光あるうちに光の中を歩め (岩波文庫 赤 619-4)

  • 岩波書店 (1960年1月5日発売)
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親友として育った二人の青年のうち、一人がその頃は邪教とされていたキリスト教に傾倒し、そのコミュニティーで質素ながらも幸せに暮らすようになる。もう一人は俗世間で地位を成しながらも一抹のむなしさを抱えている。その二人の人生を、後者を軸にしながら描いている。
彼の名前はユリウス。子供時代、共に勉学に励んだパンフィリウスは母親とともに邪教に入信してしまった。自分は父が成した財で遊び暮らしている。そのうち放蕩息子を見かねた父が結婚を勧めるようになり、他にもいろいろ不満が出てきて、パンフィリウスの入信したキリスト教というものに興味を持ち始める。しかしある老人に諌められ、入信一歩手前で思いなおす。そして現実世界に戻り、父の選んだ相手と結婚。子供もでき、世間的にも認められた地位を得る。そんな折、ある怪我が元で仕事を休まねばならなくなり、気弱になったユリウスは、ちょうどキリスト教に興味を抱いていた妻とともにキリスト教に入信しようかと再び悩み始める。そこへまたも現われる件の老人。また思いとどまるよう説得され、怪我も癒えて戦線復帰できたことから、やはりキリスト教への興味は失せていく。さらに時は進み、妻は死に、息子はかつての自分のような放蕩生活を送っている。政権交代もあって、地位さえも失ってしまった。とうとうキリスト教入信を決意するユリウス。キリスト教徒の村へ向かう途中、あの老人がまたも現われるが、もう彼は老人の言葉に動じない。自らの意思に従ってキリスト教徒の村を目指す。
これを読んで、散発的に表れるカルト教団のことを思わずにはいられなかった。ああいう集団は邪教集団には違いないと思うが、下層の、純粋にその宗教を信仰している人々と、この物語に出てくるキリスト教徒との間にはどれほどの違いがあるのだろう。日本人的感覚で言わせてもらえば、一神教といわれるものには多かれ少なかれ、事件を起こしたカルト教団と同じ過ちを犯す危険性があるのではないかと思う。一人の人間(または神)を無条件に信じるということは、私には非常に恐ろしい行為に思える。その人(神)が「こうしろ」と言えば殺人だって犯してしまうのだから。数多のカルト教団だってキリスト教だって同じだろうと思うのだ。トルストイはもちろん、キリスト教礼賛の立場でこの小説を書いたと思うが、私が読んで得た感想では、パンフィリウスよりもユリウスの方がよっぽど正常という感じがする。パンフィリウスの語るキリスト教のすばらしさを読んでいると、やはりどうしても、どこかに矛盾があるような気がしてならない。もやもやした疑問が次々に浮かび上がってきて、すっきりしない。どうにもキリスト教に対する不信感は消えない。
私の宗教的立場に言及すると、少なくとも無神論者ではない。あえて言うならアニミズム信者だ。山には山の神様がいると思うし、俗な話をすれば麻雀の神様なんていうのもわりと真剣に信じている。ただ、そういう神々と一神教の神は絶対的に違うと思う。信仰のジャンルが違うというか、一神教信者と多神教信者が同じ有神論者として議論しても永遠に分かり合えないのだろう。欧米文学を理解する上で、キリスト教に対する知識及び理解というのは不可欠だと思うが、私には到底キリスト教を理解することはできない気がする。今回この小説を読んで、その思いを新たにした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2013年8月18日
読了日 : 2000年11月16日
本棚登録日 : 2013年8月18日

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