夜の果てへの旅 下 改版 (中公文庫 い 87-5)

  • 中央公論新社 (2003年12月1日発売)
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扉を開けると、有名なエピグラムが現れる。「旅に出るのは有益だ、想像力を働かせる。それ以外はすべて失望と疲労をあたえるのみだ。・・・目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ」。
そしていきなり、言葉の奔流に投げ込まれる。生田耕作の独特な訳文も預かっていると思われるが、この、貧しく愚かな人々を食って膨れ上がる狂気と貪欲に満ちた世界に対して語り手が投げつける呪詛と罵倒は圧倒的である。
「犬より始末が悪いことに、奴には自分の死が想像できんのだ!・・・こんなやつらと一緒では、この地獄のばか騒ぎは永久に続きかねない・・・するとおれはこの世でたった一人の臆病者なのか?・・・英雄気取りの、猛り狂った、ものものしく武装した二百万の人間の仲間に迷いこんじまったのか?・・・戦争の真っただ中に実際に飛び込むまでは、人間どもの勇敢で無精で穢れた根性の中に潜んでいるものを、誰が見抜けるだろう?今や僕は、大量殺戮と戦火目指しての総退却の中に巻き込まれてしまったのだ・・・こいつは根深いところからやってくるものだ、そしてそいつはついにやってきたのだ。」
こうして、感激しやすい二十歳の医学生だったバルダミュは、夜の果てをのぞきこむ旅へと出発する。英雄気取りの将軍たちの気まぐれで兵士たちが肉塊へと変えられる第一次世界大戦の前線へ、その狂気を娘たちが賞賛し煽り立てる後方へ。この最初の移動を通して、青年は世界の真の顔に気づき始める。貧乏人に許される死に方は、平和時に同胞の完全な冷たさによって殺されるか、戦争の到来とともに同じ連中の殺人熱によって殺されるか。大きな手に生殺与奪をつかまれたちっぽけな人間たちは、にもかかわらず、教育をたたきこまれ、まだ終わりではないかのようにふるまい続けなくてはならない。
この絶望的なヴィジョンは、自分たちの方が黒人よりましだと信じる下層白人たちが資本家のために半奴隷労働に従事するアフリカの植民地へ、金さえあれば夢のように美しい資本主義の聖地アメリカへと、バルダミュが移動をくりかえすごとにむしろ明確になり、そして後篇、バルダミュが物理的移動をやめた時から、より暗く深い夜の底へと、重さを増していくことになる。
開業医となって落ちついたかのように見えるバルダミュが貧民窟の底でのぞきこむのは、弱い者がさらに弱い者を食い物にし、いがみ合い殺し合う人間たちの醜悪さであった。犠牲になるのはこのような世界の中でも笑いを見出そうとする子どもたちであり、そんな子どもたちを救えないバルダミュ自身もまた、弱い者たちから盗み取る卑劣漢のひとりに過ぎないことを、いやむしろ、そんなふうに意地悪な彼らよりも、なお魂を腐敗させた者であることを、彼は今や感傷なく呑み込んで夜の果てへと逃亡を続ける。彼の人生に舞い戻ってきたロバンソンを道案内にしながら。
それにしても、このロバンソンとはいったい何者なのだろう。初めて戦場で会った彼はバルダミュよりもたしかに年上だったはずなのに、最後に「国民射的場」に戻ってきたバルダミュは、自分が彼より「十以上も年上なんだぜ」と話しかけて、まじまじと見つめ返されている。旅の先々で彼を夜の果てへと誘い続けたこの謎の男が、ついに彼を置き去りにしてこの世から走り去るとき、バルダミュは、いつのまにか、自分が彼よりもはるかに老けこんでしまったこと、もう自分の彷徨の旅が果てに行きついてしまい、自分には死ぬために必要なものさえ何一つ残されていないことに気づくのである。
本書が発表されたとき、セリーヌを反戦主義者、社会主義者とみなす向きも多かったというが、この絶望の書は、社会などよりも人間へ、自分自身へと向けられているからこそ、なお恐ろしい。しかしこの恐怖と絶望の言葉の中には、まぎれもない真実とともに、謎めいた余白があって、それが人を引きつけずにおかないように思われるのだ。バルダミュは、なぜロバンソンを必要とし、彼を創りあげたのだろう。夜の果ては闇に包まれているが、その闇はおそらくただ一色ではない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 外国文学
感想投稿日 : 2014年12月22日
読了日 : 2014年12月7日
本棚登録日 : 2014年12月22日

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