著者が殊に着目し讃美する女性の一人を据えた本作は、古代の政治ドラマとしてだけでなく、王者の苦悩に垣間見る日本人の精神史の一角に連なるものとしても興味深い秀作。
主人公は日本初の未婚女帝・元正天皇こと氷高皇女。
辣腕の印象強き持統天皇を除けば、お飾りとしての中継ぎ程度の認識しかされない古の女帝の中でも、とかく影の薄い彼女の位置付けを見直そうとする試みは、実に知的好奇心を擽られる。
元正の身辺の検証は「新・歴史をさわがせた女たち」「悪霊列伝」でも詳しく取り上げられ、併せて読むとより理解しやすい。
母帝・元明天皇や妹の吉備皇女はもとより、キーパーソンとなる男たち、長屋王・聖武天皇・不比等を始めとする藤原一族らを交えた確執の見応えは、不謹慎ながら歴史物好きの血が疼く。
古代から平安に至るまでの治世は決してワンマンによらず、身内の女性をパートナーとする連携システムを築いていたとの視点から、天皇宗本家を抱え込んで根を張り共同統治の担い手となってきた、蘇我氏出身の女たちの自負と魂の傷を浮き彫りにしたのが、本作の最大の見所。
百五十年もの間、後宮を独占し『皇の母胎』として代々続いてきた血族の矜持と奮闘を、史料の下に潜む駆け引きや万葉集の歌の裏から読み込む力量を称えたい。
女の血統から日本史を俯瞰する作業は、想定以上に刺激的で意義のあることではなかろうか。
古代の家族形態において、『家』は女から女へと伝えられる。
飛鳥浄御原令から大宝律令、藤原京から平城京、外交路線の転換・人事問題も含め、他の世紀に洩れず、そこには熾烈な抗争とどろどろとした生身の人間模様が展開する。
何より焦点として、一つの王統の絶滅が秘められる。
蘇我系の純血ロイヤルファミリーと藤原一党の息詰まる睨み合い。
位階制や官制の改革・遷都計画・大官大寺焼失などに見る不比等の狡猾な策謀ぶりは、敵(?)ながら天晴とも言いたくなる程。
着々と手堅く既成事実を積み上げることで権力と人心を掌握する、怪物政治家の名に相応しい。
対し、全身全霊で対峙する女帝たちの心意気も素晴らしい。
“政治はつねに妥協である。妥協しながら、要は最後に何をかちとるかだ”とは著者自身の見解かもしれないが、ずば抜けた才覚に限らずとも、肉親の相克を背負い人間の信と不信の海を果敢に泳ぎながら得た視角でこそ闘う、彼女らの姿はとてつもなく眩しい。
奈良への遷都において、孤立よりは誇りある妥協を選んで演じきる元明の思いに、胸が震えた。
“たとえ首に縄を巻かれ、引きずられての遷都であるにしても、その縄を人々に感づかせてはならない”――。
己の敗北すら醒めたまなざしで眺める母帝の血が、元正にも受け継がれている。
進むだけでなく、時に退き、退くと見せて押す。
柔軟な対応を巡らせる静穏な美帝は、まさしくしなやかな細身の剣の様。
そして、元明が死の直前に生命力を振り絞って遺した、言葉の仕掛けの見事さ。
蘇我の女としての意志と母親の情に引き裂かれながら、太上天皇としての周到な政治的配慮の行き届いた発言。
この母にして、この娘あり。
王者の威厳は、苦難の場面においてこそ、より輝かしく発せられる。
誇り高い敗北。
頽勢においても、命を賭して活路を求める気迫。
そうして蘇我の女として、元正は栄光を継承し、妹の吉備は血筋を継承した。
また、政治家としての彼女たちの苦闘のみならず、女としての細やかな情愛の描写も見事なもの。
稚い頃の少女が口にする「恋」「愛」の言葉の真面目さと一種の滑稽さをさらりと綴られたりすると、上手いなあと思う。
後に妹婿となる長屋王に対する心情の変わり目の節々も、聴覚・視覚の揺れを通しつつ、さりげなく組み込むのが鼻につかない。
身も立場も交わらぬまま、深く結ばれた元正と彼との見えない絆。
婚姻に限らぬ形で離れながら、それでも確かに二人は心を通わせ、互いを支え合うことで廟堂を生き抜いてきた。
彼らの寡黙な意思疎通を見るに、長屋という人物に対する純粋な関心も否応なく高まる。
元正への愛情を、政界での献身と奉仕によって昇華し続けた、想いの複雑さ。
それは歳を経るごとに、屈折どころかより純粋なものになっていったのではないか。
藤原氏の陰謀の渦に自死へと追いやられる瞬間にも、毅然とした気品の裏で、心底愛した女を独り遺してゆく苦渋もがあったに違いないと。
そして、防ぎきれなかったかつての恋人の死を、静かな面持ちで追悼(おく)る元正の胸中。
“いま泣き崩れるくらいなら、私はとうの昔に気を狂わせています”――。
妹一家の滅亡後も、無闇な歎きの中で朽ちることを良しとせぬ悲壮かつ凛とした姿勢が神々しい。
蘇我系最期の女としての役割を演じきったその生涯を境に、時代は新たな幕を迎えることになる。
愛よりも凄まじい試練の中で培われていった、彼女の心の勁さ。
女を逞しくするのは恋だけじゃあない。
この辺の匙加減は女性の作者ならでは。
また、罪悪感と恐怖に心身を蝕まれながら放浪する聖武が体現するのは、皇統における負の精神史。
自ら心を呪われた王者の憐憫は、哀れを通り越して奇妙な漂泊感すら感じさせる。
支離滅裂な言動の異様さも、精神の荒廃ぶり以上に、救済へのひたすらな渇きを映し出す。
絶対的な孤独と不信と懺悔の只中で崩壊しゆく心を抱えた有り様は、卑小に生々しく一個の人間性を露呈させる。
その頂点となる、終盤の一場面。
紫香楽の甲賀寺にて、元正が目の当たりにした光景。
戦慄と、やりきれなさ。
この風景の示す寒々と重い壮絶さは、ぜひ直接体感してもらいたい。
総じて自分が永井作品に惹かれる理由の一つに、物語の根底にある考察及び文体が甘ったるくない点がある。
史実上の政治行為を布石の段階から丁寧に解釈し、尚且つ女流作家の得手としての繊細な描写を巧みに交叉させ組み合わせる。
名の一人歩きの如く後世にも生き続ける人物たちの、栄光とそれを縁取る孤独と鬱屈を、生き生きと目の前に描き出す。
寂しさから知る、人生の深みと奥行き。
人間の裡に、人の世に、せめぎ合う光陰の眩しさ。
歴史物の醍醐味とは如何に『人間』を書きこなせるかだと、彼女の著作に触れながら痛感する。
無論、こうした創作が一個人の空想の産物に過ぎないと言われても仕方ない面もある。
けれども史料は、真実の証拠と恣意的な捏造の両面を持ち合わせている。
それらの行間を埋めるには、冷静な分析と深い洞察、豊かで適切な想像力は欠かせないものだと思う。
- 感想投稿日 : 2011年2月16日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2011年2月5日
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