新史 太閤記(上) (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1973年5月29日発売)
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感想 : 168
5

【感想】
天下人・豊臣秀吉の人物史。
豊臣秀吉の生き方は、現代でも十分に通用する処世術だと思う。

愛嬌があり、人に可愛がられやすい。
敵を作らない。
人が嫌がることを率先して行なう。
長期的な視野を持ち、見返りを求めない。

もちろん秀吉はただのバカではないし、また都合のいいだけの人間ではなく、先を見据えて日々生きている。
言動ひとつとっても充分に頭の中で考えた上で慎重に行いつつ、その雰囲気を周りに気づかせない。
古今東西、自分の意見を通すことに必死な人間が多い中、「猿」の処世術は遅咲きになるだろうが、必須なテクニックであると思う。

物語の終盤で、合理・完璧主義の信長と猿の差が如実に表れていき、信長の限界に猿自身が気づく場面があった。
人は理屈だけでは動かない。
入念な準備と、愛嬌と、柔和さなどを持ち合わせて行動する大切さに気付いた1冊でした。


【あらすじ】
日本史上、もっとも巧みに人の心を捉えた“人蕩し"の天才、豊臣秀吉。
生れながらの猿面を人間的魅力に転じ、見事な演出力で次々に名将たちを統合し、ついに日本六十余州を制覇した英雄の生涯を描く歴史長編。
古来、幾多の人々に読みつがれ、日本人の夢とロマンを育んできた物語を、冷徹な史眼と新鮮な感覚によって今日の社会に甦らせたもっとも現代的な太閤記である。


【内容まとめ】
1.尾張の地形による国民性
道路が多く、水路も多い。自然の勢いで商業が発達してゆく。
また、地勢的に商売しやすいため、人間が利にさとくなり、投機的になる。

2.猿は、恩賞において侍ではなく商人である。
新恩を頂戴して信長に損をかけた以上、敵地を少なくとも千貫は切り取り、信長の出費をゼロにしつつ頂いた500貫分を信長に儲けさせなければならぬ。
信長から禄という資本(もとで)を借り、その資本によって信長を儲けさせることのみ考え続けた。

3.「わしは人を裏切りませぬ。人に酷うはしませぬ。この二つだけがこの小男の取り柄でございますよ。」
猿は人懐っこく、かつ信義にあつい。
人懐っこさと信義のあつさは猿の魅力であり、最も重要な特徴である。
もし猿に人懐っこさと信義のあつさがなければ、おそるべき策略・詐欺・陰謀の悪漢になったであろう。
ところがそれらの悪才を猿は、その天性の明るさと信義の厚さという二点の持ち前を持って、物の見事に美質に転換させていた。

4.「智恵がある者は心術がつねに清々しくあらねばならぬと常々自分に言い聞かせている。俺には毒気がないぜ」
猿は自戒していた。一歩誤らぬために猿にはタブーがあった。家中の侍の批評をしないことである。

5.人々は猿が信長をあやすと嫉んだが、あやしているつもりなどない。
信長は史上類を見ないほどに人間に騙されない男であった。
猿は騙すあやすの手を用いているつもりはなく、ただ心魂をこめて信長のよき道具になろうとしているにすぎなかった。
また、それ以外の雑念がなさそうなことを、誰よりも信長が見抜いていた。

猿が天下に対し別念を起こすに至るのは、信長の死後のことである。


【引用】
p13
三河には、徳川家康とその家臣団の気風で代表されるような「三河気質」というものがある。
極端な農民型で、農民の美質と欠点を持っている。
律儀で篤実で義理にあつく、戦場では労をおしまず命をおしまず働く。
着実ではあるが、逆に言えば、投機がきらいで開放的ではなく冒険心に乏しい。印象としては陽気さがない。

が、隣国の尾張はまるで違う。地形が違うのである。
道路が多く、水路も多い。自然の勢いで商業が発達してゆく。
また、地勢的に商売しやすいため、人間が利にさとくなり、投機的になる。


p62
「猿殿は、なにになりたいの?」
「何にでもよい。俺の夢は、いつでも腰の袋に永楽銭が二十枚も入っていて、友だちが飲みたいといえば即座に振舞ってやり、食いたいといえば躊躇いなく奢ってやれる身分になりたいことだ」
「つらつら思うに…人に奢ってやるほどの快事はないような気がする」


p178
猿は、いかに美人であっても自分と同列の家の娘やそれ以下の階級の娘には何の魅力も感じない。
この心情は、猿の出生の卑しさに繋がるであろう。
加えて猿の向上心の激しさや、憧憬心の強さをも表していた。


p212
「殿様に御損をかけた。倍の千貫は稼ぎ取らねばならぬ」
侍の常識から見れば、ひどく滑稽な思想であった。
普通の家士なら、功名をたてて禄を得ればそれだけで侍の名誉をあげたとして自足するところであり、そういうことで主従関係は成立している。

しかし猿は、この点において侍ではなく商人である。
新恩を頂戴して信長に損をかけた以上、敵地を少なくとも千貫は切り取り、信長の出費をゼロにしつつ頂いた500貫分を信長に儲けさせなければならぬ。

猿は信長から禄という資本(もとで)を借り、その資本によって信長を儲けさせることのみ考え続けた。


p226
・竹中半兵衛との面談にて
信長が英雄であるかどうかはわからない。
ただ信長は、おそろしく仕事好きで、家来についても仕事をする者のみを好み、家来を愛憎したりすることをせぬ。
能ある者を好み、その好む度合いは馬を愛するよりも甚だしい。


「私は信長を嫌っている。足下は信長が士を愛するといわれるが、あの態度は愛するというより士を使っているだけだ。」
「貴殿ほどのお人のお言葉とは思えませぬ。愛するとは、使われることではござらぬか?」

なるほど、そうであろう。
士が愛されるということは、自分の能力や誠実を認められることであろう。
理解されて酷使されるとことに、士の喜びがあるように思える。


p257
「わしは人を裏切りませぬ。人に酷うはしませぬ。この二つだけがこの小男の取り柄でございますよ。」
猿は人懐っこく、かつ信義にあつい。
人懐っこさと信義のあつさは猿の魅力であり、最も重要な特徴である。

そのくせ、猿は調略の名人というべき才能の持ち主なのである。
もし猿に人懐っこさと信義のあつさがなければ、おそるべき策略・詐欺・陰謀の悪漢になったであろう。
ところがそれらの悪才を猿は、その天性の明るさと信義の厚さという二点の持ち前を持って、物の見事に美質に転換させていた。


p293
(佞臣とおれとは、きわどい差だ)
だから、自戒していた。一歩誤らぬために猿にはタブーがあった。家中の侍の批評をしないことである。

「智恵がある者は心術がつねに清々しくあらねばならぬと常々自分に言い聞かせている。俺には毒気がないぜ」

単純な利家は、猿の心の朗らかさに酔ってしまい、内心感心し、あとで人にも言いふらした。
「あの男を憎むは憎み損よ、憎めば憎むほど無邪気によろこぶわ」と。
人も呆れ、あまり悪口を言わなくなった。


p350
猿は、信長を研究しぬいていた。
信長は、部将どもが独断専行することを憎み、かつ同時に、独断専行せぬことを憎む。
問題によっては相談せずに事を運んでしまい、問題によっては信長にしつこいほど指示を仰いでその厳重な指揮下で動く。

人々は猿が信長をあやすと嫉んだが、あやしているつもりなどない。
信長は史上類を見ないほどに人間に騙されない男であった。
猿は騙すあやすの手を用いているつもりはなく、ただ心魂をこめて信長のよき道具になろうとしているにすぎなかった。

また、それ以外の雑念がなさそうなことを、誰よりも信長が見抜いていた。
猿が天下に対し別念を起こすに至るのは、信長の死後のことである。


p522
(信をうしなえば、天下が取れぬ)
というのが、藤吉郎の持論であった。
ただでさえ織田家の独善と功利性が不評判になっているのに、またまた悪例をつくって天下に喧伝されてしまえば、このあとどんな事態が起こるかわからない。

そもそも、官兵衛が苦心して仕上げた播州における懐柔外交が一挙に崩れたのは、豪族たちのなかにひろがっていた織田家に対する不信感であった。

(…これが、この)
と、肚のなかで不逞のことを思った。
これが信長という天才の限界ではないか、ということだ。
この天才は戦略的功利性のみを貴しとし、重視し、心配りを常に軽視し続けている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2019年2月27日
読了日 : 2019年2月27日
本棚登録日 : 2019年2月27日

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