職業としての学問 (岩波文庫 白 209-5)

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ウェーバーの生きた時代からもう100年くらい経ったけど大学制度はそんなに変わらないんだなあ、とか、学生が体験や指導者を欲してしまう傾向というのもそう変わらないんだなあ、とか。しかし、わたしが本書を読みながら最も切実に考えていたことはただひとつ。すなわち、学究に身を捧げるとは、その意味とは何なのかということ。なにか追求したい問題があり、その手段として最も適当なものが学問であった、というのが一般だと思いますが。学問を行うことによって何かの真理を得たり、生きる意味を求めたり出来る、と信望することと、それは一体どう違うのか。
ウェーバーによれば、脱魔術化した近代にあって、学問は「この世界の『意味』というようなものの存在にたいする信仰を根本から除き去る」ものであり、トルストイを引用しながら学問とは「無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」と言われます。わたしは自分の読解にそこまで自信がないのですが、わたしなりに解釈するならば、これは以下のことに帰結する。すなわち、あらゆる価値は中立的でありそれ自体として意味を持たないが、現代にあっては諸価値が乱立し、しかも私達は現実的に生活するうえでいったいどの価値を取るのか、という選択を必ず迫られる。この選択の際に、学問は寄与するのである、ウェーバーによれば、「これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度——それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる——から内的整合性をもって、また自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導き出されるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導き出されない」のであるが、学問はその学ぶ者に対し「かれ自信の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる、あるいはすくなくとも各人にそれができるようにしてやることができる」のである。ウェーバーは社会学という学問を説くにあたって客観性の獲得を強調していたが、彼のそのような事物に対する客観性及び相対主義を目指す姿勢が、このような意見に繋がっているんだと思います。矮小化することになってしまうかもしれませんが、わたしなりに受け止めると、その人がどのような価値を信望するに至るかの「選択」に際するものを学問は提供し得るということであり、学問それ自体を追い求めるというよりも、「選択」への寄与ということに焦点を絞って向き合った方がわたしにとっては誠実かもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2014年1月17日
読了日 : 2014年1月16日
本棚登録日 : 2014年1月16日

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