 : 村上春樹  柴田元幸 
  • スイッチパブリッシング (2019年5月9日発売)
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感想 : 41

 二葉亭は、どうしてもやっぱり江戸を引きずってしまい、江戸からなんとか抜け出したいと思った。で、どうしたかというと、ロシア語で少し書いてみたんですね。
 ご存知の方も多いかと思いますが、村上春樹さんも第一作『風の歌を聴け』の最初の数ページを英語で書いていました。まだ『風の歌を聴け』というタイトルもついていなかった時点で、生まれて初めて小説を書いてみたはいいが、いかにも日本文学という感じがして嫌だなあと思った村上さんは、オリペッティのタイプライターを引っぱり出してきて、書き出しの数ページを英語で書いてみた。そうすると、凝った表現を使えず、シンプルに語らざるをえない。それで日本文学臭さを抜くことができて、自分のスタイルに行き着くことができたと村上さんは言っています。二葉亭が1860年代にやったことを、村上さんは1970年代にやっていた。2人とも、彼らからみて手垢の付いたスタイルから逃れようというときに、まず外国語で自分の文章を書いてみることを始めたというのは興味深いことだと思います。(pp.96-97)

 だからこそ、この文章は古びていない。なぜかというと、言文一致運動の結果、何が変わったといって、「漢語は古くさい」という意識が生じたことが最大の変化です。それまでは、「いい文章」「格調高い文章」であるためには漢語満載というのが一番てっとり早かった。聖書文誤訳は幸か不幸か漢語に頼らなかったから、今でも瑞々しい文章になっているというわけです。(p.104)

 一単語単位で見れば変えてしまっていても、フレーズ単位で見ればその方が訳文が活きる、だから変える。語順を入れ替えたり、とにかく何か小さなものを殺すのはもっと大きなものに仕えるためです。これが翻訳者のモラルとして一番大事ですよね。訳文が原作より劣らないように訳者は努めるべきですけれど、原作の上を行ってはいけません。(p.116)

村上 僕は、大事なのは礼儀じゃないかと思う。チーヴァーの小説に出てくる登場人物の多くは、礼儀をわきまえている。どの小説でも基本的な礼儀正しさを感じるのです。その礼儀が話の暗さを救っているんじゃないかと僕は感じる。礼儀正しい小説はあんまりないんですよね。
柴田 礼儀正しさというのは登場人物の振る舞いのことですか。
村上 上手く言えないんだけど、文章を書く姿勢というか心持ちというか。
柴田 ヴォネガットがディーセンシー(decency=まっとうさ)という言葉を使いますが、それとも違いますか。
村上 似ているかもしれない。チーヴァーの小説では泥棒に入る話でも、盗み方が礼儀正しい。そういうところじゃないかな。お金に困ってコソ泥しても、ある種の礼儀正しさというか律儀さがある。浮気しても割に礼儀正しい。悪徳とか背徳とか、そういうものが顔をのぞかせても、なぜかドロドロしない。常に最低限のモラルが守られている。僕はそういうもラリスティックなもの、あるいは礼儀正しさは意外に有効性を持つと思う。(pp.175-176)

柴田 『1973年のピンボール』の冒頭にもこの一節のエコーが聞こえます。
村上 この『グレート・ギャッツビー』という小説の最初の部分は悲しみに満ちている。切なさがある。その切なさを訳文にも出したいなと思ったんです。フィッツジェラルドは小説の中でニック・キャラウェイという語り手に自分を投射していると同時に、ジェイ・ギャッツビーという派手な、ミステリアスな人物にも自分を投影している。その両方に投影しているのがこの小説なんです。ここに出ているのは、ごく平凡なミネソタの田舎から出てきた1人の貧しい青年がニック・キャラウェイに投射している一種の悲しみとか切なさ。(p.264)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年1月26日
読了日 : 2020年1月10日
本棚登録日 : 2020年1月10日

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