舞姫 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1954年11月17日発売)
3.31
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本棚登録 : 904
感想 : 71
4

1950~51年にかけて「朝日新聞」に全109回で連載。
終戦5年後におけるインテリ、比較的上流に近い家庭の、父ー母(ー過去の恋人)ー娘ー息子の関係が描かれる。
父母世代は40歳前後、子世代は20歳前後。
てことは親世代は性的にまだお盛ん、子世代はむしろ性的には開花直前の趣き。
川端康成は当時50歳くらいなので、干支ひとまわり下世代を想定しているのだろうが、例の如く自分を反映させなければ書けなかったバタやんだから、矢木は半分は作者自身だろう。
作品全体は新聞に連載されただけあって昼ドラ的な通俗小説。
新時代のご婦人の内面ってこうですよー、とか、上流階級の「お不倫」ってこうですよー、とか、子世代のちょっとしたモヤモヤってこんなんですよー、とか。

深いか浅いかと二分するならば、決して深いわけではない。
と思うが、個人的には思うところがいくつかあった。

まずは川端が30代から40代にかけて書き継いだ「雪国」にて、視点人物島村はダンスの評論家だったというのが、本作に繋がっている。
というか川端は徹頭徹尾オンナを視覚的に愛でるのが好きで、舞踏やダンスは興味の先に自然に存在したのだろう。
(視覚芸術への耽溺は澁澤龍彦を連想させる。)
(エドガー・ドガのバレリーナの絵「踊りの花形」で、奥のほうにタキシードの男の顔を除く身体が描き込まれているのも、連想。)

次に、波子と夫の、内面の書き込み具合。
川端は非マッチョな、むしろ当時としてはキモオタな視点で執筆していたと思うが、そんな中にある家父長的な視点はどうしても、ある。
が、本作ではむしろ家父長たる矢木の内面を、ほとんど記述しない。
謎のままにしているのである。
この矢木、経済的にも妻に依存せざるを得ず、家庭生活においても大国柱とはなれず、じゃあどうするかといえば、浮気しているかもしれない妻に対して、息子娘の面前で皮肉を言うしかないのだ。
この造詣の情けなさ……他人事じゃないと感じてしまった。
川端自身は文豪だし社交も如才ないが、底の底にはひねこびた、分断内でもマッチョを発揮している周囲の面々に対する屈折した思いがあったろう。自身で孤児根性と採り上げるくらいだし。
以下twitterよりコピペ。

新年の二日には川端家では賀客を迎へるならはしである。皆の談論風発のありさまを、一人だけ離れて、火鉢に手をかざしながら黙つて見てをられる川端さんに向つて、故久米正雄氏が急に大声で「川端君は孤独だね。君は全く孤独だね」と絶叫するように云はれたのをおぼえてゐる。-1956年4月「永遠の旅人」

このへんに川端康成の魅力があると思われる。キモオタなのだ。
私自身も妻に対して真正面から対立できず、皮肉を放って唇の端を歪めることでしかコミュニケーションできていないので、全然他人事じゃない。
また、矢木は、今は戦争と戦争の間に過ぎないよ、と言う。
ポストモダン世代にとっては、予期につけ悪しきにつけ長い戦後を暮らしているが、1899年生まれは思春期に第一次世界大戦を見聞きし、中年期に第二次世界大戦を体験した。
そりゃ自身ではどうにもならない戦争が、いつ降りかかってもおかしくない「間近の災厄」と思われて仕方ないのだろうな、と想像できる。
中井英夫三島由紀夫澁澤龍彦は思春期に第二次世界大戦を浴びた世代だが、その上には太宰治が、川端が、さらにいえば夏目漱石や森鷗外やがいたのだ、と、思いを馳せるきっかけにも、なった。
世代論はいくらでも思いつくし、芯を食っていなくてもそこそこ形が整えられるので便利なものだが、たった10年しか年の差のない太宰治の「斜陽」の直治を、どうしても対にして考えてみたくなる。
(例の太宰の手紙辺りなら、「上がらんとする先輩」と「上がり切れぬ後輩」という構図かしらん。)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学 日本 小説 /古典
感想投稿日 : 2023年2月13日
読了日 : 2023年2月13日
本棚登録日 : 2018年4月24日

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