臨床心理学で博士号を取った著者が、家族を養える給料がもらえて、なおかつ現場でカウンセリングがしたい!という条件で辿り着いた場所。それは沖縄の精神科デイケア施設だった!しかし、そこで待ち受けていたのは「居るのはつらいよ」という現実。直面した現場環境において、ケアとセラピーの本質へと深く潜っていく。
著者の実体験や臨床経験、調査した内容を踏まえながら構成されるエッセイ風な学術書。ユーモアあふれる筆致でとても読みやすい。患者さんのプライバシーもあって事例はフィクション化されて語られるが、かなり自然。まるで現場にいるような臨場感が味わえた。そこで取り上げられるテーマは紛れもないノンフィクション。カウンセラーとして赴任したはずの著者がケアの現実に立ちすくむ姿。そこからケアの重要性を理解していく過程が丁寧でとてもよかった。
ぼくは伯父の介護の中でケアに触れている。ぼく自身も不安障害の治療の中で、訪看さんからのケアを受けていて、カウンセラーさんのセラピーを受けたこともあった。その中で感じていた言葉にならないもやもやが言語化されていてスッキリした。本文で特に取り上げたいところを引用します。
p.54,55
「いる」が難しくなったとき、僕らは居場所を求める。居場所って「居場所がない」ときに初めて気がつかれるものだ。
p.57
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
p.140
不登校になった子どもは何もないところに自分への攻撃を見出してしまうし、僕たちだって会社を休んでしまった次の日は、みんなの視線が痛い。本当はそこには何もないのに、充満する「何か」を感じてしまうということがある。空虚はときに充満に変わってしまう。
すると、退屈なんかしていられない。悪しきものが充満する空間では、一瞬一瞬が切実な時間になる。なんとかなんとか、しのいでいかないといけない危険な時間になる。僕にとっての凪タイムは、彼らにとって「何か」が吹き荒れている時間だったのだ。
うつ病と不安障害になった時、ぼくは「いる」ことが難しくなった。頭に開いた穴から不安が入り込み、起きている間中のすべてが不安だった。うつ病の時は動かない体と心に死を覚悟し、不安障害ではほくろ一つでガンだと大騒ぎ。仕事どころか遊びに行くことすら難しい現状。仕事もできない生産性のない自分。居場所がなくて孤立したと感じたぼくは「する」を始めた。
それが読んだ本の感想をここに書くことだった。いろんな人に興味を持ってもらえたら、自分にも多少は価値があるんじゃないかと思ったからだ。結果的にはやりたいことが見つかったが、「する」で代用できない「いる」ことの意味は、この本を読んでやっと気づけた気がする。自立だけじゃなく、依存の価値を認めること。見えないところでケアされているからこそ自立は回るのだ。焦って何かを「する」よりも、まずは「いる」ことから始めようと思えた。
また、デイケアと市場や経営がはらんだ矛盾についても勉強になった。ただ「いる」ことに対する重要性の見えにくさ。こうした見えにくい価値にお金をかける価値観が生まれてほしいなと切に願う。それは不合理と思われるかもしれないけど、いずれ自分も受けるかもしれない社会的サービスなのだから。
- 感想投稿日 : 2022年4月20日
- 読了日 : 2022年4月20日
- 本棚登録日 : 2022年4月20日
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