記録によれば2006年6月に読んだことになっているが、それは再読で、たぶん大学生のころにハードカバーの単行本で初読だった。
文庫を手に入れたから嵩張るほうは売っちゃおうという判断をした馬鹿め>自分。
なぜなら萩尾望都の長いキャリアの中でも、あまり極端なことは言いたくないが、おそらく相当繊細な絵柄の時期だったので、その細い描線を見るには大判のほうがよかったのに。
また後書きが収録か未収録かといった違いもあるので、慎重にしろ>自分。
何よりも強調したいのが、ラグトーリンというキャラクターの造形の美しさ。
「ラグトーリンの歌をお聞き 結晶風 闇の星 金銀の四角三角──無限角 民人たちは朝を待つ」
書き写すだけでも溜め息の出る言葉と同時に描かれるのは、幼いんだか成熟しているんだか男なんだか女なんだか神なんだか人間なんだか分からない、そして最後まで判然としない人物。
伏目もいいし、きっと睨むような眼もいいし、背丈や服装も素敵。(なんでも萩尾望都のSFにおける砂漠っぽい衣装はこの作品が最初なんだとか。)
また、おそらく主人公と思われるマーリーが、決して唯一の存在ではなく、1号、2号、3号と増えていくあたり、連載されていた「SFマガジン」に合わせた難解さ、というか、SFリテラシーに合わせたものなのだろう。
感情移入しながら読むというよりは、読み手が今いる現代日本など眼下にもない遥か遠く、さらに遠く、という志向。
なんとなく山尾悠子の「ムーンゲイト」の水蛇と銀眼を思い出す。
山尾悠子も1980年前後にSF界隈で活躍していたので、この連想も無為ではないだろう。
また、マーリーが「シュタインズ・ゲート」「魔法少女まどか☆マギカ」かくやのループに嵌り込むが、これは素人が影響関係を探しても無駄なくらい過去からあった想像力が、各時代にメルクマールとして現れているだけなんだろう。
ところで、よく小説や漫画や絵画から音楽を感じたという感想を見聞きするが、個人的には音楽メディア以外から音楽をまざまざと感じた経験はほぼない。
もちろん本作でも、たとえばラグトーリンやエロキュスの歌をまざまざと聞いた、とは書かないけれど、
ミューパントーが発した、波のような輪のようなボイスは、見えた、を越えて、聞こえたような気がしないでもない。
これは萩尾望都の絵が凄いのと同時に、リザリゾという「短命」種の怒りなんだか残虐なんだか悲しみなんだかに無感動ではいられなくなった自分がいるから、だとも思う。
最後にまたラグトーリンのよさを書きたい。
ラグトーリンのラストのコマで、あの顔、あの表情、あの首に手を置いた角度、すべてが的確に「私は偏在して、見ているよ」ということを表している。
ここまで言葉に頼らない表現が紙に描かれ、読み手が自身の中に再現できる言葉が詰まっている表現、というのは奇蹟的なことなのではなかろうか。
萩尾信者には気を悪くされるかもしれないが、やはり極端なことを言えば、ある種の頂点なのではなかろうか。
- 感想投稿日 : 2021年9月21日
- 読了日 : 2018年7月16日
- 本棚登録日 : 2018年7月16日
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