王国への道は、江戸時代にタイでかなり出世した山田長政を描いた遠藤周作の小説である。山田長政は学校の社会で習った人物であるが、特に出自に不明点が多いことで、歴史上でも謎深い人物なのだろうと思う。そんな謎のある山田長政を描いたこの小説は、私にとってはタイに対する印象の原点の一つと言える。タイ人は、東南アジアにおいて最も不気味で危険な人種と言うのが、私の印象である。
山田長政とタイについて、深い印象を私に与えた本書であるが、一番インパクトのあったのはペドロ岐部、ペトロ・カスイ・岐部の存在である。私はこの本を読むまで、この人物のことは全く知らなかった。ペトロ・カスイ・岐部はそれ以来、私が最も好きな歴史上の人物となり、岐部の足跡を辿ると言うのはテーマの一つとなった。
遠藤周作は基本的には弱い人物に光を当てる作家で、代表作の「沈黙」はその極致だと思う。主人公ロドリゴが踏絵に足を掛けるというクライマックスにおいて、ロドリゴの心の中で神であるキリストが言った、
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
は、私が学生手帳に書き込んだ言葉であるが、そういうのを遠藤周作は主に描く作家で、そこに感情移入したものだった。因みに上述シーンの後、
「こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
と遠藤周作は描いているが、これはイエスが幽閉されている大祭司カヤパの家に一番弟子のペトロが師匠を心配して早暁侵入して、家の者に発見された際のエピソードから取っている。お前はイエスの仲間かと問われて「イエスなんか知らない」と三度も言って師を裏切った際、鶏が鳴いたのである。ペトロはその前、「鶏の鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われていたのはこのことだったのか、と思い知るのである。
そんな、やんごとなきローマ初代教皇たるペトロをもこの弱さ、というのを描いた遠藤周作が描いた強いキリスト者が、この岐部である。
俺にはこんな人生は無理だと思いつつ、今の自分の年齢の時、岐部はどこで何をしていたんだろうか、というのはたまに思う。サウジにいる頃、酷暑の中汗みどろで働いていたのだが、そのころの年齢が、岐部が中東を横断してローマに向かっているのと同じ年齢だった。岐部は、この暑さをどう思ったんだろうか、と思ったりした。
今の私の年齢の時点では、岐部はまだ日本に帰国していないが、既に司祭叙階を受けた欧州は旅立っており、日本への潜入を企てて東南アジアに到達していた筈だ。岐部は37歳でインドのゴアまで到達し、43歳で帰国している。その間、岐部は日本へ戻る船を求め、マカオ、ルソン、そしてアユタヤにも足跡を残している。
- 感想投稿日 : 2018年1月14日
- 読了日 : 2013年3月11日
- 本棚登録日 : 2018年1月14日
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