職業としての学問 (岩波文庫 白 209-5)

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  • Amazon.co.jp ・本 (92ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420959

感想・レビュー・書評

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  • 読みたい本じゃなかったので、評価なし。

    流し読みですが、学問を職業にしている人=先生のための本みたいです。

    そんな仕事じゃないので、読むだけ無駄でした。

  • ウェーバーさんの書き方が硬くて分かったような分からんかったような。この本が描かれた時代には青年たちは「事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、専門家のかわりに全人を、教師のかわりに指導者を欲した」みたいで、ウェーバーはそれよりも日々の仕事に帰れと叱咤した。けど今の時代はかつての青年が欲したようなことが必要なんじゃないか。

    あと、学問的研究には「それから出てくる結果がなにか「知るに値する」」という前提に縛られるという部分が印象的だった。

  • 2年前くらいに購入。今精読中。大学院生な医師には為になる言葉が随所に散りばめられている。薄い本。もうすぐ読み終わり。これは良い本です。

  •  ともすれば、夢想しがちな若者たちへの現実的なアフォリズム

  • 「学問」について考えさせられた。
    大学で何を学ぶんだろうか、何のために大学に入ったのだろうか。

    過保護に育った私と当時のドイツの学生を
    なんとなく重ねてしまった。
    指導者を求めてしまう。

    でも、最終的に考えるのは私なんだ。
    「神々の闘争」をしている時代に生まれたら
    どんなに楽だったろうか。

  •  巻末の解説によれば本書は1919年1月にミュンヘンで行われた学生に対する講演をまとめたものである。

     「職業としての」と冠されていることからわかるように、これは学問をすることを生業とする学者論である。

     学者となるためのコネと運、学問探究への専心、政治的中立性の確保など多くの論点が盛り込まれているが、個人的に印象に残った箇所を2つ引用したい。

     「これ(評者註:学問に没頭する心構え)の無い人は学問には向いていない。いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては無価値だからである」(p.23)

     「ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえないからである。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果が持つ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである」(pp.43-44)

     こういう古典は学生のうちに読んでおくべきである。

  • 「ある人が教師としてすぐれているかどうかは学生諸君が

    かたじけのう出席数によってきまる。人の気質、声の調子

    外面的な事柄にある」



    教師の力量は学生の出席者数できまっている。

    実力がなくとも、人気があればよい。。。



    最近の先生はどうなんだろう。。



    気になる言葉で、「情熱はいわゆる霊感を生み出す」

    とあったが、あらゆる情熱は、いろんなものに変化したり

    人の能力を倍にしたり、人に影響をあたえたりする。



    情熱は、何かを変える力がある。

  • 短いながらも非常に刺激的な論点を持った本だった。

    ① 学問と専門性、職業としての学問
    「いわばみずから目隠しをつけることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である」
    上記の言葉にウェーバーが職業として学問を志す人間に求めたものは凝縮されていると思う。同時にウェーバーは当時の若者が個々の「体験」から知見・個性あるいは社会への全体的な視点を得ようとする傾向を批判した。学問的個性とは専門性を極めた結果として伴うものなのだそうだ。逆に統合的な立場・本質を志向するものであるという点で、芸術は学問と異なっているのである。
    この事は少し僕にとって驚きだった。なぜかというと最近別の授業で(肝心の誰が主張していることなのかという部分を失念してしまったのだが)「高度に専門化されタコツボ化した学問において社会と社会科学が乖離するとき、統治者が自らの支配を正当化するための手段として機能する危険性がある、だから社会の「総合性」に通じる複眼的な学問を追究すべきだ」というようなことを聞いたためである。例として官僚がAという方向に持っていきたいときはAという持論の学者を審議会に招けばよいといったような事例を挙げていたが腑に落ちる気がする。
    ただ浅学な僕がウェーバーに反対意見を持ったところで全くの無意味であるので、むしろウェーバーのこの意見はもう一度吟味してみる必要があると感じた。

    ① 学問の意味
    では学問が社会に寄り添うものためでないとすれば、学問の持ちうる意味とはなんなのか。
    ウェーバーはトルストイの以下の文を引用した。
    『かれはいう「それは無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれは何をすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである」と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身としては争う余地のない事実である。』
    つまりある研究の成果が重要であるかどうかは学問上の手段では検証することが出来ないのであり、ただ「それはただ人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって解釈され」るだけなのだそうだ。
    またウェーバーの時代には「無前提」な学問ということばがよく口にされたらしいが、この前提とは「成果が知るに値する」という意味で重要な出来事だという前提のことだ。この前提のなかに問題はひそんでいるが、各学問ごとになにを前提とするか、すなわち何について語り得ないかは異なってくる。ゆえにむしろ各学問の研究者は各学問それ自身のために研究を行うということしか行えないのだそうだ。


    ② 歴史上の学問
    もちろん学問が「真の実在への道」として用いられていたことはかつてはあった。プラトンなどの時代には疑いようもなく学問と芸術は合致していた。その後学問は主知化合理化という文明の持つ性質の大きな流れの中でいわゆる魔術からの脱却を迎えたからこそ、学問と芸術は分離していったのである。

    ③ 大学と主義・主張
    また本著において「大学では教師は主義・主張を伝えるべきでない」という事もウェーバは力点をおいている。だからこそ政策について教室で論じるべきではないそうだ。
    この点に関して疑問が残らなくもないが、①②の学者はその学問の内側で学問自身のために寄与すべく研究する存在という仮定を飲み込めば、学生が学者に主義・本質・全体的な視点・真の実在を求めてしまうという危険の可能性はうなずけるので、それに対してウェーバーは警鐘をならそうとしていたのかもしれない。

  • 西洋学問と当時の時代背景についての知識が乏しいのか、学者(教員)の使命≠指導者ということ以外、何を伝えたいのかわからなかった。
    当時は大変熱狂を呼んだ講演だったと。
    国家間の憎しみが少なくなった今日ほど、国民が冷めやすい時はないのだろうな。

    あとがきに、訳しなおしてかなり平易にした、と見た時にはさすがに自分の無知を責めるだけの気合いが失せた。

  • 近年流行っている、悩み事(ここではつまり、学問を職業にしようとしている人間に対する心構えとは如何にということ)に対してサクッと回答が得られるような一問一答形式の内容では決して無い。本題に関してかなり多面的に、そして比喩的に著述されており、一読して言わんとするところを理解しきるというのは至難であろう。これを後押しするかの如く、巻末で訳者はウェーバーの文章は異様なまでに複雑で、明快でも率直でもなく、不必要なほど入り組んでおり、、、と解説をしている。一度で完全に咀嚼出来なかった皆さん、何度も読み返し、是非とも読了を掴み取りましょう!私も精進します。

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著者プロフィール

1864-1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。代表作は、本書に収められた講演(1919年公刊)のほか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920年)など。

「2018年 『仕事としての学問 仕事としての政治』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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