職業としての学問 (岩波文庫 白 209-5)

  • 岩波書店
3.57
  • (94)
  • (151)
  • (263)
  • (20)
  • (8)
本棚登録 : 2189
感想 : 180
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (92ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420959

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ◆3/7オンライン企画「その相談、あの本なら、こう言うね。F/哲学の劇場」で紹介されています。
    https://www.youtube.com/watch?v=1K0qT4_6lEk
    本の詳細
    https://www.iwanami.co.jp/book/b248663.html

  • 研究者を目指す第一歩。研究者と教授とはどういう仕事か。

  • 東2法経図・6F指定:002A/W51s/Takeishi

  • 学問を職業にするべき人物がどのようにあるべきかが書かれている。

  • 最近の憂鬱。
    仕事によってのみ人は評価される。相対主義が覆う現代社会で「無意味な」学問を天職として続けられるのか。

  • 社会学の泰斗、その晩年の講演。

    端的にまとめられた学問を取り巻く状況や今日的な意義、そして私たちのとるべき態度といった内容から、(本人は拒否するだろうが)学者でもあり、教師でもあり、指導者でもあったウェーバーの偉大さに感心するばかり。

    世界が魔術から解放されたとき、再び神々があい争う時代に(神話は啓蒙であった、啓蒙は神話に退化する―アドルノ=ホルクハイマー)、安易な救いや啓示をもたらす救世主や預言者はいないし、それを無理やり地上に甦らせるわけにはいかないと説くウェーバー。
    学問に従事する人々だけでなく、リキッドモダン(液状化した近代―ジグムント・バウマン)に生きる私たちすべてが、価値判断の脅迫から距離を置く態度を教えてくれている。

    もうひとつの講演とあわせて、その時その場で、ウェーバー自身の肉声で聞きたかった。

  • マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。
    本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての政治』もほぼ同じ時期のものである)
    本書を読むにあたっては、本公演が、キリスト教の支配する世界、かつ、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツ・ミュンヘンにおいて、人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序に対する疑惑に満ちていた中で、感受性に富む青年たち(大学生)向けに行われたものであることを踏まえる必要がある。
    本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。
    ◆「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。・・・実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家になしとげられたものばかりである。」
    ◆「学問のばあいでは、自分の仕事が・・・いつか時代遅れになるであろうことは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」
    ◆学問の意味は、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ」を知ることである。
    ◆学問は、「われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えない」。
    ◆「政策は教師の側からいっても教室で取りあげられるべきものではない。・・・なぜなら、実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、全く別のことだからである。」、「こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、・・・講義者のなかに・・・教師ではなく指導者をもとめていることにあるのである。」
    ◆「学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらす」のか? それは「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」と「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」と「明確さ」である。
    「純粋な学問(日々の仕事)に立ち返れ!」と若者を叱咤しつつ、その主張は、学問は「いかにあるか/存在(sein)」は明らかにできても「いかにあるべきか/当為(sollen)」は明らかにできない、という学問の限界を的確に指摘しており、「学問とは何か?」(というより「科学とは何か?」)を考えるにあたり、現代でも耳を傾けるべきものである。
    (ウェーバーの文章は非常に複雑と言われるものの、1936年訳の本書はかなり読み難い。新訳の講談社学術文庫の方が読み易いかもしれない)
    (2018年12月了)

  • 原書名:Wissenschaft als Beruf(Weber,Max)

    著者:マックス・ヴェーバー、1864ドイツ-1920、社会学者・経済学者、ハイデルベルク大学、ベルリン大学卒、フライブルク大学・ハイデルベルク大学教授
    訳者:尾高邦雄、1908-1993、社会学者、東京帝国大学社会学科卒、東京大学文学部教授

  • ウェーバーによる1919年1月の講演。時は第一次大戦直後。ドイツは敗戦、革命、飢餓の混迷の只中にあった。解説によると、ウェーバーは愛国的な人物であったらしいが、この時代背景を考えると本当に気合のこもった講演である。講演ゆえに、勢いに任せたような面白さもある。

    学問と政策の違いが説かれ、学問は主観的な価値判断から自由でなければならず、教師は政治的立場を生徒に押し付けてはならないとされる。一方、この講演は学問と言うより政策の口調で語られている。しかし学問はそれ自身が知るに値するものかどうかという前提については答えることができない、と言うのだから、学問の意義を語るには政治の言葉を用いるしかないのは当然なのかもしれない。

    アメリカの学問の実利主義ぶりをくさしている所は、内田樹の教育論とおんなじ。

    「学問の領域で「個性」を持つものは、その個性でなくて、仕事に仕える人のみである」

  • ・5/29 読了.だめだ、回りくどくて何を言いたいのかいまいちわからない.教員になるのは大変よという話かな、つまりは.よく考えろよ、と.ここはアメリカじゃないんだから、と.

全180件中 21 - 30件を表示

著者プロフィール

1864-1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。代表作は、本書に収められた講演(1919年公刊)のほか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920年)など。

「2018年 『仕事としての学問 仕事としての政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マックス・ウェーバーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×