レキシントンの幽霊 (文春文庫 む 5-3)

著者 :
  • 文藝春秋 (1999年10月8日発売)
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1996年11月に文芸春秋社から出版された、村上春樹さんの短編集です。
7つの短編が入っていて、どれも1990~1996年に発表されたものです。
僕は全体に好感を持てて、面白くするすると読みました。

1996年というと、司馬遼太郎さん、渥美清さん、遠藤周作さん、藤子F不二雄さんが亡くなった年ですね。
テレビドラマでは「秀吉」「ロングバケーション」「古畑任三郎・2ndシーズン」などが流行ったんですね。
前年の1995年に、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件&オウム真理教逮捕事件、Windows95発売、沖縄の米兵少女暴行事件&反基地運動の激化、が起こっています。
2014年現在から考えると、大まか20年前。
まだまだ、「勝ち組」「格差社会」という言葉が出回っていません。
まだ(殆ど)誰も携帯電話を持っていなくて、電子メールも普及していませんでした。
固定電話、ファックス、ポケットベル。衛星放送は始まっていましたが、CSとかは無かったですね。
まだ日本代表はワールドカップに出たことが無くて、さくら銀行があって、富士銀行がありました。
「ストーカー」という言葉が(たぶんアメリカで数年前から発生していたのでしょうが)OL殺人事件をきっかけに使われるようになった年です。
1997年には「ストーカー・誘う女」というテレビドラマが流行っています。
個人的には1996年は、会社員として給料をもらい始めた年として、懐かしく思い出されます。

と、いうようなことが気になるのは、少なくとも僕にとっては、村上春樹さんが「同時代の小説家さん」という感じがするからです。
どこかしら、そういう感慨を抜きにしては味わえないところが、あります。

短編集「レキシントンの幽霊」。

①「レキシントンの幽霊」
~在米の日本人小説家が、友人の留守宅で幽霊を見た、というお話~
②「緑色の獣」
~若妻さんが、突如訪れた不気味な緑色の獣と闘う?というお話~
③「沈黙」
~少年時代に理不尽な学校でのいじめに苦しんだ男の回想~
④「氷男」
~「氷男」と恋愛して結婚したけど、なんとなく上手く行かなくなる女性のお話~
⑤「トニー滝谷」※映画になりましたね。未見ですが。イッセー尾形さんと宮沢りえさん。監督が市川準さん。いつか、観てみたいです。
~孤独に生きてきた男性が、ようやっと結婚するけれど、服を買わずにいられない奥さんだった。その人が事故死してまた孤独になる話~
⑥「七番目の男」
~子供の頃に津波で友人を亡くした男が、それを気に病んで苦しみ続けた年月の回想~
⑦「めくらやなぎと、眠る女」
~会社を辞めて実家でふらふらする若い男が、耳が悪い従兄弟の少年の付き添いで病院に行きながら高校時代の友人の彼女を思い出す話~

の7編が入っています。
僕が好きだったのは、「沈黙」「トニー滝谷」「七番目の男」でしょうか。

特筆して言うと、短編「沈黙」。
ネットで見ると、全国学校図書館協議会から「集団読書用テキスト」として発売された、とあります。
むべなるかな、それに値する素敵な小説です。
いじめ、という集団心理への明確な批判、いじめる個人よりも、その流れに身を任せる大勢の方に、許せなさを感じる、と明言されています。
まったくもって、SFファンタジックな部分はありません。
村上春樹さんなんて興味ないような人でも、これだけは読んでみたら、と思います。特に若い人ほど。
僕はとっても好きな短編でした。
また、「七番目の男」は、単純に津波で失われた人命、というだけで、2011年の東日本大震災を想うと、
天災による喪失を経て、どう暮らしていくのか、というところを想わされます。
阪神淡路大震災で、地元が被災した村上さんの心象風景を、ちょっと勝手に想像してしまいます。

他も嫌いだった訳ではありません。
全体に、近作の「色彩の無い多崎つくると、彼の巡礼の年」のように、「過去に大事な何か、(愛する人とか)を失ってしまった人の喪失と再生の物語」という、
宣伝文句をつけられそうな味わいのお話が多かったですね。拡大解釈すれば、①③⑤⑥⑦が、そう言えそうです。
ただ、どれも、まあ、あらすじはあまり魅力を伝えられないくらい、やはり文章表現の巧みさで読み切らせてしまう。
ちょっとした、「~~~は~~~のようだった」「まるで~~~だった」みたいな語り口が、僕は好きです。
それと、ぎりぎりの省略法っていうか。書かれていないけど想像で隙間を埋めちゃう読者の生理との、ツバぜりあいの快楽みたいなところもあります。

ムツカシイ解釈は抜きにして、村上春樹さんの小説世界で言うと、
「羊男が出てきたり、双子の姉妹が出てきて良く判らないけどベッドインしたり」
というような、なんていうか、リアリズムから遠い地平線に拉致監禁されるような持ち味、というのがありまして。
(上記の例事態で、初期村上作品しかあまり良く知らないことがバレてしまいますが)

それが好みとしてアリか、それとも興ざめか、というところが、理屈抜きで村上春樹さんの小説が好きか嫌いか、という分かれ道の一つだと思うんです。
ソコん所で言うと、僕が特に好きだった、「沈黙」「トニー滝谷」「七番目の男」の三作品は、どれも、割とリアリズムなんですね。
この辺は僕の好みです。
たとえて言うならば、僕はオーネット・コールマンさんの音楽は好きなんですけど、特に好きなのは「サムシング・エルス!」とかの超初期なんですね。
前時代の枠組みからまだ脱し切れてないけれど、そこから脱出する境界線でもがいているようなあたり。それがスリリングな気がします。
まあそういうのも、また数年で好みが変わっていくものなんですが。

最近また村上春樹さんの小説が面白いなあ、と思っています。きっかけはたまたま去年「多崎つくる」を読んだことなんですけど。
村上さんの小説世界の味わいっていうのは、

「日本的な囚われ方から逸脱したい精神」「アメリカ的なものの考え方、言葉への憧憬」「詳しく知っているが故の、アメリカ的な事柄への批判精神や諦め」
「やっぱり日本語で、日本人であるという歴史性への引っ張り」「でも過去とか歴史風土に引きずられたくない、そんなことで納得したくない、根無し草的な浮遊感とか孤独感」
「内省的な佇まいと思索性、そして個人として世の中と対峙するときの、肉体の鍛錬含めた強さの肯定」

とか、いろいろな感じを、僕は受けます。そのどれもが圧倒的に共感できる訳ではないんですが。

ただ、今年去年に読み直したときに、40歳を過ぎた僕が受けるのは、「ああ、文章が旨いなあ、気持ちいいなあ」ということですね。
そして、どれだけ非現実なファンタジックな想像と創造の世界に飛んで行っても、
「ひとりの自分が、大勢の世の中さんと摩擦して生きていくこと」みたいな強靭な背骨というか、ある種のプライドというか、勇気というかマッチョイズムというか、
そこは恐らく、煎じ詰めて言っちゃうと、ニーチェ的な俗悪大衆への嘔吐を伴う嫌悪感というか見下し方というか、
そういうものがあるなあ、とは思うんですね。
ただ、そこにある種の、そう思って佇んでいる自分への含羞とか、自己批判とか、ためらいとか、諦めとか、そういう湿度みたいなものが必ずあります。
そういう割り切れなさみたいなもの、が、好きなのかも知れません。
それにまた、近年の小説は、「未来を(恐らく自分が死んだ後の時間も含めて)考える、そのために過去を意識する」といった、時間の連続性っていうか。
平たく言うと、「僕たちはどこから来て、どこに行くのか」という意識が増している気がします。そういう年齢の重ね方の味わいは、結構嫌いじゃなかったりします。

そういう中で、短編小説っていうのは、その何かしらの味わいを特化したようなシンプルな肌触りがあって、面白い。
それに、文章のたくらみというか愉しさが、なんだかハッキリと堪能できる気がします。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本:お楽しみ
感想投稿日 : 2014年5月25日
読了日 : 2014年5月25日
本棚登録日 : 2014年5月25日

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