破戒 (岩波文庫 緑 23-2)

著者 :
  • 岩波書店 (2002年10月16日発売)
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感想 : 66
3


「まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり」



藤村、と言えばこの詩である。
初々しい鮮やかな色彩が浮かぶ、控えめなしかし美しい詩である。
藤村は芸術を求めそれに酔うのではなく、身近にあるもののありのままの美しさを表現する力を持った人だと思う。
詩人で作家という道筋は文人に多い流れで、かつてヘッセは私にとって詩人であったが、それが彼の著書を読んだことによってがらりと衣替えをしてくれた。
それに習い、日本人で挑んでみようと思った。
と言うことでの島崎藤村の『破壊』。
本当はそれだけが理由ではなくて、こういう定番的な作品は読まなければいけないという意識が私は強い。
便覧には必ず名前があり、誰もが知っている名著たち。
本好きならやはりそれを体感しないわけにはいかない。
だから、”いつか読もうと思っていた”のだ。
それが行動に移ったのは「赤と黒」で人間に存在する階級的な柵を明示されて、興味が呼び起こされたから。
つくづく本というのは珠玉つなぎである。



部落育ちの青年が己のその素性と葛藤する物語。
ここで描かれるのは、「差別」である。
現代の、それも都会で生活を送る私にとって、「差別」というのはそれも先天的な生まれによって被る差別というのはとても遠いもののように思えてしまう。
だからこそ、この本に私は衝撃を受けた。
この中では主題であるからこそ、「差別」という存在をひとつの要因ではなくて物語の流れの要として大きく描いている。
現在の私たちにとっては差別的な思考は公言することもはばかられるような一種のタブーとなっている。
しかしながら、この時代にとってはそういう存在は”当然”なのだ。
それを抱くこと自体に”悪”と言う要素すらない。
だから容赦がない。
けして、細部にまで執拗に描いている生々しさはなく、誇張も比喩もないあっさりとした丁寧な文を藤村は書く。
それはとても穏やかで、薄いフィルターを通してその現場に居合わせたかのような感じをこちらに与える
が、それだけにすうっと入り込んでくる現実感がある。
いわれのないがゆえにその偏見を解くのは重い。
そして”差別”が悪であると下地から耕さなければいけないというのは私にとって驚くべきものだ。
今こそ、それは初歩的な考えだが、それすらこうして歩まなければ生まれない思想だったのだ。
当然と言えば当然だが、社会の成熟が自分の身にもすでに無意識にしみこんでいると思えば感慨深い部分もあるものだ。
主人公はその差別にひたすら苦悩し、ほんとに情けないぐらいに悩み、みもだえ苦しみ、おびえる。
「ぼっちゃん」の主人公と比較すると、とても同時代の物とは思えないぐらいで、正直、人によっては丑松にいらだちを感じることもあるだろうが、それこそ現実感なのではないだろうか、と私は感じた。
後書きで野間宏は、
「人間の平等を説く小説としては丑松は逃げるのではなく戦うべきであった。
そして、丑松や猪子はその差別と戦う存在としては己の生まれを卑下しすぎである。」
と書いているが、私はそれに疑問を持った。
本当にそういう立場にさらされた存在にとってはその苦しみは絶対になる。
それは時代をしても言えるだろう。
彼らが己が卑しい存在であると認識するのは、現実の深さを持たせると思う。
差別をうち破るヒーロイズムは物語の美化にしか他ならないのではないだろうか。


『破壊−
なんという悲しい。壮しい思想だろう。』


人はそこまで強いのだろうか、
”人間は平等である。”
それはそうだ、区別はあるが差別はあってはならない。
でもそれはされない存在である私たちが持つことのできる認識であって、それにさらされる存在にとってその恐怖は本当に重い。
これが現実を知る藤村の限界だったのではないだろうか。
先ほどとは逆説的になるかもしれないが、包み隠されたとはいえ「差別」は撲滅されていないのだから。



重い題材の中に、物語のおもしろさをしっかりと持った物語だと思う。
イメージは湿っぽい退屈な共感をたれる物語、であったが、いざ触れてみると、社会と人の心理を程良く組み込んだバランスの良い物語だと思う。
読んでよかった、しかし重い、めんどくさいとかではなくて、
題材がね。


読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文士危うきに近寄らず
感想投稿日 : 2009年3月24日
読了日 : 2009年3月24日
本棚登録日 : 2009年3月24日

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