職業としての学問 (岩波文庫 白209-5)

  • 岩波書店 (1980年11月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (92ページ) / ISBN・EAN: 9784003420959

みんなの感想まとめ

学問に従事することの意義や心構えについて深く考察された内容が印象的です。著者は、学問とは情熱をもって取り組むべきものであり、無価値なものとして扱われるべきではないと主張しています。また、アカデミックな...

感想・レビュー・書評

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  • 5冊目『職業としての学問』(マックス・ウェーバー 著、尾高邦雄 訳、1936年7月 発行、1980年11月 改訳発行、岩波書店)
    社会学者として名高いウェーバーが、1919年1月にミュンヘン大学で行った講演のテキスト。
    職業として学問に従事することを志す人間に対し、ドイツにおける職業としての学問の現状、そして学問に専心することへの心構えを説く。
    ナチ党成立の前年に行われた本講演。まだ自由の気風が独にあったのだ。

    「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである」

  • 学者は文献の一字一句の解釈を命がけでやらなければならない。こうした作業に集中し、魂も込めることができないものは学者に向いていない。ということが書かれていた。

  • 自分たちはさまざまな事に手を出して学ぼうとしているが、そんな事はいくら時間があっても無理だ。全部が中途半端になってしまうと教えられました。気に入ったのが、「学問とは自分より後の代がもっと賢くなれるようにするものだ」と言う部分です。

  • 研究者・教師としての心構え的な物が書かれていた。

  • ようやく読めた。一読のみでは内容を十分に理解しているとは到底言えないが、以下、現時点で読み取れたことを記載しておく。
    旧訳の序(p.85~)によると、本書におけるウェーバーの主張は主に3点である。1点目は生計の資を得る道としての学問の現状、2点目は職業としての学問にたいして人々(特に教師および研究者)がとるべき心構え、3点目は学問の職分そのものについてである。1点目について印象的であったのは、学問を職業にすることには「偶然」が大きく作用するという主張である。つまり、実力いかんよりも、学問を職業とするためには、運の側面も重要であるということである。これは現代にも通用する。2点目については、やはり「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」という叱咤である。文章から想像するに、当時のドイツでは、文壇上から特定の政策に関する評価、主張を行う教師や、あるいはそれを求める学生などが存在していた。これに対しウェーバーは、「学問」と「政策」とは根本的に異なるものであるということを主張した上で、個々人に与えられた仕事に集中しろと主張する。特定の学問に専心すること、仕事以外のことに心酔しないことの重要性を説くのである。3点目に関しては、合理化が進み、学問それ自体も機械化の危機に瀕している現代において、学問に求められていることは、「明確さ」と「責任感を与えること」であると述べる。現象自体が複雑化している中で、全てを語ろうとするのではなく、(例え一部分であろうとも)特定の学問的見地から、明確な学問的成果を生み出し、それを評価ではなく、ただ知見として学生に提示することによって、学問を修めるものに責任を付与することであると解釈した。
    この講演はすでに100年以上前のものであり、ここでの主張を全て現代にも応用できるとは限らない。しかし、当時のドイツの時代背景とともにこの主張を読み解くことで、彼が何を危惧し、批判し、主張しているのか、という構造に触れることができる。これは、現代にも通じるものがあると思う。現在は、総合政策的な、複数の学問的知見を組み合わせることによって、社会課題を解決するアプローチも出てきている。良くも悪くも、学問よりも、実社会に役立つことの比重が重くなってきている感覚がある。では、その中で、社会科学を探究する意味合いとは何か。ザッヘに専心しながらも、自分なりに考えを深めていきたい。

  • ウェーバー流に、学問とはなんぞや、教師とはなんぞやと、論を展開している。福沢諭吉の学問のすすめと比較すると、面白かった。

  • 特に目的はなかったのだが、ふと気になって読んだ本。
    1917年のマックスウェーバの名講義の訳らしい。

    大変難怪な語り口で書いてあり、理解が難しい。w

    <印象的だった点>
    - アカデミックの現状
    特に、運とめぐり合わせによる部分が大きいこと

    - いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしにないするすべては、無価値だからである。

    - 教師は、指導者ではない。

  • 三十代手前にもなってようやっとこの本を手にとって読んだんですが、願わくば大学生の時にこの本を読むべきだったと大変後悔しました。

    アカデミックな世界で仕事をするとはどういうことか、この本にだいたい余すところなく書かれています。第一次大戦後のドイツであろうと21世紀の日本であろうと、本質は変わらないと思います。

    つまり、「どんだけニッチなんだよ」と人から笑われようがその分野で百年千年先も残る仕事を打ち立てることにどこまでこだわれるかが「学者の仕事」なんだということ。「この写本のこの一箇所の解釈」にどれだけ手を尽くし考えを尽くせるか、そういうことに情熱を傾けられないのであれば学者の仕事なんぞ「向いてない」、「もっと他のことをしたらいい」とはっきりウェーバーは言ってのけます。

    かっこいいっすね。

  • ウェーバーの生きた時代からもう100年くらい経ったけど大学制度はそんなに変わらないんだなあ、とか、学生が体験や指導者を欲してしまう傾向というのもそう変わらないんだなあ、とか。しかし、わたしが本書を読みながら最も切実に考えていたことはただひとつ。すなわち、学究に身を捧げるとは、その意味とは何なのかということ。なにか追求したい問題があり、その手段として最も適当なものが学問であった、というのが一般だと思いますが。学問を行うことによって何かの真理を得たり、生きる意味を求めたり出来る、と信望することと、それは一体どう違うのか。
    ウェーバーによれば、脱魔術化した近代にあって、学問は「この世界の『意味』というようなものの存在にたいする信仰を根本から除き去る」ものであり、トルストイを引用しながら学問とは「無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」と言われます。わたしは自分の読解にそこまで自信がないのですが、わたしなりに解釈するならば、これは以下のことに帰結する。すなわち、あらゆる価値は中立的でありそれ自体として意味を持たないが、現代にあっては諸価値が乱立し、しかも私達は現実的に生活するうえでいったいどの価値を取るのか、という選択を必ず迫られる。この選択の際に、学問は寄与するのである、ウェーバーによれば、「これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度——それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる——から内的整合性をもって、また自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導き出されるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導き出されない」のであるが、学問はその学ぶ者に対し「かれ自信の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる、あるいはすくなくとも各人にそれができるようにしてやることができる」のである。ウェーバーは社会学という学問を説くにあたって客観性の獲得を強調していたが、彼のそのような事物に対する客観性及び相対主義を目指す姿勢が、このような意見に繋がっているんだと思います。矮小化することになってしまうかもしれませんが、わたしなりに受け止めると、その人がどのような価値を信望するに至るかの「選択」に際するものを学問は提供し得るということであり、学問それ自体を追い求めるというよりも、「選択」への寄与ということに焦点を絞って向き合った方がわたしにとっては誠実かもしれない。

  • 【レビュー】100年前にドイツで語られた学問の意義について。今も全く色褪せない。
    学問は、ある人が「どのように生きるか」について答えるものではないし、“学問の” 指導者は決してその命題に答えるべきではない。学問の役割とは、複雑化する社会の中で「自分が一体何をしているのか」について様々な面から究極的な理解を与え、各人がそれぞれの行為について自ら責任を負えるようにすることである、と。

  • 550円

    102p

    職業としての政治同様あまり入ってこない

    マックス・ヴェーバー
    (Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日[12])は、ドイツの社会学者、政治学者、経済史・経済学者(新歴史学派)[13]。マックス・ウェーバーと表記されることもある。正式な名前はマクスィミーリアン・カール・エーミル・ヴェーバー(Maximilian Carl Emil Weber)であり、マックスはマクスィミーリアンの省略形。弟は社会学者のアルフレート・ヴェーバー。社会学黎明期のオーギュスト・コントやハーバート・スペンサーに続く、第二世代の社会学者としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメルなどと並んで称される[14]。

    「 そのうえ、学問の性格に応じて、これらの前提にたいするその関係も非常に違ってくる。物理学、化学また天文学のような自然科学は、それらが到達しうるかぎりの最後の宇宙の諸法則が当然知るに値するものであることを前提する。だが、ここで知るに値するというのは、なにもこれらの法則によってなにか技術上の目的を達することができるからというのではなく、むしろ これらの学問をおのれの「天職」とする以上は 「学問それみずからのために」知るに値するという意味なのである。それがはたして知るに値するかどうかは、これらの学問みずからが論証しうべき事柄ではない。いわんや、これらの学問が対象とする世界がそもそも存在に値するかどうかということ、またこの世界がなにか「意味」をもつものであるかどうかということ、さらにこの世界のうちに生きることがはたして意味あることであるかどうかということ、 こうしたことにいたっては、もとより論証のかぎりではない。」

    —『職業としての学問 (岩波文庫)』マックス・ウェーバー, 尾高 邦雄著

  • ・何事も忘れて対象の物事に熱中できる人が学問に向いている・・・。その通りだと思う。
    ・「霊感」→情熱があり、運があり、研究を怠っていない時に与えられる。
    ・学問だけでなく、芸術やビジネスにも通じる。
    ・「仕事」→自分を滅して専念するもの →自分の名を売る×
    ・概念、永遠の心理は移ろいゆくものではない。

  • 科学の限界、宗教の限界この2つを明らかにすることによる、生き方の提案。
    科学万能主義が蔓延る21世紀を生きる私たちだからこそ、改めて立ち止まって考えたい内容。

  • マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。
    本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての政治』もほぼ同じ時期のものである)
    本書を読むにあたっては、本公演が、キリスト教の支配する世界、かつ、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツ・ミュンヘンにおいて、人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序に対する疑惑に満ちていた中で、感受性に富む青年たち(大学生)向けに行われたものであることを踏まえる必要がある。
    本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。
    ◆「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。・・・実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家になしとげられたものばかりである。」
    ◆「学問のばあいでは、自分の仕事が・・・いつか時代遅れになるであろうことは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」
    ◆学問の意味は、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ」を知ることである。
    ◆学問は、「われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えない」。
    ◆「政策は教師の側からいっても教室で取りあげられるべきものではない。・・・なぜなら、実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、全く別のことだからである。」、「こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、・・・講義者のなかに・・・教師ではなく指導者をもとめていることにあるのである。」
    ◆「学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらす」のか? それは「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」と「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」と「明確さ」である。
    「純粋な学問(日々の仕事)に立ち返れ!」と若者を叱咤しつつ、その主張は、学問は「いかにあるか/存在(sein)」は明らかにできても「いかにあるべきか/当為(sollen)」は明らかにできない、という学問の限界を的確に指摘しており、「学問とは何か?」(というより「科学とは何か?」)を考えるにあたり、現代でも耳を傾けるべきものである。
    (ウェーバーの文章は非常に複雑と言われるものの、1936年訳の本書はかなり読み難い。新訳の講談社学術文庫の方が読み易いかもしれない)
    (2018年12月了)

  • 職業としての学問は、
    10年後、20年後、50年後には知識として古くなる。
    つまり、常に進歩、前進することを前提にしていて、そうゆう宿命にある。

    「われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」


    かつ、
    価値があるということを肯定することを前提として成り立っている。

    法律等もそうであり、
    法律自体が必要なのか?
    学問自体が必要なのか?
    そういったことは、必要ということを前提としている為に、
    その問いに対しては、
    その基本的価値を証拠だてることはできない。


    ここから読み取れることは、
    物事の考えや発言には、
    前提となるものがある。

    その前提を汲み取ることができれば、
    より本質を観る観点を持て、現状を打開できる。
    このマックス・ウェーバーの思考の仕方、名付けて前提論とでもいおうか。


    読書によって知識を得るということ以上に大切なことは、
    思考のプロセスを追体験することで、
    その著者の思考法を自身もできるようにすること。

    なぜなら世紀を超えた一流人の思考を自身もできるようになるということは、
    同じものの見方や視点を持てるということに他ならないからだ。

    世界の見え方が変わり、益々世界は面白くなる。

    それが読書の醍醐味だ。

  • 1980年(底訳本1936年、底本1968年)刊。1919年、ミュンヘンにて学生(大学生)向けに実施された講演録。話が二転三転し、比喩・例示も挿入されるので論旨は掴まえにくいが、職業として学問に従事する人(大学教師が主か)には役立つ内容かな。ただし、小中学生が生徒の時はともかく、高大では教師の主観的立場を一定程度開陳しても害は小さいと思う。特に、法律解釈学・立法政策学は、過去や現状分析に止まらず、未来のあるべき社会を展望しつつ一貫した主張を行う必要があるため、論者の主観的立場は大きなファクターとなるのだ。
    このように純客観的とはいいきれない学問が大学でなされる場合もある。加えて、高校大学になれば、教師の教示事項に対する批判的な目線は必要であり、かつ可能ともいえる。また、その取捨選択が出来る能力こそが重要ともいえる。その意味で、ウェーバーの見解をそのまま受容することは、個人的には無理である。

  • 現代風に言えば職業指南書であり、人気シリーズ『職業としての~』といったところか。

    マックス・ウェーバーの学生向けの講演が基となっており、活字メディアが主だった当時、本講演は職業選択をするうえで非常に有益であったと推察できる。氏は、学問を生業、仕事、志の側面で語っており、米国事情との独対比、顧客視点=学生視点での教育者の在り方論は相当新鮮であったであろう。むしろ100年近く経た今読んであまり違和感を感じないのは、驚くべき先見の明といえるかもしれない。

    奇しくも本書が発刊された1919年にドイツ労働者党が発足しヒトラーが入党し、残念ながら国家を戦争へと傾けていく。ドイツにはウェーバー氏のような聡明で熱意ある優れた頭脳が豊富に居た。ウェーバーが存命であればドイツの運命は如何様になっていたであろう?戦争によって人類の叡智のに停滞期が生まれたことは誠に遺憾なことである。

  • 短いが、内容はかなり難しく、また読み直さなければならないと感じた。

  • 巨大ビジネスとしての米国の大学の勢いは止まるところを知らないようにみえる。たとえばハーバードやスタンフォードのMBAから白熱教室へのお見事な変身ぶり!深く巧妙に浸透した資本主義イデオロギーの権力は学問も政策も信仰さえも丸のみし、それとは知られないような美神の意匠でマネーの増殖に余念がない。

    「もし悪魔を片付けてやろうと思うならば、こんにち好んでなされるようにこれを避けてばかりはいられない、むしろ悪魔の能力と限界を知るために前もってまず悪魔のやり方を底まで見抜いておかなくてはならない」

    わたしはそれを街頭から始めよう。学問なのか?経験なのか? そんなことはどうでもいい。

  • 『職業としての政治』がよかったので読んでみたのだが、コチラは馴染めなかった。おそらく書物としての価値はあるのだろうけど、例示があまりにも宗教に偏りすぎていて、どうにも理解しづらい。内容も、いわんとしていることはなんとなくわかるのだけれど、ただ一概に正しいとはいえない気もする。たとえば、学問と政治を分離せよというが、もちろんそれは間違った主張であるとまではいえないけれど、ある事柄を教授するという時点で完全に中立ではないのであって、それは見方によっては政治的なのだから、もうちょっと具体的に述べてくれないと、たんなる空理空論に終わってしまう。『政治』のほうは当事者ではないから反論も思い浮かばなかっただけかもしれないけれど、本書の場合はどうにもただ理想論を語りすぎていて、具体性・現実性に欠けるという印象はある。ただ、また時間をおいて読んだら違う印象かもしれないし、心構えとしてはよいことが書いてあるので、読めたことじたいはよかったと思っている。

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著者プロフィール

1864-1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。代表作は、本書に収められた講演(1919年公刊)のほか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920年)など。

「2018年 『仕事としての学問 仕事としての政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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